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[良い点]
わかる(タメ口)
こういう議論好きです^ ^
[気になる点]
すっげえ的外れな意見で個人的ないちゃもんなんですが賢いである愚かであるという判断は結局のところ相対的にしかできないのではと。そこに絶対的な指標があるのならともかく…

学歴への愛情で述べてる「既存の体制の価値観」の部分で言えばソレを否定する事で新しい方面への扉が開くことが私の目にする本ではしばしばですが裏を返すと何かしらの天啓を得て扉を開いた人はいないまでにしろ少ないことがわかりますし、独創性で述べてる超越的な視点では独創性がないと言うのも例えればそれは全知全能の神とソレ以外を並べたらという相対的な話になりますゆえうわあすげえいちゃもんつけてるぞこいつ忖度しろよ。

なんかこういう議論は例え話をすると議論の内容が虚無と化すから嫌いです(掌返し)
[一言]
はぁ〜のうみそがとろけるのら。
まぁそもそも賢いである愚かであるを散々仮定というか「こういうものだ」と述べてるところに「いやそうはならんやろ」って言うのはナンセンス通り越して妨害行為なんですけどね!!!!!!!!!!!!
  • 投稿者: 御早う
  • 2018年 11月12日 09時48分
 御早う様、ご感想ありがとうございます。


> わかる(タメ口)

 だべ? (地元のタメ口)


> 賢いである愚かであるという判断は結局のところ相対的にしかできないのではと。
> そこに絶対的な指標があるのならともかく…

 動物はみんな同じくらい足が速い、と言うことはできませんよね。
 「足の速さ」という表現に特殊な文脈を当てれば当然に言えますが、普通無意味だからです。
 ある状況を利益と定義したり、何らかの物質的な属性を幸福の要素として定義すれば、それを達成するために有用な人材と、比較的にそうでない人とを考えることはできます。
 なので、利益を達成するのに有用な思考力を「知性」と呼ぶなら、与えられた文脈でその優越は言えます。
 賢そうだけど愚かな人やその逆はありえますが、足が速そうだけど遅い人やその逆がいることと変わらない。事実として足の速さがあるように、賢さもあるということです。
 実際問題、何を「知性」つまり賢さや愚かさと見なすべきかは多様です。実に様々な意味での知性がある。
 しかしそのことは、「相対的」とか「絶対的」ということではないと思います。
 相対的云々と言うと、まるで知性(の優劣)について論じることが本質的にナンセンスという意味あいを持つ気がしますが、それぞれの文脈において知的優劣は実在であり、それを主題とする議論も正当だと考えます。
 まあ、本文は結局、知性の一例をもって、「IQが20違うと話が通じない」ということの証としたに過ぎません。「IQが20違っても話は通じる」という命題への可能な反例の一つでしかないとは言えます。


> 「既存の体制の価値観」の部分で言えばソレを否定する事で新しい方面への扉が開くことが私の目にする本ではしばしばですが
> 裏を返すと何かしらの天啓を得て扉を開いた人はいないまでにしろ少ないことがわかります

 私は、直観的に事実を見抜いた人を見たことはないので、「天啓」はないと思ってます。
 ここで「直観的に」と言うのはつまり、「推論によらずして」、ということです。
 人間は無意識にもたくさん推論しています。生まれて以来の膨大な記憶に基づいてです。
 優秀な人の思考を下から見ればほとんど超能力ですが、実際には物理法則に沿って非常に順当な手順を踏んで成果に至っていることが普通だと思います。誤った仮定をしてそれを棄却することを、どんな天才もしている。


> 超越的な視点では独創性がないと言うのも例えればそれは全知全能の神とソレ以外を並べたらという相対的な話になります

 もちろん。そんな意味で書いたと思ってます。
 私達が自覚する直観は私達が自覚するよりも、順当な推論にすぎない。奇跡的に実現されたように見える多くの事柄は忘却した努力と訓練に基づいているのですよ。独創的なアイデアなんて、もう一つ上の社会階層に行けば陳腐ということはあります。逆に言えば、どんな愚かな人の平凡な思いつきであれ、神?から見れば同等に尊い。
 自覚的には、私達は己において固有である。社会的に客観的に見れば、誰もが大いにありふれていて交換可能である。そんな認知バイアスに言及したに過ぎないとは言えるでしょう。
 自分の頭で真剣に考えた考えであれ、一つ上の人から見れば、見飽きた「パターン」に合致すると思います。「あーはいはい」って言われちゃうんですよ。


> なんかこういう議論は例え話をすると議論の内容が虚無と化すから嫌いです(掌返し)

 「例え話」とは?
 過度な抽象化、早まった一般化みたいなことでしょうか。下に言うように妥当だと思ってます。


> はぁ〜のうみそがとろけるのら。

 とろけるのら〜。うぴぴ♪


> まぁそもそも賢いである愚かであるを散々仮定というか「こういうものだ」と述べてるところに「いやそうはならんやろ」って言うのは

 知性という多様なものについて二項対立的に断定的に言及することは、妥当たりえない、という印象は理解します。
 でももっと正確にもっと事実的に記述したら理解できるのかって話ですよ。
 誰にも理解できないだろうと思って、こういう形式にしてるという面があります。妥当な判断だと思っています。反省はありません。


> 妨害行為

 全然大丈夫ですよ。思ったこと言えばいいんですよ。
 それが間違ってたり、妥当なのに否定されたりしても自然なことです。それが建設的な議論のあり方だと思います。
 日本人は議論が苦手な気がする。発想や主張を述べることと、自身の自我や社会的ステータスが絡み合ってしまっている気がする。
 全ては仮説であり仮説は間違っていていいんですよ。人間の営みなんて全て仮説であり、全て間違った仮説です。宇宙の隅に生じた猿が、高級な真理に到達するわけないですよ。
[一言]
 はじめまして。
 感想がほぼ自分の考えを先生にぶつけている事になっている事をお許しください。
 鈴木美脳先生のエッセイに深く感銘を受けています。

 私は学生時代に行ったIQテストで千人に一人位の高さを出し、天狗になっておりました。
 大人になり、愚か者であったと気付いた時には既に時遅く愚か者の人生を歩んでおります。
 私には幽霊も妖怪も見えません。
 幽霊はともかく妖怪は子供の時からずっと見たいと思っておりますが、未だ見る事は叶いません。
 IQが高いと言うのは口を開けば「幽霊や妖怪が見える」と公言しているのと本質的には変わらない事を理解した瞬間、自分が如何に愚かだったのかを痛感しました。
 IQテストとは「如何に自分が他人とずれた視点で物事を見ているか」を測るテストに過ぎないのかを現在は感じ続けています。
 IQは、たまたま天から授かった預かりものであり、賢さにも愚かさもそれを如何に運用するかだと思いました。

 私は幼い頃より他人から「物事を斜めに見る」と言われ続けてきました。
 自分は「真っ直ぐ見ている」のにと憤慨していました。
 今後は他人の「真っ直ぐ見る」がどういうものかを考えながら愚か者なりに人生を歩んで行きたいと思います。

 私の愚考に先生にも是非考察していただきたい事があります。
 まず一点。
 私は周囲が言う「天才も二十歳過ぎればただの人」という言葉に常に疑問を抱いています。
 子供の時に求められる天才性とは他人の敷いた道を如何に速く走るか、であり、大人に求められる天才性とは如何に自分で新たなレールを敷くのか、では無いのかと考えているからです。
 「専門について」が先生の答えかも知れませんが。
 次の一点。
 本物の天才とはどういうものか、です。
 本物の天才と如何に戦うか、と言った方が正しいかも知れません。
 偽物の天才は自分を天才と思った瞬間に凡人へと落ちるものとも考えております。
 本物の天才は自分の天才性に気付けないと私は感じているからです。
 本物の天才にとっては自分のやる事とは当たり前の事だからだとも考えています。
 天才は努力に無駄が無いだけで、常人と同じ以上に努力をしていても凡人にはそれを努力と見えないからだとも思います。
 私はこのような相手達に現在戦いを挑み始めました。
 正直に負け戦の連続です。
 負けて当たり前の戦いですが、悔しさはあります。
 どうやって戦えば良いかがまるで思いつかず、試行錯誤を繰り返す愚か者です。
 現在は愚直に毎日続ける事しか思いつきません。
 これも「専門について」で大方の話が付きそうです。
「こんな事を考える時間が無駄だ。常に戦いの事だけを考えろ。」
 と先生の声が聞こえてきそうです。
 この二点について、先生の更に詳しい考察をいただければ幸いです。

 私は愚か者ですが、外見は最低限の愚かな人を演じつつ、中身は常に賢い人でありたいと努力していきます。

 最後に私が実体験しているIQ20違うと話が通じない実例を挙げさせていただきます。
 母とは30秒で済む話が、父とでは30分掛けて話しても理解してもらえません!

 素晴らしいエッセイをありがとうございました。
 何遊亭万年様、ご感想ありがとうございます。

> IQテストで千人に一人位

 すごいですね!
 一般論で言って、あるIQテストを受けた時ある順位(分布位置)だったということと、妥当なIQテストを受ければいつでも平均的にその順位が期待できるということと、いわゆるIQに限らず、知性一般においてその順位だということは大いに異なりはするでしょうけれども、大雑把に言ってしまえば、知的才能において千人に一人の優秀性を持っていると考えられるでしょう。ならば、無作為な他者らの中にあって、『「物事を斜めに見る」と言われ続けて』しまうことは、まあ自然なのかなと思います。なので前提として、その優秀性が実在しないとか、無価値だとか考える必要はないのでしょう。

 しかしまあ、IQテストは、優秀性を自覚する論点としては特殊ではあるかもしれません。
 例えば、学校での成績が良ければそれは自尊心になるし、名門の学校に合格した肩書きもしばしば自尊心の一部となる。社会に出れば賃金の格差はありますし、異性に好意される程度もある。学歴も良く報酬も高い人生ならば、IQテストの高得点も、そんなこともあったという程度のことでしょう。
 一方で、学業成績については良い学習塾に通わせてもらっていた優等生より劣ったが、環境よりも才能を問われるIQテストではずっと勝る成績が得られて、日頃内心に感じていた自分の優秀性が日の目を見たと感じられることもあるかもしれない。
 IQテストという論点はそんな傾向がある気がします。何遊亭様がどうだと邪推するわけではなくて、実生活で何かうまくいっていない人が所得を誇ったり、所得に不満な人が学歴を自尊心の支えとしていたり、勉学でもっと上に行けたはずだと思っている人がIQテストの成績を意識しつづけたりする。
 要するに、IQテストのIQは、知性や優秀性の尺度としてはごく特殊だろうと思います。
 しかし、単に「ずれた視点」だけを表すとまで言えないでしょう。論理的な抽象的思考力の才能を確かに示す指標であり、知性の一種ではあるでしょう。

 またそもそも、IQテストの本来の用法は、才能の劣る児童に適切な教育を与えるための選別のツールだろうと思います。平均以上の優秀性を測る道具として、科学的な合意がどの程度あるのか知りません。全くないことは全くないとは思いますが。

> IQは、たまたま天から授かった預かりものであり、賢さにも愚かさもそれを如何に運用するかだと思いました。

 そうですね。
 素朴に考えると、最も大切なのは、本人がどれだけ幸せな人生を送ることができるかだと思います。
 その意味では、普通の人間に生まれることが大いに武器であって、特殊な人間に生まれたことや、特殊と言えるほど優秀に生まれることが、幸福に繋がるかは危ういですね。その助言が、既存の学校教育の価値観には(何か必然的に)欠落している面があるかもしれません。
 漫画や小説で英才が主人公として愛好されるのも、凡人が凡人の立場から気晴らし程度に愛好しているというところはあるでしょう。誰も本心では、そこまで特殊な人間に生まれたいとは思っていないところがある。それなのに、優秀に生まれついた者がそれを眺めて、優秀性の価値を誇りにしても、騙されてしまったような結果にもなる。英才が称賛されるのは、物語世界でだけであって、現実世界ではそうではないというか。

 しかし幽霊や妖怪とまで、相対主義に傾けば言いすぎな気もします。
 英才の直観は凡才の直観から見れば妖怪談義であると。では逆に、凡才の直観も英才の直観からすれば妖怪談義だということでしょう。凡才のほうがずっと数が多いから、凡才の妖怪談義こそが世間では真理として通用し、その種の妖怪は人間と呼ばれると。そんな相対主義かなと思います。
 つまり、「本当に正しい事実を本質として見抜く眼差し」といった言明は、虚しいと見なされる。世には優越する正しさや事実など存在せず、正しさとは常に相対的であり、事実について最も重要なのは多数決だと。
 しかし、凡才には正しい事実がわからないことは実際にあります。例え話ですが、事実優秀なエリートが中枢にいる国家であっても、大衆全体が衆愚と化したら、世論の不見識に翻弄されて、国の対外的競争力は失われていくでしょう。それが本文で触れた、「部分最適」と「全体最適」の葛藤です。結局、知性の価値は、「本人の人生の幸せ」に帰着できないということです。
 誰もが見えない妖怪が事実として存在して、その妖怪を見ることができるごく稀な才能が社会を救う結果になる状況もありえるわけです。だから、「物事を斜めに見る」といくら言われたとしても、自分の視点こそは本質を突くものだという信念は、心の隅に保ってもよいでしょう。

 なお自分は幽霊や妖怪を見たことはなく、見たいとも感じません。

> 「天才も二十歳過ぎればただの人」

 「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」みたいな感じですかね。
 それは多数派の生活実感な気がします。
 地元に名を轟かせた美少女でも、歳をとったら少し綺麗なオバサンくらいで、あえて注目されないかもしれません。
 社会人になれば生活力を問われますからね、いろんな意味で生活感出ますよね。スーツや作業着を着込んだりして。でも逆に言えば、お仕着せの作業着着て働いている天才が世間には無数にいるということであり、世間もそれをさほど侮ってはいない気がします。

 子供や若者には周囲は期待しますからね。「末は博士か大臣か」てもんでしょう。
 でも実際、博士はともかく大臣にはそうなれない。わかりやすいすごい地位に行けなかったら、職場で有能でも世間からぱっと見は「ただの人」ですから、まるで神童もただの人だと。
 その程度の感覚と思っているから、私はその言葉にさほど違和感は感じません。

 逆に、歌手になりたいんだ、って言う幼児に、「無理無理無理無理お前にゃ無理絶対」って否定するだけだったら毒親な気がします。子供は全員天才として、若者は全員才子として見る認知バイアスは、社会的な合理性かなと思います。
 だから私は、子供はみな天才だと思ってるし、大人もそうだと思う。
 しかし実力を問う意味で残酷なことを言えば、ほとんどの人は生まれた時から凡才であり、どんな努力や環境によっても天才には決してなれないとも私は思っています。本当の天才なら15歳で世界一の水準に接しているはずだし、そうでなければ15歳時点では凡才だということで、15で凡才なら100まで凡才だと思います。つまり神童は稀だと思う。でも成功するまで凡才と見なされた天才は過去に無数にいますから、他者の才能を測ることなんて結局は不可能だと思います。意欲のある若い才能に可能な範囲で機会を与える以上に合理的な戦略は特にないと思います。

> 子供の時に求められる天才性とは他人の敷いた道を如何に速く走るか、であり、大人に求められる天才性とは如何に自分で新たなレールを敷くのか、では無いのかと考えている

 受験生時代に問われる優秀性とは学業成績であり、社会人として企業から求められる優秀性とは、より総合的で創造的なものである、という面ではそうかもしれません。
 また別の視点としては、子供の頃にこそ独創性が尊ばれ、社会人としては、普通のことをいかに普通に正しく成し遂げるかが問われて、独創性あるいは自我など軽視される面もあるかと思います。
 「天才」という言葉のイメージによると思うのですが、人と出会うたびに周囲を驚かせるような人物って、生活のためにスムーズに仕事したいだけの人達にとって面倒な感触もあると思います。子供も、絵がうまいより、勉強できるほうが家族や親族を安心させるでしょうし。結局、生涯にわたって「天才性」などあまり求められていないという面もあるかなと。

> 「専門について」が先生の答えかも知れませんが。

 本文の「専門について」という項は、私の本心の主旨としてはやや蛇足です。
 専門で多く努力した者が天才となるといった論点ですが、私は上記のようにもっと残酷で、才能と努力は無関係だと思っています。雑に「私の答え」を言えば、遺伝子つまり塩基配列だということです。
 しかし世間が考える知的優秀性は学者とか経営者でしょうから、機会費用は重要な論点だと思って、本文の構成にしました。休日はボクシングのこと考えもしないボクサーが世界チャンピオンになるなんて、ありえませんよね。

> 本物の天才と如何に戦うか
> ...
> 私はこのような相手達に現在戦いを挑み始めました。

 面白いですね。よくわかりませんが、安易に応援いたします!!

 無人島で育って水泳ばかりしていた子供が水泳の天才だったとしても、天才性を自覚しないでしょうね。
 自分は魚達より遅いから才能がないと思ってるかもしれません。

 しかし一方、結果から見れば、カメの足じゃウサギに勝てないってのも真理です。
 人間の能力は、尺度それぞれに、頭も身体も、カメとウサギと同様に才能には幅があると思う。
 本当にコアな才能については、圧倒的な差があれば勝敗は覆せないだろうと私は考えます。
 でもたいていは、受けてきた訓練や育ってきた環境の差が実態の大半なのではないでしょうか。

 環境や訓練の差こそ、決して覆せないとも私は思います。
 いくら才能でまさっても勝てない戦いが多い気がする。
 ボロい戦闘機に乗った命がけの天才パイロットも、先進国の最新鋭の戦闘機に乗った凡人から見れば雑魚ですよ。
 そして実社会では、周囲からは、前者が凡才で後者こそ天才に見えます。勝った人が偉いので。
 天才のほとんど全ては誰からも天才と見なされることなく人生を終えていると私は思います。

 人間の脳はみんな凄いと思います。ほぼ誰でも自転車乗れますよね。
 1日で乗れる子もいるかもしれない。でも人生って、学校もそうですけど、そんな訓練を毎日積み重ねるわけです。1年間遅れを取ったら、ちょっと工夫したってどうしようもない実力差が生じますよね。
 だから環境や訓練の格差は怖いですよ。逆に言えば、基礎訓練を疎かにしなければ、力が蓄積されるとは思います。
 少し上はすごく上に見えるものですよね。基礎訓練を重ねれば、不可能だったことが造作もなく行えたりする。
 「試行錯誤を繰り返す」と「愚直に毎日続ける」の両輪は、無敵で最強の戦略だと思いますよ。
 だから私から言えることはありません。

 努力すれば必ず勝てるとは私は考えない。
 才能の格差も、訓練の格差も恐ろしいものです。
 でも事前に才能がないねなんて誰にもわからないはずです。結果から言えるだけでしょう。
 だから、IQテストの実績があれば、それを内心に備えて肯定することも有意義でしょう。
 自分こそは本当の天才だという信念が、事実として道を切り開いてしまうこともあるでしょう。
 撤退する勇気が大切なこともあるでしょうけど、そんなこときっと本人が判断できますし。

> 母とは30秒で済む話が、父とでは

 笑。
 そういうこともありますよね。
[一言]
こういう特性を持ってる人が賢い人、こういう特性持ってる人が愚かな人だよねって感じで書き出してみたのかなーという印象。

こういうのって結構文化を反映してる気がするので、異文化の人とかと接する時にどのくらい使えるのかなってのと、やっぱり私たちが日常的に考えるかしこさ、愚かさとの接合点がどういうポイントになるのかなっていうのが、次に浮かんだことです。

私はこういうの書けないのですげーって感じです
  • 投稿者: gaffiot
  • 2018年 09月21日 13時37分
 gaffiot様、ご感想ありがとうございます。

> こういう特性を持ってる人が賢い人、こういう特性持ってる人が愚かな人だよねって感じで書き出してみたのかなーという印象。

 そうです。
 しかし、無関係の思いつきをかき集めたというよりは、私なりのまとまった理解があって、それをそのような羅列へと落とし込んだ面もあります。

> こういうのって結構文化を反映してる気がするので、異文化の人とかと接する時にどのくらい使えるのかな

 上で「私なりのまとまった理解」と言ったのはつまり、社会や集団心理の因果関係への理解力、という確かに知性の一種類であるもので、知性を語ろうというものでした。そうすることによって、

「愚かな人は愚かにしか生きられず、賢い人は賢くしか生きられない。そして、それぞれが認知する世界は、隔たって異なる。言語以前のレベルで、普段の思考に用いている概念が異なるのである。」

 という、本来は非常に説明しにくいことを、最大限にわかりやすく示せると考えたからです。
 しかしそれは一例を示そうということであり、もちろん、社会的な知性は知性の一種類でしかありません。

 なお、本文について社会的な知性とは、「全体最適と部分最適の矛盾を知っている」程度、具体的には、
「愚かな人々にとっては、賢い人々が嘘を憎むことがわかりにくい。賢い人々にとっては、愚かな人が嘘を許されると思っていることがわかりにくい。」
 などとして論じた論点らを言っています。


 嘘云々といったことは、普通単に、社会的な規範と見なされる事項ですね。
 そういった議論が知性をフェアに論じたものであるか疑問をもし感じますなら、自然なことだと思います。例えばそれは「知性」ではなく「文化」ではないかと。
 実際、そうでしょう。具体的な社会状況を前提せずに社会的規範の正当性は言えません。


 例えば、極端に原始的な世界を仮想してみて、個々人が互いに血で血を洗う闘争状況を仮定しましょう。すると、嘘をつくことを嫌うことは何ら知性ではなく、優れた欺瞞戦術で敵を陽動できることこそ、知性の属性にほかならないでしょう。つまり、そんな「異文化」社会においては、本文の説明のアプローチは効果的とは思われません。
 しかし、そのような無限大の闘争状況は現実には稀です。そのようないわゆるゼロサムゲームは稀であり、「囚人のジレンマ」のように利己的な状況からも社会性は生じます。本文のアプローチはその意味で、現実の多くはゼロサムゲームではないという事実上の前提に依存しています。

 しかし現実の社会にも文化的な感性の違いはありますね。例えば日本や朝鮮は集団主義的であり、一方で欧米や中国は個人主義的だと言われることがある。しかし、個人主義から来る気さくな優しさや人間愛もありますから、集団主義のほうが社会的にまさっているとまで単純化できない。
 それについては、通貨が信用であるように、倫理も信用であると考えると見通しがよくなると思います。
 例えば、地政学的な差異がありますから、日本や朝鮮のような島や半島は、海によって政権が分断されやすく、王朝や政権に文化的な持続性があると見ることはできる。安定した社会においては、ルールを定めて、各々が少しずつ我慢をすることが、有益なリターンをもたらします。水源の利権などについても、もし馬賊が跋扈していたら、話し合いで落とし所を得る意味は小さくなる。
 つまり、人間の遺伝子的な知的才能に優劣がなくとも、置かれる社会の立場や資源によって、社会で規範とされる価値観は大きく変動する。例えば嘘を嫌う程度が異なる。
 しかし逆にそれは、囚人のジレンマのような本質的には機械的な信用形成の作用によって、それぞれの文化圏の文化が結果的にもたらされているだろうという考え方にもつながります。

 あらゆる歴史的な民族にあらゆる文化的習慣があります。しかし、その地域で前提的な価値とされている文化的な習慣を改めて検討すれば、そこに合理性を見いだせることはしばしばです。象の鼻やキリンの首の合理性を説明可能なことと同様です。
 そういった文化的慣習は、朝に太陽に向かって踊るといったことに限らず、現在の日本人の人間関係の形成の仕方のバランス感覚といったものについても、色濃く存在すると考えられます。嘘やごまかしを嫌う程度も、例えばその一部です。遅刻を嫌う程度とかもですね。
 そういったものは、多くの人にとっては単に習慣であり、無自覚だと思われます。一方で、人によっては自覚的で、そこに程度差があると考えられます。

「愚かな人ほど、自らの日常における処世術に、普遍的な価値を見る。賢い人ほど、妥協を強いられるにしろ、全体最適と部分最適の矛盾を知っている。...愚かな人にとって、嘘をついてでも利益を求めることは、自然なことであって恥じるに値しない。賢い人にとって、嘘をついてでも利益を求めることは、紳士協定に違反する恥辱である。」

 と本文に記載しましたことは、そのような意味でした。
 ゆえに、社会規範が本質的に合理性を指向したものである以上、いかなる社会においても、何らかの社会規範への愛好を、知性の属性として指摘することは可能です。
 よって、ゼロサムゲームではない任意の文化圏について、当該社会の社会規範を何らか例として持ちだせば、本文の結論を同様の構造で導けると考えます。
 なぜならば本文はそもそも、部分最適性と全体最適性という、非常に根源的な属性に論拠を置いているからです。

 社会人の職場でも、個々の従業員の当面の利益と、会社全体の利益と比較できますね。従業員を使い捨てずスキルアップを図ることは全体最適方向の選択肢です。また、従業員も賃金の増大は欲するものの、設備投資などが減少して会社全体が対外的競争力を失うことは、全体最適性のリスクとも思われる。社会規範とまで綺麗事の話題でなくとも、利害の重複するチームについて、戦略に関する全体と部分の利益の葛藤は必ず存在します。

 よって私としては、本文の主旨は異文化についても妥当だと考えます。しかしそれはもちろん、必ず首肯されるだろうという楽観ではありません。


> 私たちが日常的に考えるかしこさ、愚かさとの接合点がどういうポイントになるのかな

 いわゆるIQテストについては、社会的な知性を測るものとは言えませんね。論理的な思考力の一部を測るものが代表的だろうと思います。極端な話、(他者の心理を考えることに疎い)いわゆるアスペでも高得点を取りうるでしょう。アスペは実生活ではしばしば愚かだと見なされるでしょうが、例えば数学がとても得意なら、その点については賢いと見なすほかありませんね。
 数学力の優劣であっても、対話の不自由は生じうるでしょう。しかしそんなことを言い出せば、知識一般についてそうですね。あえて論じるべき論点といって生じません。
 本文が社会的な知性に言及したのは、知性の一種類を取りあげるものでした。それを選んだのは、知識の優劣を越えた、価値観の根本的な変動を例示できるからです。

 とはいえ、私たちが日常的に考えるかしこさは、IQテストのこととは思われない。
 もっと総合的でしょう。しかしもっと、実利に根ざしている点も無視できない。

 例えば、アップル社の故スティーブ・ジョブズ氏は、成功したベンチャー経営者ですが、彼を全くのクズと見なす人はいるかもしれないが、全くの愚者と見なす人はいないでしょう。なぜなら、金儲けは無数の人々が競争していて、彼はそこで結果を出したからです。
 学校で教える学科も、ほとんどは単に職業訓練です。
 テトリスというパズルゲームがありますが、もしテトリスの得点に応じて石油が湧きだす星にいたなら、学校はもっぱらテトリスを教え、民衆はテトリスの優劣こそを知性だと認識して、他者を敬ったり蔑んだりするようになるでしょう。
 私は、現代社会で知性と呼んでいるものは、単にそのような理由で知性と呼ばれているにすぎないと思っています。

 一方で、直接に接しますと、肩書きや経済的実績ではなしに、他者の賢さや愚かさが具体的に感じられることもあると思います。
 教科書的な知識は多いが、実際の問題に対しては具体的な想像力に欠け、結局、応用力に万全ではない人もいるでしょう。逆に、非常に具体的に、結果的にうまくいくように、人々の心理も含めて見通して議論できる人もいるでしょう。
 そのような、近くで長く過ごして感じられる知性というのは、アスペ的な傾向が弱く、本文で話題にした社会的な知性に大いに連なるものだろうと思います。
 逆に、そこまで近くで関わることなく、技術的な成果や経済的な成果のみ求める場合、ずっと形骸化した知性が知性と見なされることもあるでしょう。私たちは誰しも社会の部分にすぎず、全体最適性よりも部分最適性が優先される場合は、例外であるよりも日常だからです。

 要するに、世間一般が知性と見なす知性については、私の感覚としては、
「愚かな人ほど、権威主義に立つ。」
 の一語でほとんど言い尽くされていると感じます。

> 私はこういうの書けないのですげーって感じです

 ありがとうございます。
 私も、誰の文章を拝見しましても、自分には書けないなと感心しております。
 しかしそのように言っていただけると、書いてよかったなと嬉しく感じます。
[良い点]
愚かな自分でも最後まで楽しく読めました。低IQに対する配慮感謝
[気になる点]
価値観権威主義学歴のところは自分の経験と違うのでわからない また強い戦士は敢えて戦いに臨むということはあるのではないか 解読能力なくてすいません
[一言]
私はネコに会えばネコに話し掛け、犬が来れば犬に語りかけるこれって意志疎通になりませんか?
 そうだよ様、ご感想ありがとうございます。

> 愚かな自分でも

 これはこれは謙虚なお方。

> 楽しく読めました。

 よかったです! ありがとうございます。

> 価値観権威主義学歴のところは自分の経験と違う

 なるほど。どう違ったのでしょう。
 賢い人ほど権威主義だと感じたり、あったのかもしれません。
 しかし本文で「賢い」と表現してるものは、いわゆる「賢い」とずれてますから。そのへんの行き違いかもしれないなあ、とも思います。

> 強い戦士は敢えて戦いに臨むということはあるのではないか

 敢えて戦いに臨むことが特に価値を伴うのは、倫理的な意義がある場合かなと思います。
 強い相手を見て、その強さゆえに挑むということもあるかもしれませんが、論点としては従位でしょう。バトル漫画っぽいというか。
 そして、実際には強い相手を弱い相手と侮って挑んで負けたら、あまり褒められたものではないでしょう。
 この最後のケースを話題の範囲として、実力の優劣がもたらす影響や構造を論じたのが本文だった、とは説明できるかもしれません。
 私自身は倫理的な価値は好きですから、強い相手とは戦わない、負ける戦はしない、という主義はとってません。誰もが逃げる中で、優れた戦士こそ敵に立ち向かうシーンは、日常の中にすら多く潜在していると思います。

> 私はネコに会えばネコに話し掛け、犬が来れば犬に語りかける
> これって意志疎通になりませんか?

 んんっ!? 何か哲学っぽいですね。
 的外れになるかもしれませんが、私の観点からコメントいたします。

 少し冗談になってしまうかもしれませんが、IQの高い犬猫とIQの高い人間とにおいて対話が成立するのだと言ってみてもいいかもしれません。
 つまり、IQの低い者は、物事の表面を見て、対話を諦める。
 IQの高い者は、言語以上の様々な情報を感覚できるために、互いに対話を試み、感情を含むいくらかの意思疎通を行う。
 外国旅行などでも、互いが母語で話しても、なんだか意味はわかるとも言います。
 スキンシップや愛情もまた一つの言語ですから、動物とのコミュニケーションは当然にありうる。人が言葉を放つ本質は、その時の内面の感情やイメージでしょうから、それが何らか伝わることもまたあるでしょう。
 犬猫には人間のような言語そのものを操る知性はないとは考えられますが、知性の基準として言語は瑣末なものです。例えば、犬より恩知らずな人間もいますしね。(笑)
[一言]
「話が通じない」というのは、数学の問題の解説を読んで理解できるかできないかの差というのが、個人的な認識です。
省略していい領域の認識がズレているのだと。
  • 投稿者: うんこ
  • 2018年 05月30日 11時43分
 ***様(笑)、ご感想ありがとうございます。

 数学。数学的な記述は本当に、訳の分からなさが実に分かりやすいですよね。
 数学的な記述の理解しにくさの一つの原因は、「定義が動く」という性質にある気がします。
 数学って、リンゴが1でバナナが2であるもとではバナナーリンゴはリンゴですよね。リンゴが+でバナナが×なら1リンゴ2バナナ3は7ですし……。翻って、自然言語においては普通、リンゴならリンゴだし、バナナならバナナだと言えます。
 ここで、「バナナーリンゴ=リンゴ」と言及した時に、それを囲っている定義、「リンゴが1でバナナが2」は、通称「文脈」などと呼ばれますね。つまり数学では、文脈を動かす能力が求められているのかもしれません。

 自然言語ではない、人造の形式的な言語の一例として、プログラミング言語が思いあたります。プログラミング言語で書かれたプログラムも、その言語をまだ学んでいない人にとっては、意味不明の記号列です。
 プログラミング言語それぞれは、「チューリング等価」なんつって、機能的には等価とされますね。歴史的なC言語などと現代的なPython言語などの違いは、抽象性の程度だと言われます。細部のパフォーマンスチューニングを重視してきた歴史的な言語に対して、その後の言語では、次第に数学に近づいているとされます。(その意味で人気があるのは、PythonよりもHaskellかもしれません。)
 未だ脆弱な計算機で、単に集合論を実現するための様々な方法が、プログラミング言語だと言われることもあるようです。

 全称記号や存在記号で日常会話したら、記述が冗長になってかえって分かりにくいですよね。
 つまり、徹底して冗長に書くと、客観的には確かに間違いがないのですが、人間の脳もまた未熟な計算機に違いないので、実際には分かりにくい。割に変化がない部分はパターンとして文脈に格納し、まさに「省略」することで、計算量を減少させ計算可能にする。
 その意味では、家庭の運営も企業や国家の経営も、人のなすところ全ては、言語デザインだと言えるでしょう。

 本文に、
「賢い人は、文脈を外れて見える奇異なことを言うことがある。」
 とか、
「言語以前のレベルで、普段の思考に用いている概念が異なるのである。ゆえに、内面的な文脈を共有する量が、同じ知性の人と対話する場合より少ない。」
 と記載しましたことは、実にこの、「文脈」についての議論でした。

 その意味でこれは、数学的な記述に通じる論点ではある気がします。
 しかしまた、例えば文系の文献であっても、一般向け書籍を超えるものならば、文脈を意識した議論は珍しくはない気もします。
 文脈を意識する思考は、そうではない庶民的な日常生活に比べれば、「抽象的思考力」を問われているのだと言えるかもしれません。
 それはつまり、社会常識によって一見当たり前とされている一つ一つを、自分自身の頭で考えなおしてみる態度です。

 「人を殺すことは悪いことだ」と教師が言ったのに、「なんで?」と答える子供に対して、なんでもなにもない、などともし威嚇するならば、それは野蛮時代の権威主義だと思います。
 悪質タックルなんて、猿でもしませんよ。
 頭からっぽのパワハラ国家に何より必要とされているのは、文脈を相対化する思考能力だと思います。

 しかし数学は私は全く分からないので、特別な方法論に気づけばバリバリ理解が進む、ということもないのでしょうね。良い先輩に質問し、良い参考書を複数眺めてみることが、基本的な方法なのでしょう。繰り返し手を動かして記号の操作に慣れたり。
 数学は、(少なくとも初歩的な範囲では?、)正しい議論に権威があるからいいですよぉ〜。
 政治思想なんて正解(とされている正解)が無いですからね。
 未だに、迷信と魔女狩りそのものの世界。知って得する事実がない。

 本文に、
「論理的に話すことによって、愚かな人でも理解でき、さほど愚かでなくても退屈を感じるが理解できるようにする。しかし実際には、愚かな人々は、想像を絶して、論理的な思考力を持っていない。ゆえに、論理的な説明を与えてやろうとすることは、多く、感情的な暴力によって報われる。」
 なんて書きました。
 文脈の無知で理解に齟齬が生じるのみならず、愚者には部分最適の利害追求があるので、その点も無視しがたいなあ、と感じたのでございました。
 だからこそ、「賢い人が愚かな人を理解することも難しい」、と。
[一言]
文脈を読めていなかった見たいですね。すいません(笑)。

自身と比べたら非文明的であり、狩猟民族である事を示すマイルドな表現方法だと思ったのですが残念です。

自然崇拝と太陽崇拝は同時発生だけど後に斡旋したのが一神教というイメージです。自然崇拝にアニミズムがくわわったのが多神教とか。
自然崇拝は自然と付き合う為の取り決めの集まりで文化度高くて、太陽信仰は低いという偏見があります。単純故にそこに価値を置きやすい訳で、生死の答えが有るから。自然崇拝の太陽信仰は別のカテゴリです


  • 投稿者: 猫鍋EX
  • 2018年 04月05日 02時27分
猫鍋EX様、再びのご感想ありがとうございます。

> 自然崇拝は自然と付き合う為の取り決めの集まりで文化度高くて

まあ確かに、環境保護思想の現代における高まりを考えると、「自然と付き合う為の取り決めの集まり」は文明度高そうですね。

> 単純故にそこに価値を置きやすい訳で、

まあ確かに。個人的に一神教には好意的ではなくて、古典的なアニミズムに愛着を感じているので、一神教を無条件に文明度高いとは見なしません。

しかし近代大衆主義批判というのはしばしば文明史に進歩のみならず退歩を見ますし、私もそんな立場です。退歩が一神教を生じたという見方もあって、私もそんな立場です。

まあ現実の宗教史の実態は極度に複雑でしょうから、あまり抽象的に理論化して優劣を言うことも危険かなとは思います。
[一言]
自分の文明のイメージが何でもないことの重なりなんですよね。だからこの天才にとって地位的な価値も無価値になるんだと思います。覇王的なモノも同じく無価値なのでしょう。だから原始的な生活の意味でウホウホ、1番原始的と思われる太陽崇拝にしました(自然信仰は文化度が高いイメージ)。こんな妄想してしまうと、IQ20程度じゃ凡人と似非天才を比べてる様なものに想えるんですよね。80差を照明するものであって、20差は次元が違う気がします笑
  • 投稿者: 猫鍋EX
  • 2018年 04月04日 10時25分
猫鍋EX様、再びのご感想ありがとうございます。

> 文明

ところで、人類について文明の段階が歴史的に後期であるほど人間個体の知力もまた優れているとは、基本的には言えると思いますが、どの程度言えるかはまた別問題かなと思います。

> 太陽崇拝

むしろ動物的なアニミズムの多神教があって、太陽崇拝の抽象化を経て一神教が現れた、という順序に考えるほうが自然な気はします。しかし「ウホウホ」という表現は、やはりアホキャラっぽく読めます。

> IQ20程度じゃ凡人と似非天才を

別の方への返信で書きましたが、IQ15の差が(分布で言えば)偏差値10の差に相当するようです。例えば偏差値40の生徒と60の生徒は普通に学校生活で接触すると思いますが、IQで例えれば30違うと言えるでしょう。ですからもちろん、本文の主旨は「天才」がどうということではないです。

しかし本文で示した例えば

「愚かな人が自分にとって都合よく少しだけ自己欺瞞した時、その姑息な認知は正確に見抜かれている。」

といった現象が(高確率に持続的に)起こるのは、知力にかなり差がある場合でしょう。

他の方が二項対立だとか二元論だとか指摘されたように、本文は「賢い人」・「愚かな人」などとシンプルに論じています。つまりは、知力に多大な隔絶がある場合に明らかに立ち現れる構造を示すことで、差が僅か20の場合にも、「賢い側から愚かな側がわかりにくい」場合があることを論証しています。

なのでご指摘の通り、IQが20違うと……、という雰囲気の本文ではないことは確かだと思います。しかしまた、『IQが80違うと話が通じない?』という表題にしますと、「そりゃそうだろ」と反応して終わりな気もいたします。
[一言]
推敲され過ぎてて、無学の私は蕁麻疹が出てきました。
半分も読み取れてないかもだけど、凡人がスーツを着て葉巻を加える中、天才がウホウホ太陽を見つめている光景が出てきました。今回の対比をIQ20程度の差に当てはめていいものか分からなくなってきました。自分が極論過ぎるのかなーと思ったりしています。


  • 投稿者: 猫鍋EX
  • 2018年 04月03日 22時29分
猫鍋EX様、ご感想ありがとうございます。

> 推敲

正直、一息に書いた感じはあります。入り組んだ話題なので、いじっても難しくなるだけかなと。

> 無学

無学っぷりでいうと、なかなか負けませんぞ。

> 凡人がスーツを着て葉巻を加える中、天才がウホウホ太陽を見つめている光景が出てきました。

ご指摘を解釈しかねます。先日別の作品を投稿して、「言葉」の表現力の低さを論じたので、もしかしてそちらを閲覧くださって、言葉が無ければ原始人みたいな感じなのでは、みたいな類推でご指摘くださっているのかな?、と考えてみました。

そんな角度で読むと、「スーツを着て葉巻を」は肯定的なイメージなのかなと思います。凡人のほうが実質的に幸福なのでは?、という方向のご指摘を含むと解釈するなら、私の本文は特に、そのようは命題を否定したものではないと言えると思います。(本文で繰り返し言及した通りです。)

> 今回の対比をIQ20程度の差に当てはめていいものか

まあ、ウホウホ言っている人はあまり見かけない気がしますから、知力の分布で例えればIQ20くらいなのではないかと思います。(差が80。) あ、「話が通じない」の意味で「ウホウホ」なのでしょうか。確かに通じにくそうですが、現代人が原始人の思考を類推することはそれなりに可能な気もしますね。大声で怒りを表すとか。

> 自分が極論過ぎるのかなー

あなたは極論過ぎるのでは、とはよく指摘されますが。私が。(笑)
[一言]
損してる賢い人ってギフテッドのことですかね
受け皿のないレベルの天才は0.1%もいないでしょうし、まあ無視されますよ

民主主義的には票にならない意見は無視されますので、変えたいなら世論に訴えて、愚かな99%の人間を動かすように活動していくしかないですね

今の世の中、努力は必ず報われるなんて思ってる愚かな人なんていないんじゃないですかね
愚かな人なりに努力するのが立派な社会人だと思いますよ
アルファ様、ご感想ありがとうございます。

> 損してる賢い人

何のお話でしょう。本文についてのお話ではない気はします。感想での他の方とのやり取りを踏まえた議論なのかな、とは感じるのですが、お話が合致する部分が思い当たりません。

〜〜〜〜〜以下引用〜〜〜〜〜
大衆主義と平等主義の行き届いた時代ですから、「愚かな人は」といった直截な言及そのものに嫌悪感を感じる人もいらっしゃると思います。しかしまた、そのような感情を保護するために、才能ある人々が多大な犠牲を払っているということも、本文に匂わせた事実であります。
〜〜〜〜〜以上引用〜〜〜〜〜

と下記で返信したことを踏まえての議論かなと思うので、そんな方向性で回答いたします。本文の主旨とはかなり関係が薄いという前提で回答いたします。

「ギフテッド」の意味も正確に捉える自信はないのですが、飛び抜けて優秀という意味に理解して、特殊なニュアンスを見ないこととします。つまり「天才」と同義に受け止めます。

「損してる賢い人」の有無で言えば、まさに民主主義社会ですから、上位50%の人々にとって下位50%の人々が足手まとい、という側面はあると思います。もちろん、互いの存在が有益な側面が全く支配的だとは思いますが、因果関係としてそういう面があると考えられるという意味でです。その意味では、偏差値51の人々にとって偏差値49の人々が足手まとい、だとも言いうるでしょう。その意味で、賢い人々が損する構造を論じるとしても、どうといって「ギフテッド」に限らない気はします。

> 受け皿のないレベルの天才は0.1%もいない

0.2%までは受け皿があって0.1%にはない、という構造はどうといって思い浮かびません。ほどほどの優秀さなら社会に適切に評価されるが、あまり特殊に優れていると評価されない、という意味でしょうね。学校の成績や受験で評価される知性が念頭にあるのではないかと思うのですが、そういう知性を議論しているつもりはありません。知識の量を超越した、社会的な知性のイメージについては、本文に例示した通りです。(ほどほどなら報われる、といった性質のものではないです。)

> まあ無視されますよ

仮に0.1%の人間が無視されたとして、百万人いれば千人無視される計算かなと思うのですが、上位にしろ下位にしろ千人の人間の幸福を無視することを肯定する発想はございません。

> 民主主義的には票にならない意見は無視されますので

最終的には投票結果が主ですが、そこに至る合議や、他の因果関係もあるので、そう単純に考えません。

> 愚かな99%の人間を動かす

残りの0.1%もいないギフテッドが、ですよね。何のために動かすのでしょう。他の返信で、「大多数の平凡な人々にとっても、少数の才能ある人々にとっても、より幸福な社会が築けるのではないか」などと述べたことについての議論なのでしょうか。

例えば既存の大衆主義批判において、衆愚による「ルサンチマン」といった理論化は多大に行われていて、一般の99%の人間に人気の議論ではないですが、例えば民主主義が人気主義に対して冷静であるために、巨大な功績を生んできたと思っています。また私はどちらかというと、「IQが20違うと話が通じない」といった性質を現実として認めている人間なので、「世論に訴えて」という発想はほとんどありません。

> 努力は必ず報われるなんて思ってる愚かな人なんていないんじゃないですか

何のお話でしょう。「愚かな人ほど、努力すれば賢くなれると思っている。」という点についてかなと考えます。まあ、一面の傾向としては言えてるのではないでしょうか。才能は、上から見たほうが差がわかりやすい、といった意味の議論なので、否定しにくいと思います。しかしもちろん、「必ず」云々と述べた記憶はございません。

> 愚かな人なりに努力するのが立派な社会人だと思いますよ

そんな命題を否定した覚えはないです。「愚かな人」を否定的に議論することへの、不満の感情の吐露なのでしょうか。でしたら、それを部分最適と見て本文が狙った全体最適の説明は、それこそ別の返信で尽くした通りでございます。
[一言]
賢い人と愚かな人に関しては解かりませんが、IQに関しては見えているものが違う感じみたいですね。
考えなくても見たら解かるものなので、何故解からないか理解できないし。
そもそも自分が何故見たら解かるのかも理解してない。
で、見たら解かるから頭使わないので、アホの子に育つことがあります。(実体験)
  • 投稿者: 風鳴
  • 2018年 03月21日 05時27分
風鳴様、ご感想ありがとうございます。

> 考えなくても見たら解かるものなので、何故解からないか理解できないし。
> そもそも自分が何故見たら解かるのかも理解してない。

仮に知性やIQの議論を差し置いたとしても、様々な能力の優劣について個人差は考えられ、その格差による相互理解の障害は生じることでしょう。例えば、運動がとても得意な人は、真逆の人にうまくアドバイスできないかもしれません。

何十億年の進化を経た遺伝子の基本戦略が、無作為な分散以上ではないことは、環境変化の予測不可能性と、能力を価値で測ることの根本的な虚しさを示しているとも言えると思います。私達は多様であって、その多様性が強さなわけです。であれば、互いを理解しがたいことは喜んでもいいのかもしれませんね。

しかし実際に知的優劣は存在し、相互理解が必要とされる場面は多いと思います。そこにおいて、自分自身のためには感覚的に処理して十分なことであっても理性によって客観し、可能な限り、言葉や論理の俎上に乗せて説明しようとすることは、才能ある人々が生まれ持つ責任だと考えられます。共通の言葉で表現する、という不可能への挑戦が、近代科学を支えてきたのだと言えると思います。

> 見たら解かるから頭使わないので、アホの子に育つことが

その論点について私が思い浮かぶのは、能力別学習の必要性です。エリートコースと無縁の、名家でない家にも才能は生まれますからね。時に指摘されるように、日本は最も成功した社会主義国家だと思いますが、平等主義の功罪は大きいと感じます。

どんなに優れた才能を持つ子供にとっても、十分に難しい課題を与えれば簡単ではないはずです。そして、世界のエリートコースの子供達が必死に勉強している時間を無為に過ごし、決して取り戻せない実力差が生じてしまうと思います。予習をしないほうがまだテストの時間が楽しめる、といった境遇では、学習の習慣を阻害してしまうでしょう。

しかしまあ、余剰の才能はサブカル等に流れる面はありますし、既存のエリートコースはゴミと言えばゴミでしょうから、これが正解、という考えは持っていません。そもそも、私が昔受けた義務教育では、教師が押しなべて偏差値30くらいの知能だったので、せめて凡人を教師にしてほしかったです。うっ、トラウマが……。
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