感想一覧
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こういった思考実験は好きですが、この問題を論じようと思えば、かなり難しいことではないかと。
「賢い人」「愚かな人」を定義しようと思っても、実質無理なんですよね。「IQは知性を計るものではない」と言われてる問題にダイレクトに引っかかりますし。
【専門について】で触れられていますが、一般的に言われる「賢い人」は、研究バカ、学者バカの類であることが多く、専門外では「賢い」とは見なされません。
【テリトリーの侵害について】で触れられていますが、空気の読み方・顔色の読み方を知っていればできること、どちらかというと経験によるものなので、IQとは一概に結びつかないでしょう。
「IQが違えば話が合わない」というのは、事実の一面だとは思います。そういう経験もありますし。
だけど語るなら、真逆の「馬鹿と天才紙一重」まで含めていないと、片手落ちの印象があります。
こういった思考実験は好きですが、この問題を論じようと思えば、かなり難しいことではないかと。
「賢い人」「愚かな人」を定義しようと思っても、実質無理なんですよね。「IQは知性を計るものではない」と言われてる問題にダイレクトに引っかかりますし。
【専門について】で触れられていますが、一般的に言われる「賢い人」は、研究バカ、学者バカの類であることが多く、専門外では「賢い」とは見なされません。
【テリトリーの侵害について】で触れられていますが、空気の読み方・顔色の読み方を知っていればできること、どちらかというと経験によるものなので、IQとは一概に結びつかないでしょう。
「IQが違えば話が合わない」というのは、事実の一面だとは思います。そういう経験もありますし。
だけど語るなら、真逆の「馬鹿と天才紙一重」まで含めていないと、片手落ちの印象があります。
風待月様、ご感想ありがとうございます。とても嬉しいです!
> こういった思考実験は好き
ありがとうございます!
> 「IQは知性を計るものではない」
ですね。
私自身は、IQに興味はありませんが、パターン認識みたいなパズルで発達年齢を計るものと(ふわっと)理解しております。
数理的知性に偏っている点と、同年齢での発達速度を計る点から、どうといって知性の尺度ではないものと思っています。
Googleでざっと検索して、『IQが20違うと話が通じない』とか『偏差値が20違うと話が通じない』という議論(というか2chまとめ)があったので、IQを話題の端緒としました。
どっちの議論をしている人も、「IQ」や「偏差値」そのものを話題にしたいのではないのだろう、と思っています。それらの言葉では正確に表せない、「知性」を議論したいのだろうと思いました。
しかし、「IQ」ないし「偏差値」が、一般的な言葉としては、掴みが良いかな、と。実際にテストがあって、数値で結果が出るからでしょうね。客観的なところから論じないと議論がバラバラになるからかな。
> 「賢い人」「愚かな人」を定義しようと思っても、実質無理なんですよね。
うむむ。正確な議論を突き詰めるとその通りでしょうね。
でも、単純な学歴主義みたいな、ずっとナイーブな価値観も社会に存在しますよね。
あるいは、本文に書いたように、知識主義。
そういう意味じゃ、知的優劣は、実質的・実効的にはいくらか定義されているとも見なせる。
しかしもちろん、素朴な学歴主義や知識主義は、幼稚あるいは大雑把すぎると思います。
なので、それら素朴な価値観を相対化する意味では、本文の議論も意味があろうかと思います
> 一般的に言われる「賢い人」は、研究バカ、学者バカの類であることが多く、専門外では「賢い」とは見なされません。
本文で例えば学歴主義を批判したので、「一般的に言われる」意味での知性の尺度は、一応は相対化したのではあります。
まあ、彼ら彼女らも、専門「内」ではやはり賢いと言えるので、やはり知性の唯一の尺度は定義できないということになりますね。
脳も肉体の一部であって、共に遺伝子に影響されるものですから、運動競技において様々な種目があるように、知性における長所や短所も、無数の視点から言えるのだろうと思っております。
しかし、社会を論じる立場から、本文で言及した「部分最適」と「全体最適」を考えると、多少言えることもあります。
つまり例えば、個人プレーヤーとして優秀であっても、チームの和を乱して結局、プロジェクトを失敗させ、自分個人の利益も喪失してしまうならば、本当に賢いとは言えないだろう、という点です。
その意味では、ある種の悪い意味での「研究バカ」は、やはり知性に欠けるものとも見なせます。
> 空気の読み方・顔色の読み方を知っていればできること、どちらかというと経験によるものなので、IQとは一概に結びつかないでしょう。
世俗的な意味で、社会を生きていくために、無闇に反感を買わず、無駄に摩擦を起こさない、トラブルを避ける、という意味では、「空気の読み方・顔色の読み方を知っていればできること」だとは思います。
しかし、常識的な意味での「空気を読む」・「顔色をうかがう」ということは、本文において「処世術」として、その価値を徹底して批判した側面もございます。
私が【テリトリーの侵害について】という項で言いたかった論点は、愚かな人が賢い人とすれ違っても、それを賢い人だと知ることは時として難しく、しかも、愚かな側の人が何ら問題を自覚していない振る舞いが、賢い人から甚だしく不興を買っている場合がありうるという点です。
そしてまた、そのことが、コミュニケーションの摩擦や誤解を生みもするだろうと。
なので、「IQ」はどうあれ、知性について論じていることにはなるかと思います。
> だけど語るなら、真逆の「馬鹿と天才紙一重」まで含めていないと、片手落ちの印象があります。
それはそうかなと思います。
上で触れました、運動競技に似た、知性の多様性について、本文では触れていませんので、まるで知性に唯一完全な尺度があるかのような本文の議論の展開は、一種の暴論とも見なせるでしょう。
運動競技においても、非常に背が高いとか、非常に体重が重いということは、言葉は悪いですが、「運動選手と障害者は紙一重」と表現できるかもしれません。
しかし逆にまた、そのことは、運動選手に優劣が存在しないことも言えていないし、運動に、唯一完全な尺度が無いとも言えていない。
例えば、肉体が生じる物理的なエネルギー量を見れば、多くの運動選手と一般的との違いを大雑把には言えるでしょう。
同様に、虫よりも人間が賢いと言うことには一種の実態があって、人間の賢さというのも紙一重であってある意味では虫より愚かである、とすれば極論でしょう。
そして、上記の、社会的な部分最適・全体最適(および人間の本能的欲求)を考えるならば、知性についていくらかの共通の尺度を考えることはできると考えています。
もちろん、そのような知性の尺度は、IQや学歴のような、端的に描写できるものではありません。
なので、社会というものにおいて、愚かさと賢さが互いにいかなる構造を取りうるのか、本文の長文として論じました。
ゆえに、本質的な賢さの存在を仮定して考えることには意味があって、それゆえ、「馬鹿と天才紙一重」に言及しなければ「片手落ち」である、ということは言えないと考えています。
しかしもちろん、知性に差があることが意思疎通を困難にする、という結論は、意思疎通があるならそこに知性の差があるからである、という主張をするものではありません。
> こういった思考実験は好き
ありがとうございます!
> 「IQは知性を計るものではない」
ですね。
私自身は、IQに興味はありませんが、パターン認識みたいなパズルで発達年齢を計るものと(ふわっと)理解しております。
数理的知性に偏っている点と、同年齢での発達速度を計る点から、どうといって知性の尺度ではないものと思っています。
Googleでざっと検索して、『IQが20違うと話が通じない』とか『偏差値が20違うと話が通じない』という議論(というか2chまとめ)があったので、IQを話題の端緒としました。
どっちの議論をしている人も、「IQ」や「偏差値」そのものを話題にしたいのではないのだろう、と思っています。それらの言葉では正確に表せない、「知性」を議論したいのだろうと思いました。
しかし、「IQ」ないし「偏差値」が、一般的な言葉としては、掴みが良いかな、と。実際にテストがあって、数値で結果が出るからでしょうね。客観的なところから論じないと議論がバラバラになるからかな。
> 「賢い人」「愚かな人」を定義しようと思っても、実質無理なんですよね。
うむむ。正確な議論を突き詰めるとその通りでしょうね。
でも、単純な学歴主義みたいな、ずっとナイーブな価値観も社会に存在しますよね。
あるいは、本文に書いたように、知識主義。
そういう意味じゃ、知的優劣は、実質的・実効的にはいくらか定義されているとも見なせる。
しかしもちろん、素朴な学歴主義や知識主義は、幼稚あるいは大雑把すぎると思います。
なので、それら素朴な価値観を相対化する意味では、本文の議論も意味があろうかと思います
> 一般的に言われる「賢い人」は、研究バカ、学者バカの類であることが多く、専門外では「賢い」とは見なされません。
本文で例えば学歴主義を批判したので、「一般的に言われる」意味での知性の尺度は、一応は相対化したのではあります。
まあ、彼ら彼女らも、専門「内」ではやはり賢いと言えるので、やはり知性の唯一の尺度は定義できないということになりますね。
脳も肉体の一部であって、共に遺伝子に影響されるものですから、運動競技において様々な種目があるように、知性における長所や短所も、無数の視点から言えるのだろうと思っております。
しかし、社会を論じる立場から、本文で言及した「部分最適」と「全体最適」を考えると、多少言えることもあります。
つまり例えば、個人プレーヤーとして優秀であっても、チームの和を乱して結局、プロジェクトを失敗させ、自分個人の利益も喪失してしまうならば、本当に賢いとは言えないだろう、という点です。
その意味では、ある種の悪い意味での「研究バカ」は、やはり知性に欠けるものとも見なせます。
> 空気の読み方・顔色の読み方を知っていればできること、どちらかというと経験によるものなので、IQとは一概に結びつかないでしょう。
世俗的な意味で、社会を生きていくために、無闇に反感を買わず、無駄に摩擦を起こさない、トラブルを避ける、という意味では、「空気の読み方・顔色の読み方を知っていればできること」だとは思います。
しかし、常識的な意味での「空気を読む」・「顔色をうかがう」ということは、本文において「処世術」として、その価値を徹底して批判した側面もございます。
私が【テリトリーの侵害について】という項で言いたかった論点は、愚かな人が賢い人とすれ違っても、それを賢い人だと知ることは時として難しく、しかも、愚かな側の人が何ら問題を自覚していない振る舞いが、賢い人から甚だしく不興を買っている場合がありうるという点です。
そしてまた、そのことが、コミュニケーションの摩擦や誤解を生みもするだろうと。
なので、「IQ」はどうあれ、知性について論じていることにはなるかと思います。
> だけど語るなら、真逆の「馬鹿と天才紙一重」まで含めていないと、片手落ちの印象があります。
それはそうかなと思います。
上で触れました、運動競技に似た、知性の多様性について、本文では触れていませんので、まるで知性に唯一完全な尺度があるかのような本文の議論の展開は、一種の暴論とも見なせるでしょう。
運動競技においても、非常に背が高いとか、非常に体重が重いということは、言葉は悪いですが、「運動選手と障害者は紙一重」と表現できるかもしれません。
しかし逆にまた、そのことは、運動選手に優劣が存在しないことも言えていないし、運動に、唯一完全な尺度が無いとも言えていない。
例えば、肉体が生じる物理的なエネルギー量を見れば、多くの運動選手と一般的との違いを大雑把には言えるでしょう。
同様に、虫よりも人間が賢いと言うことには一種の実態があって、人間の賢さというのも紙一重であってある意味では虫より愚かである、とすれば極論でしょう。
そして、上記の、社会的な部分最適・全体最適(および人間の本能的欲求)を考えるならば、知性についていくらかの共通の尺度を考えることはできると考えています。
もちろん、そのような知性の尺度は、IQや学歴のような、端的に描写できるものではありません。
なので、社会というものにおいて、愚かさと賢さが互いにいかなる構造を取りうるのか、本文の長文として論じました。
ゆえに、本質的な賢さの存在を仮定して考えることには意味があって、それゆえ、「馬鹿と天才紙一重」に言及しなければ「片手落ち」である、ということは言えないと考えています。
しかしもちろん、知性に差があることが意思疎通を困難にする、という結論は、意思疎通があるならそこに知性の差があるからである、という主張をするものではありません。
- 鈴木美脳
- 2017年 10月04日 13時11分
[良い点]
愚かな人々は○○だ。賢い人々は○○だ。
このようにまとめられていたので、すっきり頭を整理することができ、わかりやすかった。
また、愚かな人と一口に言っても、愚かな人はある角度から見れば愚かだが、視点を変えてみれば賢い人に見えることもある。そういったこともわかり、希望がわいた。
共感できる部分も多々あり、作者の深い思索が感じられて心地よかった。
[一言]
楽しく読めました。
これからも頑張ってください!
愚かな人々は○○だ。賢い人々は○○だ。
このようにまとめられていたので、すっきり頭を整理することができ、わかりやすかった。
また、愚かな人と一口に言っても、愚かな人はある角度から見れば愚かだが、視点を変えてみれば賢い人に見えることもある。そういったこともわかり、希望がわいた。
共感できる部分も多々あり、作者の深い思索が感じられて心地よかった。
[一言]
楽しく読めました。
これからも頑張ってください!
オリンポス様、ご感想ありがとうございます! とても嬉しいです。
> すっきり頭を整理することができ、わかりやすかった。
良かったです!
> 愚かな人と一口に言っても、愚かな人はある角度から見れば愚かだが、視点を変えてみれば賢い人に見えることもある。
そうですね。
現実は複雑で、何事も一口に断じがたいものです。
> 共感できる部分も多々あり、作者の深い思索が感じられて心地よかった。
とてもありがたいお言葉です。感謝。
> 楽しく読めました。これからも頑張ってください!
ありがとうございます!
自分の駄文が人を喜ばせることもあるのだなあ、と思いました。頑張ります。
> すっきり頭を整理することができ、わかりやすかった。
良かったです!
> 愚かな人と一口に言っても、愚かな人はある角度から見れば愚かだが、視点を変えてみれば賢い人に見えることもある。
そうですね。
現実は複雑で、何事も一口に断じがたいものです。
> 共感できる部分も多々あり、作者の深い思索が感じられて心地よかった。
とてもありがたいお言葉です。感謝。
> 楽しく読めました。これからも頑張ってください!
ありがとうございます!
自分の駄文が人を喜ばせることもあるのだなあ、と思いました。頑張ります。
- 鈴木美脳
- 2017年 10月03日 22時11分
[良い点]
結論が感覚的には納得できる。
[気になる点]
断定に基づく帰納法的な論理展開が目立つように感じる。
断定するならば根拠を示さずとも自明なものを集めるか、あるいは作者の思う賢い人、愚かな人の定義として挙げるほうがよいのではないか。
[一言]
……もしやここにはIQ20以上の断絶が!
自分のIQ測ってないのでわかりませんが
結論が感覚的には納得できる。
[気になる点]
断定に基づく帰納法的な論理展開が目立つように感じる。
断定するならば根拠を示さずとも自明なものを集めるか、あるいは作者の思う賢い人、愚かな人の定義として挙げるほうがよいのではないか。
[一言]
……もしやここにはIQ20以上の断絶が!
自分のIQ測ってないのでわかりませんが
干し芋様、ご感想ありがとうございます! とても嬉しいです。
> 結論が感覚的には納得できる。
ありがとうございます。
> 断定に基づく帰納法的な論理展開が目立つように感じる。
確かにそうですね。
耳の痛いところでございます。というのも、自分が私生活において行う議論について、しばしば同様のご指摘を受けております。
> 断定するならば根拠を示さずとも自明なものを集めるか、
それが、自然科学、あるいは近代科学における標準的な作法であることは心得ているつもりではあります。
しかしながら、社会的・哲学的な論点については、共有できるものが少ない。政治に関する極左と極右の意見のように、議論が不毛に終わりやすい。
例えば、客観的な立場を求めてアンケート調査などを行っても、費用ばかり甚だしく、所詮、哲学的に有用な結論は得られにくいと思っています。
安易に共有できる知性の尺度として、例えば学歴がございます。
しかし、学歴主義に関する若干の批判を記載しましたように、私が展開した議論においては、知性の客観的な尺度の存在を、メタな観点から相対化しようという側面もございます。
私が行おうとする主張のアプローチは、大きな論理構造のモデルを提示して、その現実説明力を直感的に受け取らせようとすることです。
社会的な論点については、無限に複雑な現実を完全に正確に抽象化することは、そもそも不可能であると思っています。
巷間においてしばしば前提的に正しいとされる価値観は、たいていは、さほどの論拠に裏づけられていません。それに対して、論理的整合性とその現実説明力で挑戦しようとするのが、私の行っているアプローチです。
例えば、素朴な学歴主義を絶対視する視点とは、私の提示した議論は矛盾するでしょう。それは言わば、学歴主義を知性の尺度とするモデルについて、その関数の精度が良い有効範囲と、精度を失う限界とを記述しようとすることでもあります。
そのような議論によって、認識の発展があると思っています。
つまり、普遍的に完全な精度を持った帰納法を社会について適用しようとすることは、そもそも目指しておりません。
> あるいは作者の思う賢い人、愚かな人の定義として挙げるほうがよいのではないか。
例えば、学歴が低くても収入が多い人は本質的により賢いとか、収入が少なくても家族と幸福に暮らしている人は本質的により賢いとか、知性の尺度はいかようにも提示できるでしょう。
しかしそのような言及をしても、その人がそう思っているという以上の意味はないでしょう。
学歴よりも収入があることが偉いとか、収入よりも幸福があることが偉いとか言っても、それには、威圧して世論を形成しようとするような意味しかないと思います。
しかし、石より虫が賢く、虫より人が賢いなどと大雑把に言うことはできて、知性という尺度が本質的に無意味だとまでは言えない。
私が見ているアプローチは、次のように例えられます。
例えば、ツイッターの個々の発言が5000文字あったり、主婦の井戸端会議の一言一言が5000文字の論理構造を持っていたならば、世の中の議論は、独善性を低下させて、社会はより建設的な関係を築けるのだと思います。
それはもちろん、不可能です。
しかし、論理性と長文とに、そのような方向性の価値を見るということです。
私の議論の展開そのものが、独善的であることは認めます。しかし、独善もまた、いくらか論理的でいくらか長文であれば、そうであることによって社会的価値を生じるものと思っています。
> ……もしやここにはIQ20以上の断絶が! 自分のIQ測ってないのでわかりませんが
(笑)。
それはないですね。私はとても愚かで、毎日失敗ばかりして暮らしています。
私も、自分のIQを測ったことがありません。
そもそも、IQテストは論理的な抽象化能力を計るようなテスト内容だったと思うので、人間性のような、明らかに知性に依存する能力を測れないものだろうと思っています。
私が本文でIQなどに言及したことは、所詮は、科学的に厳密な議論というよりは、ある視座を端的に素描する、思考実験のためのエッセイなのだと言えるでしょう。
長文失礼いたしました。
> 結論が感覚的には納得できる。
ありがとうございます。
> 断定に基づく帰納法的な論理展開が目立つように感じる。
確かにそうですね。
耳の痛いところでございます。というのも、自分が私生活において行う議論について、しばしば同様のご指摘を受けております。
> 断定するならば根拠を示さずとも自明なものを集めるか、
それが、自然科学、あるいは近代科学における標準的な作法であることは心得ているつもりではあります。
しかしながら、社会的・哲学的な論点については、共有できるものが少ない。政治に関する極左と極右の意見のように、議論が不毛に終わりやすい。
例えば、客観的な立場を求めてアンケート調査などを行っても、費用ばかり甚だしく、所詮、哲学的に有用な結論は得られにくいと思っています。
安易に共有できる知性の尺度として、例えば学歴がございます。
しかし、学歴主義に関する若干の批判を記載しましたように、私が展開した議論においては、知性の客観的な尺度の存在を、メタな観点から相対化しようという側面もございます。
私が行おうとする主張のアプローチは、大きな論理構造のモデルを提示して、その現実説明力を直感的に受け取らせようとすることです。
社会的な論点については、無限に複雑な現実を完全に正確に抽象化することは、そもそも不可能であると思っています。
巷間においてしばしば前提的に正しいとされる価値観は、たいていは、さほどの論拠に裏づけられていません。それに対して、論理的整合性とその現実説明力で挑戦しようとするのが、私の行っているアプローチです。
例えば、素朴な学歴主義を絶対視する視点とは、私の提示した議論は矛盾するでしょう。それは言わば、学歴主義を知性の尺度とするモデルについて、その関数の精度が良い有効範囲と、精度を失う限界とを記述しようとすることでもあります。
そのような議論によって、認識の発展があると思っています。
つまり、普遍的に完全な精度を持った帰納法を社会について適用しようとすることは、そもそも目指しておりません。
> あるいは作者の思う賢い人、愚かな人の定義として挙げるほうがよいのではないか。
例えば、学歴が低くても収入が多い人は本質的により賢いとか、収入が少なくても家族と幸福に暮らしている人は本質的により賢いとか、知性の尺度はいかようにも提示できるでしょう。
しかしそのような言及をしても、その人がそう思っているという以上の意味はないでしょう。
学歴よりも収入があることが偉いとか、収入よりも幸福があることが偉いとか言っても、それには、威圧して世論を形成しようとするような意味しかないと思います。
しかし、石より虫が賢く、虫より人が賢いなどと大雑把に言うことはできて、知性という尺度が本質的に無意味だとまでは言えない。
私が見ているアプローチは、次のように例えられます。
例えば、ツイッターの個々の発言が5000文字あったり、主婦の井戸端会議の一言一言が5000文字の論理構造を持っていたならば、世の中の議論は、独善性を低下させて、社会はより建設的な関係を築けるのだと思います。
それはもちろん、不可能です。
しかし、論理性と長文とに、そのような方向性の価値を見るということです。
私の議論の展開そのものが、独善的であることは認めます。しかし、独善もまた、いくらか論理的でいくらか長文であれば、そうであることによって社会的価値を生じるものと思っています。
> ……もしやここにはIQ20以上の断絶が! 自分のIQ測ってないのでわかりませんが
(笑)。
それはないですね。私はとても愚かで、毎日失敗ばかりして暮らしています。
私も、自分のIQを測ったことがありません。
そもそも、IQテストは論理的な抽象化能力を計るようなテスト内容だったと思うので、人間性のような、明らかに知性に依存する能力を測れないものだろうと思っています。
私が本文でIQなどに言及したことは、所詮は、科学的に厳密な議論というよりは、ある視座を端的に素描する、思考実験のためのエッセイなのだと言えるでしょう。
長文失礼いたしました。
- 鈴木美脳
- 2017年 10月03日 21時40分
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