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[良い点]
感想二回もしてしまい、すみません。
[気になる点]
ええ勿論、二項対立で物事を考えることの有用性は認めているつもりですが、この文が使用されている単語や熟語のレベルから察するにある程度文章を読み慣れている熟練者向けの物である、と感じたため熟練者向けならば二項対立ではなく、より詳しく枝葉についてまで詳細に書いても良かったでは、と感じた次第です。
また、走力や計算力とは違い、数値などで表れるような絶対的な指標のない知力において"愚か"と"賢い"の2つに分けることに違和感を感じました。
[一言]
結局、何が言いたいのかハッキリしません。
はじめは作者様の考える愚者と賢者の違いを端的に書くことで、読者が自らの言動を賢者のそれに近付けられるようにする自己啓発的な内容なのかと思っていましたが、文章全体や感想の返信の最後をみるとどうもそうでは無く、才能があって賢い人々が愚かな人々のせいで不利益被ってるんですよー、ということが言いたいのか?と思いました。もし、後者が言いたいのであればハッキリかけばいいのでは? "匂わせる"とはつまり遠回しに言うということでありこれは文中で仰られている愚かな人が好む嫌味、に本質が近いことでしょう? また、この作者様自らが愚かな人が好む行為を行ったことでますます伝えたい内容について勘案することになりました。
また、例えば特に何も考えず周りに流されてなぁなぁと大多数に従う、というこの文章では愚かと断定されるような行動をする人間も思考するコストを捨てて楽に生きる、という選択の結果の行動であると認めればそれはそれで賢い、と言っても良いのではと思えますし、単一的な視点を捨てれば分類に幅が生まれる賢さというものを二元的に分けるのはやはりナンセンスだと感じます。
  • 投稿者: 未来猫
  • 男性
  • 2018年 03月20日 21時29分
未来猫様、ご感想ありがとうございます。

> 熟練者向けならば二項対立ではなく、より詳しく枝葉についてまで詳細に書いても良かったでは、と感じた

そうは感じなかった、というところが、私の判断としての落とし所だということでしょうね。より理解しがたいであろう議論は別の作品で大いに触れておりますし。

> 走力や計算力とは違い、数値などで表れるような絶対的な指標のない知力において

「計算の速さの尺度は多様に考えられるとはいえ」と以前の返信で述べたように、走力や計算力についても絶対的な数値的指標を得ることは困難だとも考えられます。(100 m走タイムは山道や塀の上での能力を正確に示さないかもしれません。) そして知力について、偏差値やIQなどとして、数値的指標を得ることが不可能なわけではないでしょう。私の視点からすると、愚かな人や賢い人というのは実際にしばしば実在する自然な論点なので、「"愚か"と"賢い"の2つに分けることに違和感」をお感じになったというご指摘については、単に価値観の相違かなと思います。

> 愚者と賢者の違いを端的に書くことで、読者が自らの言動を賢者のそれに近付けられるようにする自己啓発的な内容なのかと思っていました

本文で「愚かな人ほど、努力すれば賢くなれると思っている。」と述べましたように、ご指摘の意味の内容ではないと言ってしまっていいと思います。その意味で、ある意味残酷な議論をしています。努力すればどうにかなるといった精神論は巷間に人気ですが、時に事実認識を歪めていると思います。それにまた、仮に「愚かな人」についても、「言動を賢者のそれに近付けられるように」すべきだという考え方を私は持っていません。「愚かな人が自分の能力を身の丈より少し大きく見せようとした時、それは正確に見抜かれている。」と書いた通りでございます。

> 才能があって賢い人々が愚かな人々のせいで不利益被ってるんですよー、ということが言いたいのか?と
> ...
> ハッキリかけばいいのでは? "匂わせる"とはつまり

本文が議論しようとする主旨は、「IQが20違うと話が通じない」という意味のことが実際にあるのかどうか、です。あるのであれば、どのような構造や因果関係によってそれがあるのか例証し、その説明可能性を私という視点から示したものが本文でございます。「言葉を、文字通りの意味で使う。」と本文に書きました考え方から逸脱したつもりはありません。本文の目的は、言及している通り、「幸福の社会的な生産性」にほかなりません。

「精神の鎧に触れようとした者は、その棘によって血を流す」
「多くの人が、失敗を指摘せずして、しかし他言して嘲る。」
「愚かな人にとって、嘘をついてでも利益を求めることは、自然なことであって恥じるに値しない。」
「ごまかしを行わないことが、安易に無難な戦略である。もちろんそれは、世俗的な生存のためには有利な戦略ではない。」
「議論を生産的にしようとして口を挟むことが、反感と攻撃によって報われることもある。」
「論理的な説明を与えてやろうとすることは、多く、感情的な暴力によって報われる。」
「相手が寛容によって譲歩していることを悟らず、相手のテリトリーを荒らしていく。」

といった構造が存在することは本文で直截に指摘しています。前の返信で「才能ある人々が多大な犠牲を払っている」と述べたそのものの言葉を用いてはいませんが、その意味は十分示している。そのことを「匂わせた」と表現したまでです。つまりそもそも明示的に述べたことなので、「嫌味」として成立する余地はないように思えます。しかしその被害を訴えることが主旨ではないので、やはり、「匂わせた」にとどまります。

> 思考するコストを捨てて楽に生きる、という選択の結果の行動であると認めればそれはそれで賢い

そのような命題を否定することが本文の論旨です。つまり「全体最適と部分最適の矛盾」に言及されれば、知性の尺度に関する素朴な相対主義が崩れる、という点を論理構成の根幹としています。難解な論点ですが一言で例えれば、個人の自由が声高に謳われる現代にあってなお、私達は一つの船に乗っているということです。

> 賢さというものを二元的に分けるのはやはりナンセンスだと感じます。

私は、社会の人々における知的才能の優劣というものは、十分に論じられておらず認知もされていないと思っています。大多数者における直観的な処世術としての常識が権威とされている現代において、社会的価値観はそれこそ多数の二元論によって過度に単純化されていると思います。例えば金銭は幸福のように、学歴は知力のように語られていると思います。知的格差が対話の非効率を生じる原因を考察することで、人間の知性に関するより客観的な認知が生じ、大多数の平凡な人々にとっても、少数の才能ある人々にとっても、より幸福な社会が築けるのではないか、ということが本文の意図です。その意味では、既存の平凡な平等主義は、知的格差の議論に対する強烈な言論弾圧だと捉えられます。「感情を保護」するための「部分最適」だと捉えられるわけです。
[一言]
紐と紐の端が結ばれて環になったり、環が切れて紐になったり……マクロとミクロの違いとか……そういうモノにも繋がっているのだろうか。

自分でも何を伝えようとしていたのか分からなくなってしまった(笑)
  • 投稿者: 八咫烏
  • 男性
  • 2018年 03月20日 10時14分
八咫烏様、ご感想ありがとうございます。

おっとこれは、一風変わったご感想ですね。私の視点では解釈しかねますが、せっかくなので自身の観点から少しコメントいたします。対話の成立を結びに例えながら、そこに知的水準の影響を見る切り口に立ってコメントいたします。

偶発的に生存欲求を得た構造がその生存欲求のゆえに生存し進化してきたのが現在の生物であると思っています。その欲求の満足の程度が喜びと苦しみの源であり、それにより幸福もまた定義されるものだと考えます。その意味で遺伝子は本来利己的であり、その戦術のための知性が、小さな羽虫にであれ何であれ宿っているのだと考えられます。

ところで例えばゲーム理論で「囚人のジレンマ」だとか「共有地の悲劇」などと形式化されますように、利己的な選択肢よりも協調的な選択肢を選ぶことがより多く利益をもたらす場合があります。人間の五体の能力にそう進歩はないまでも、近代において劇的な生産性の向上を得ましたことは、経済学が言う分業の成果として捉えることができます。この理由によって、知的水準という実体は、愛情の感情や倫理の思考に直接的に影響すると言えます。

そう考えます時、かつて石斧を手に隣り村と争っていた我々が、ずっと暴力が少なく物質の豊かな現代社会を築きあげたことは、歴史的な知的発展が、愛と倫理によってより大きな社会への構造化を達成してきたのだと言えるでしょう。犬猫は社会の全体像を論じることはできないが、私達人間はできる。その知性が、今の社会を可能にしている。その意味で知性は確かに、結びをもたらします。

しかしその意味での知性が相手を尊重するのは、本質的には、それが私欲に合理的な限りにおいてです。例えば私達は現在、家畜をほとんど道具のように消費しています。すなわち構造は常に力関係によって平衡しているのであって、時間の経過が必ず倫理的発展をもたらすとは限りません。その意味で、楽観的に、知性が結びそのものであるとまでは言えないでしょう。

例えば砂粒のように小さな虫けらに、私達より遥かに優れた知性があったとしても、私達は彼を造作もなく殺すことができる。地球やこの宇宙も、より大きな存在にとっては、そのような流れの一部でしかないのだと考えられます。しかしそのスケールにおいても再び、知性は有意義なものとして存在することでしょう。その意味では、力よりも知性に普遍的な価値があると言えるかもしれません。生存や名誉や財産よりも価値があると言えるかもしれません。

しかしまた、遥かに賢い存在にとって、私達が知性と自認する程度の知性は、まるで砂粒の構造が知性を名乗るようなものであって、どうという意味を持たないのだと思います。私達生命が原始の海で産み落とされたように、将来の例えば人工知能にとって、人類の知的能力は踏み台にすぎないのだろうと思っています。
[一言]
知能検査を行っている側から言いますと、知能検査は賢さを計るものではありません。
賢い、愚かという二元論で語ることは知能検査の本質からは外れており、そもそも論点からしてずれているという印象を受けます。
検査の特性上なかなか一般の人には情報がいかないのは当然のことなのですが、一般的にはこういう誤解を受けているのだなあ、という参考になりました。
  • 投稿者: 安積
  • 2018年 03月19日 22時21分
安積様、ご感想ありがとうございます。

知能検査についてのご指摘の論点についての私の立場は、下記のZINO様への返信で言い尽くされていると思いますので、そちらをご参考にしていただけたらありがたく思います。

つまり、「知能検査は賢さを計るもの」といったように、「一般的にはこういう誤解を受けている」という現実を前提として存在する、「IQが20違うと話が通じない、との俗説」について論じたものが本文であって、本文の主旨そのものは、一見して明らかでありますように、知能検査について論じたものではありません。

「知能検査を行っている側」の方にとっては、IQという語に言及する時は常にその文脈で正確に語ってほしい、という面があるのかもしれません。私が本文において、IQが20違うと話が通じない「との俗説」、だとか、IQが20違うと話が通じないという「意味のこと」は、などと述べたのは実にそのためだと言えます。本文はIQを直接に論じない立場を示しています。本文の主旨は社会的な有益性があると思っているので、これが私が最適化した落とし所だということです。
[一言]
なんでもかんでも二項対立で捉えることこそ馬鹿じゃないのか、と思いますけどね
  • 投稿者: 未来猫
  • 男性
  • 2018年 03月19日 20時41分
未来猫様、ご感想ありがとうございます。

確かに「二項対立」で論じることは一般に、過度の単純化に陥る危険性があるでしょう。しかし例えば、足の速い人ほど100 m走が速い、足の遅い人ほど100 m走が遅い、という言明は、さほど無理がないでしょう。その意味では、二項対立で捉えることが常に不合理とは全く言えないでしょう。コンピュータについて、計算の速さの尺度は多様に考えられるとはいえ、計算の速いものと遅いものがあります。また、人間の足の速さについて、先天的な才能の影響は強くございます。同様に、人間について知性という尺度を考えることそのものは、大いに有用性のあることでしょう。

話が通じないならば、それは相互に知的水準の隔絶があるからである、と言えば乱暴な議論であり明らかな誤った推論だと言えるでしょう。しかしながら、知的水準の隔絶があるならばそれによって話が通じないことがある、と言うことは自然な推論でしょう。そして、知的水準によって対話に支障が出る場合があるのであれば、話が通じない現象の一部はそのような理由で起きているのだろう、とは考えられます。

なお、例えば下記のツクヨミアリオ様への返信で私は次のように書きました。

〜〜〜〜〜以下引用〜〜〜〜〜
私が理想とするイメージの一つは、ご存知ないかな、『けものフレンズ』というアニメです。〜なフレンズ、として、誰もが個性を発揮して尊ばれています。一つの尺度で人間の価値を計る世界ではありません。君は〜が得意なフレンズなんだね、というのがけものフレンズの発想です。知性についての価値観もそうあるべきだと考えています。
〜〜〜〜〜以上引用〜〜〜〜〜

というわけで私自身の認識としては、知性を常に一本の尺度で計測できるとは思っていません。本文の形式的な「二項対立」は話を簡単にするための一つの方便だと言えます。しかしなお、大多数の方には極めて難解な内容であると思います。それゆえ、「二項対立」で論じて意味のある話題だと思っています。

またそもそも、大衆主義と平等主義の行き届いた時代ですから、「愚かな人は」といった直截な言及そのものに嫌悪感を感じる人もいらっしゃると思います。しかしまた、そのような感情を保護するために、才能ある人々が多大な犠牲を払っているということも、本文に匂わせた事実であります。
[気になる点]
なんだかIQの問題じゃなく人格や価値観の問題のような……。
IQが低い事とここで述べられてる愚かさは必ずしも同じではないと思います。
  • 投稿者: ZINO
  • 2018年 03月19日 07時54分
ZINO様、ご感想ありがとうございます。

ごもっともなご意見だろうと思います。しかし何かの参考になるかもしれませんので、以下に私の観点を記載いたします。

世俗においてまさに「人格や価値観の問題」と片づけられている論点らについて、愚かな人と賢い人とが「認知する世界は、隔たって異なる」ことを例証しまして、本文の主要な論拠としています。

ところでそこで言及される「人格や価値観」は、本文に例証した通り、並列な性向というよりも、知的水準に色濃く影響される側面を持っています。つまり、「人格や価値観」が、愚かさや賢さとは関係がない、という命題を否定することが、本文の骨子だと言えます。

いわゆるIQテストについては、実用的には、年齢に比した児童の発達水準で下側の足切りをするものとしての活用などが主だったと思います。しかし民間において半ば娯楽的に話題になる意味では、ウェブでパズルのようなものを解いてIQが80点と表示されたとか120点と表示されたとか、その程度の話題かなと思います。

そういった意味ではつまり、既存のいわゆるIQテストは数学的に形式的な論理的思考力に注目して計測しているのだと言えるでしょう。それはもちろん、人間の知性の全体像ではありません。例えばいわゆるアスペの人々でも、IQテストでは高得点を得ることができるでしょう。その意味で、IQテストという現代の神話は、いわゆるアスペの自尊心の避難場所になっている側面があります。例えばメンサといった集団も、実際にはアスペ的傾向を持った人々の集まりに過ぎません。

しかしまた、IQすなわちintelligence quotientとはまさに知能指数という意味の言葉であり、狭義に数理的思考力に注目するなら、遥かに誇大な名称だと言えます。そして実際、人々は巷間でIQに言及する時、何か人間に通じる本質的な理性的思考力の水準を空想して、それを指す言葉として「IQ」と称している場合が多いのだと思います。

ところで、IQを計測する場合に標準偏差は約15とのことです。また、学校の成績などで知られる「偏差値」の標準偏差は10です。つまり、偏差値で60の人はIQで例えれば115です。世の中には偏差値が20の人と80の人とで対話が必要なシーンもあるでしょうから、「IQが20違う」というのはさほど大きな差ではないと言えます。しかしながら、人間の本質的な知性の水準、を考えてみる時、既存のIQからこの分布の広がりの程度だけを拝借することは可能です。本文の議論は、その程度のものだと受け取っていただくことが妥当かもしれません。

逆に、狭義の数理的思考力における知的格差が対話の困難を生じるかどうか話題にしたとして、むしろ一般的な価値は全くないでしょう。言ってみれば、愚鈍なアスペと有能なアスペで会話が成立しにくいかどうか考えることは、ナンセンスに思えます。彼らの対話の効率性は彼らのその知的優劣よりも、むしろそもそもアスペである程度に強く影響されていると考えられるからです。

しかしまあそもそも、「IQ」という言葉は、共有された定義がほとんど存在しない言葉だろうと思います。そのいくらか硬い定義は上記の通り、数理的側面に偏っていますから、私の立場からすれば、「IQ」という概念そのものについて議論することは馬鹿馬鹿しく感じられます。それが、本文で、「IQ」という語が最初と最後一度ずつしか登場しない理由です。ではなぜそれらと表題で「IQ」に言及したかといえば、本文で述べた通り「相手の言葉によって語る」意味でです。知性の概念が歪んでいる時代に、歪みなく知性を語ろう、という取り組みでございます。その理由でまさにご指摘の点において、恣意的・作為的・技巧的な論理構成になっていることは認めます。

そしてまた、「IQが20違うと話が通じない、との俗説」を巷間で言う人々のほとんどは、IQという概念を厳密に意識しているわけではなく、「人格や価値観」と無関係なものとしてIQを捉えているわけではないでしょう。その意味で、本文の論旨は全く問題なく言えていると考えます。
[一言]
面白かったです!

他の作品も読んできます!!!

ありがとう!!!!!!!
千里三月記様、ご感想ありがとうございます。

> 面白かったです!

ほんとですか!? それはよかったです!!

> 他の作品も読んできます!!!

他の作品はまた、舌に合うかどうか、自信はありません……。でも嬉しいです。

> ありがとう!!!!!!!

こちらこそどうもありがとうございます。

レビューも書いてくださったみたいで、感動しております。

宮本武蔵氏の五輪書の風の巻の憤りと同じ感情を行間に感じさせる、とかありがたい言葉を賜り。しかし一度読んだと思うですが詳細は失念しました。面白いご指摘感謝します。
[良い点]
落合陽一さんのツイートにこのリンクが貼られていて、私もそのリンクから来ました。あの落合陽一さんのツイートに、です。
アクセス数のさらなる増加が期待できるのではないかと思います。
[一言]
この論の感想には知的なご意見やご感想が多いので、その反対にバカがバカなりに解釈した結果を述べることにしました。
・天才とバカが分かり合うのは不可能
・よってバカが天才に憧れることもなろうとするのも無駄なことでさっさと諦めるが吉
→どうせバカとして生まれてしまったのなら面倒なことは天才に任せて頭空っぽにして楽しいことだけ考えて生きるに限る。


天才は生まれながらにして天才。バカは生まれながらにしてバカ。つまりバカは怠慢や怠惰が理由にあらず、全ては生まれのせい!恨むなら生まれを恨むしかない!来世かさ来世で頑張るしかない!
さあ、全てのバカのみんな、先生や大人の言うことを信じちゃダメよ〜ダメダメ。無駄な勉強なんか辞めて楽しく生きまーしょう!

と言ったところでしょうか→絶対違いますね、はい。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2018年 03月18日 08時54分
管理
ツクヨミアリオ様、ご感想ありがとうございます。

> 落合陽一さんのツイートにこのリンクが貼られていて、私もそのリンクから来ました。

そうなのですね。知りませんでした。いらっしゃいませ〜〜。

> アクセス数のさらなる増加が期待できるのではないか

おおおお! まじですか!

実際に小説情報のアクセス解析機能を除いてみたら、PV0上等のマイナー作者に、午前8時代には3520アクセス。。。意味を受け止めきれません。落合陽一さんってすごいですね!

テレビに出たラーメン屋みたいな感じかな。一時的なものなのでしょうね。(ネガティブ)

私は無学歴無職のおじさんで生活に困っているのですが、3000人の中に資産家がいて最低賃金で雇用してくれたりしないでしょうか。なんて安易な妄想。

落合陽一さんって父親は落合信彦さんってWikipediaに書いてありました。欧米主義的傾向から日本主義的傾向に移動しつつ論稿の品質を高めていった保守派論客と印象しております。何にせよ驚きの出来事です。

> よってバカが天才に憧れることもなろうとするのも無駄なことでさっさと諦めるが吉

まあ、この作品の本文の受け止め方としてはありですね! ただもちろん私自身の認識の主旨はそうではありません。

私の主旨の一つは、常識的な知性の概念は間違っている、という考え方です。私が言う天才や才能は、むしろ阻害され淘汰されゆく異端であり、民衆の憧れの対象にはなっていません。民衆が憧れるのは世俗的な成功であり、そのために近代が規格化した知性観は、純粋に経済合理的なものだといえます。それは局所最適、と批判するのが私の立場です。

私が理想とするイメージの一つは、ご存知ないかな、『けものフレンズ』というアニメです。〜なフレンズ、として、誰もが個性を発揮して尊ばれています。一つの尺度で人間の価値を計る世界ではありません。君は〜が得意なフレンズなんだね、というのがけものフレンズの発想です。知性についての価値観もそうあるべきだと考えています。

> バカは怠慢や怠惰が理由にあらず、全ては生まれのせい!

一つの真理だと思います。あらゆる能力や性格について、先天的な要因が大きいと思います。

> 先生や大人の言うことを信じちゃダメよ〜ダメダメ。無駄な勉強なんか辞めて楽しく生きまーしょう!

一つの真理だと思います。努力すれば同じだけできるとか、努力は必ず相応に報われるといった価値観は、非現実的で宗教的だと思います。主体的な意欲に基づく努力ならぬ努力こそ、最大の果実をもたらすと考えます。しかしながら、例えば学歴が脳のブランドとされて生涯収入に影響しますから、若い時代に多少の我慢をして少しでもブランドを上げておくことは、生涯全体の幸福のために大切なことだと思います。

結論:基本的には真面目に勉強しましょう! しかし得手不得手はあるので、根本的には、本人の好きにしましょう。
[一言]
おそらく、IQの大きく違う人の話がかみ合わない一番の理由は概念量の差でしょうね。扱っている概念量の差。
仮にお互いに写真を見せて描かれているものを当てるゲームをしたときに64画素しかない画面と200万画素もある画面を使って写真を見せていくとどうなるか。そしてそれを同じ画素数のカメラで認識しようとするとどうなるか。
おそらく64画素の画面で見せられる写真はとても少なく相手に理解させられる種類はほとんどないでしょう。
その結果取れるコミュニケーションの種類が大幅に減ってしまい200万画素の人間が普段扱っているままの情報量を相手に提示しても相手は理解できないし、逆に64画素の人間が提示する大雑把な写真を見ても200万画素の人間は自分が日ごろ扱う量程度の理解はできない。なぜなら情報量が足りないから。
賢い人と愚かな人のコミュニケーションの断絶はおそらくここから生まれるのだと思います。
  • 投稿者: 玉露
  • 2018年 03月17日 23時34分
玉露様、ご感想ありがとうございます。

> 一番の理由は概念量の差

なるほど。そう思います。

まさにご指摘のように、デジタルカメラの解像度のような比喩は、最も適切なものでしょうね。その適切さの特徴は、「文字情報」ではない概念について、まさに「情報量」の存在を証するところにあるのかもしれません。

文字情報というものは、近代科学とともに劇的に発展した、功罪多きものだと思っています。あまりにも有用であるために知性の概念を歪め、例えばしばしば言われる、学校教育における記憶力の偏重、といったものを引き起こしていると感じます。賢い人々ほど読み書きに長ける傾向はあると思いますが、言語的な概念に過度に溺れてしまう人々もしばしば見られると思います。

つまり、複雑なものを複雑なままに理解し、複雑なままに推論してほしい、という感覚をしばしば持ちます。まさに解像度・概念量の論点だと思っています。簡単なキーワードに集約して理解したつもりになろうとしたり、実際的にはうまく動作する可能性の低い計画を立てる人がいると感じます。

あるいはまた、漫画における表情の表現についても、非常に繊細な優れたものがある一方で、大袈裟で下品な感じを受けるものがある気がしています。その時逆に私としては、この漫画作品を好む人々は、現実の表情をこの程度にしか知覚していないのではないだろうか、と感じます。料理の味つけに例えれば、味覚の繊細さに例えられるでしょう。

知性に優れた人々から劣る人々の方向にすら理解に支障が出る現実について、あるいはさらに知性の優劣の本質を考える時、「一番の理由」は実に、「概念量の差」に帰することができると思います。

しかし、知性について考える時に、他にも切り口はあると思いますし、それら切り口も有用だと思います。例えば私は(本文で触れたように)「推論の能力」というものに注目しますし、『認知バイアスで紐解く現代社会』という文章で触れたように、「認知バイアス」という論点に興味があります。

目の前の人のちょっとした振る舞いから、その心理を非常に見抜く人というのはいるでしょう。遠い過去のことであっても、風景の色彩や土地の匂いを深く思い出して比較できる人もいるでしょう。単に概念量と言っても、その才能には様々な専門性があると考えられます。現代において一見知性の優劣だと呼ばれているもののほとんど全ては、実際には知性の性質だと考えています。俗な話、例えばスピードスケートで金メダルを取るような選手が何を見てどう世界を知覚しているのか、想像を絶します。いわゆる知性にカテゴライズされていない知性は色々あるだろうと思います。

私は、人々の生活の幸福の程度を実際に維持・増加させることに興味があるので、概念量さえ多ければそれが価値だ、とは思っていません。だから推論や認知バイアスを重視します。言ってみれば、直観的な霊能者などは、暗算で計算する天才だと思います。一方で、推論する人は、紙に書いて計算しているようなところがあるのではないかと。小さな問題に分解して、論理の法則を適用している感じだと思います。それで結局、少し複雑な計算になるとどんな天才でも暗算では歯が立たない、というのが現実だろうと思います。だから、言葉による議論を重視します。(つまり、論理的に明示的に証明されない知性を軽視します。)

主観に溺れずに、社会が認知バイアスを客観視したならば、大衆というボリュームゾーンにおけるコミュニケーションのスタイルの価値が絶対視されることが減るのではないでしょうか。一見コミュニケーションが不得手な人々の中に、素晴らしく社会に貢献する大切な才能が多くいることが、認知されればよいと感じます。人間の知性が平等だと言うかのような考え方は、有害だと思っています。民衆が共有する常識的倫理観と呼ばれるものが、しばしば単に、愚者が共有する権威主義でしかない危険性は、初等教育で指摘されてよいと思います。
[良い点]
測れない物を計測し分かりやすくまとめてある所
興味深い考察でした。
[気になる点]
賢い人、愚かな人の文が交互に並べられすぎていて
少し読み辛かった。
個人的な好みですが賢い人は、○○であり、○○であり、○○である
とちょっとまとめてあると読みやすい気がします。
[一言]
人の知性とは処世術を重点に置いた総合評価グラフのようなモノだと思っています。
知識を共有する人しない人
予定を立てられる人代替案も出せない人
状況を測れる人考えもしない人……
共有したい情報を相手の利に沿って出す人出さない人……

ゆえに賢く見える人は対人を含めた項目を複数満たしていますが、
愚かな人は感情や娯楽、特定分野に特化した人であるため
専門用語やその業界の隠れた機敏が分からないのではないか、と愚考する限りです。
  • 投稿者: 華華
  • 2017年 10月22日 09時39分
 華華様、ご感想ありがとうございます! とても嬉しいです。

> 測れない物を

 確かに測れないですね。賢いかどうかなんて。

> 興味深い考察でした。

 ありがとうございます!

> 賢い人、愚かな人の文が交互に並べられすぎていて少し読み辛かった。

 すみません〜。

> 個人的な好みですが賢い人は、○○であり、○○であり、○○である
> とちょっとまとめてあると読みやすい気がします。

 確かに。

> 人の知性とは処世術を重点に置いた総合評価グラフのようなモノだと思っています。

 なるほど……。

> 知識を共有する人しない人
> 予定を立てられる人代替案も出せない人
> 状況を測れる人考えもしない人……
> 共有したい情報を相手の利に沿って出す人出さない人……

 そんな意味で賢い人は、一緒にいて嫌なこともなく、楽しそうですね。
 逆に、そんな意味で賢くない人といると、ちょっと面倒くさそうですね。

> ゆえに賢く見える人は対人を含めた項目を複数満たしていますが、
> 愚かな人は感情や娯楽、特定分野に特化した人であるため
> 専門用語やその業界の隠れた機敏が分からないのではないか

 確かに、賢い人のほうが視野が高くて広い、みたいな点から論じることはできそうです。
 私の本文では、処世術の苦手な専門家などを肯定的に書きましたが、色々な視点がありそうですね。

 ただそういう、気配りできちゃう立派な人を話題にすると、
「IQが20違うと話が通じない」
 という俗説の肯定的な根拠を示す議論はしにくい気もします。
 なので、その俗説を一面から理由づけして見せる意味では、多数者とは異質な視点を持つ知性として、処世術を否定し、専門に満足する知性を描いてみた本文も、まあ、意義のあることかな、と自負しております。

 しかしながら、知識は共有し、見通しを持って予定を立て、否定する時は代替案を出し、冷静に状況を俯瞰して、相手に必要な情報を察して提出する、そんな人間像を尊び、そうあろうと志すことは、知性の概念として優れたものであると理解いたします。
[良い点]
論理的に文章が這わせてあるので、意味をしっかりと受け取り易い。
[気になる点]
個人的には、途中から、長嶋茂雄さんがチラついてしまった。
作者に対して気になる点は無いのだが、ミスター長嶋がチラついてしまったのは、今作品を読んだ自分への気になる点である。
[一言]
面白かったです。

回転率と図書館の違い程度にしか考えていなかったので。時間軸が違えば、相互理解は遅れる物だろうくらいにしか。

愚かか、賢いかに含めて、賢明な人を作っていたら、もっと面白くなったのではと思います。賢い人が賢明な人かは、多分、ジャンルが違うと思うので。
 袋小路めいろ様、ご感想ありがとうございます! とても嬉しいです。

> 論理的に文章が這わせてあるので、意味をしっかりと受け取り易い。

 ありがとうございます!

> 個人的には、途中から、長嶋茂雄さんがチラついてしまった。

 えっ!? なんででしょう……(笑)。
 プロ野球の偉人ですよね。

> 面白かったです。

 良かったです!

> 回転率と図書館の違い程度にしか考えていなかったので。時間軸が違えば、相互理解は遅れる物だろうくらいにしか。

 頭の回転の速さみたいな感じですか?
 確かに、頭の回転の速い人と遅い人といますね。(私は遅いです……。)
 頭の回転は、かなり学歴と比例する気がする。膨大な知識から一瞬で引き出してきますからね。
 ワイドショーの司会者とかトークのうまい芸人とか、すごすぎて人間に見えないです。
 今回の本文の議論は、見ている世界の違いにフォーカスした感じなので、頭の回転の速さはほとんど無視してますね。

> 愚かか、賢いかに含めて、賢明な人を作っていたら、もっと面白くなったのではと思います。

 うーんなるほど。「賢明な人」ですか。
 どういうイメージか、いまいちピンと来てないです。
 頭がいいけど、処世術もそれなりにこなせる、みたいな人かな?
 確かに、そんな人達が社会を支えているのかもしれない。
 私は、「天才=異端アウトロー」みたいなのが好きなので、私がそんな賢明な人を論じるのは、苦手な気がします。
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