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[良い点]
「個人の意見」、「個人の信条」、「個人の嗜好」の表明として見れば極めて明晰な内容となっています。きちんと筋道を立てて語っているので、「あなたが何を考えているか」がよく伝わってきます。また技法に関する主張など、主観ではなく客観的理論として語ることのできる部分には一読に値するものがあります。ファンタジーを構成する諸要素の分析としても説得力のある主張を展開しています。
[気になる点]
「気になる点」と言うよりも、この項目名が変更される前の「悪い点」です。
 あなたの主張は結論ありきのトートロジーです。あなたはファンタジーが芸術であらねばならない理由を語っていません。主張を要約すると「ファンタジーは芸術であるべきだから芸術であるべきなのである」なのです。
 ファンタジーの質の良し悪しの基準は何に由来するのか。ファンタジーの「価値」とは何であるのか。ファンタジーの「定義」が何であるのか。これらに関し、その論拠、言い換えればそのように決めつけることの妥当性の保証がありません。現状では、単にあなたにとって好ましいもの、望ましいものを善とする自己正当化のための理論の域を出ません。
 あなたはまず、自説の客観的論証から入るべきでした。ある基準を示し、その基準の正しさを客観的説得力のある論理で証明しなければならなかったのです。1+1=2は誰にとっても常に真ですし、2>1もまた同様に真ですが、1+1の計算をする必然性や1と2の価値は一定ではありません。あなたの主張には、1+1=2の計算をしなければならない理由と、1よりも2の方が高価値である理由の説明が欠如しています。
[一言]
 思うに、あなたはファンタジーに夢を見すぎて、その価値や機能を過大に見積もってしまっているのでしょう。もしかすると、ファンタジーに何らかの定義を与えているのではなく、あなたが言うような作用を持つ何らかのものをファンタジーと定義する論点先取を行っているのではないでしょうか。
 或いは、ファンタジーというものの定義や管轄を拡大しすぎているのかもしれません。それはさながら、全ての学問は哲学である、結局は問題文や数式を読み書きするのだから数学も国語である、などと主張するようなものです。
  • 投稿者: ファンタジー書き
  • 2017年 08月07日 05時50分
ご感想ありがとうございます。
もうかなり以前に書いた「ファンタロジー論」ゆえ、自分でもその内容を全て覚えておりません。しかし、ご指摘されている部分の自覚を、今では多少持っているつもりです。

結論ありきのトートロジーである、というご指摘は、この「ファンタジー論」を読む限りにおいてまったく正当な批評であると思います。ファンタジーと芸術を結びつける理由や根拠が、自分のなかにないわけではありません。書いた当時においてもです。ですが、ほとんど無意識的に(でありながら限りなく意図的に)、私はその部分を「ファンタジー論」のなかに入れておりません。その当時は、その内容を「書けなかった」と言うほうが正しい言い方かもしれません。のちに書きました「詩の認識」において、ここで書けなかったものが、ある程度提示されているかとは思います。

「定義」についてですが、私はおそらく当時から、ファンタジーに対して定義を与えるつもりはまったくありませんでした。定義をしてしまうと、私の想定する「ファンタジー」が死んでしまうからです。そうではなく、ファンタジーとは生命力溢れる生きた力のことなのだ、ということを言いたかったのです。「想像力」という言葉がありますが、おそらく多くの人はこの言葉を概念としては抽象的にしか捉えていません。私がやりたかったのは、「想像力=ファンタジー」というものを具体的なイメージとして提示することです。「論」といいながらも、正確には「論」ではありません。私は、私の持つ「ファンタジーの認識」を示そうと試みました。
[良い点]
貴方は信念に溢れ、情熱的で気持ち良いですね。
[気になる点]
貴方は執着に塗れ、狂信的で気持ち悪いですね。
[一言]
①貴方は、西欧に夢見過ぎてると思います。
②日本人の舌は、世界的に見てとても敏感なことをご存じ?
③どの国でも、大衆向けの作品はウケますよ儲かりますよ。
④抹茶ケーキは「甘い」それとも「苦い」? それとも…?
⑤臥龍鳳雛は探せばちゃんと居ますよ。 どの国にでも。
⑥伝家の宝刀「みんな違って、みんな良い」
⑦非リア充にとって、美少女もハーレムも主人公無双も「ファンタジー」だよ。
⑧良薬は口に苦し。 でも水飴で包み込んでしまえば甘い。
⑨私の研究では「真の面白さ」は「生理的価値のある合理的意外性」より生ずる。 ってことになってるけれど、貴方はどう思う?(現実逃避も現実探究も究極的には同じ)
⑩「東方Project」を貴方はどう評価する? 難しいかな…
⑪東方二次小説「ルナティック幻想入り」は貴方好みかも?
  • 投稿者: プラナリア症候群
  • 2016年 06月19日 18時53分
ご感想ありがとうございます。
長らくここに来ておらず、返信も遅くなってい申し訳ございません。

一言として、たくさん書いてくださっておりますが、それに対して私からのコメントは特にございません。ただ、いくつか質問がございましたので、それに対してはお答えしようと思います。

⑨の質問に関して:
「生理的価値のある合理的意外性」が、いまいち具体的にイメージできないのですが、私がファンタジーに求めている「面白さ」と、ここで書かれている「真の面白さ」とは、もしかすると論点が違うのかもしれません。少なくとも、私は思考的面白さを求めてはいません。最終的に人間そのものの意志によって読まれ、意志によって体感、体現できるような「面白さ」をファンタジーに求めています。

「東方Project」について:
名前くらいは知っていますが、評価を語れるほど体験しているわけではありませんので、コメントは控えます。
[一言]
自分は無学なので理解出来ない部分もありましたが、
ファンタジーについてここまで思い入れがあることに大変驚きました。私はファンタジーとは安易に日常からかけ離れるのではなく、普段何気ない日常経験の中から自然と生まれてくるものだと思いました。
  • 投稿者: teru
  • 2016年 05月30日 23時00分
ご感想ありがとうございます。
仰る通り、日常生活のなかから湧き出るものこそが本来のファンタジーであり、それによって生活が真の意味で豊かになることこそ、ファンタジーの目的だと思っております。
[一言]
論点がズレたらすいません、シンプルに感じた事を書きます。
私は成熟したジャンルよりも未成熟なジャンルの方がパワーを持っていると思います。『私にもかけるんじゃないの?』という余地がある日本のライトファンタジーは、書き手に対するハードルを下げ、参加してみようとする求心力があるからです。音楽産業を支えているのが、その裾野にいる無数無名のアマチュア音楽家である様に、出版業界にも無数無名のアマチュア作家が裾野を作る事で、活気のある下支えが出来る可能性があると思います。人は力、そして何かを感じさせるためにはまず読んでもらう環境がいると思います。
また、ロックンロールの量産と商業化の反動として、グランジロックが生まれた様に、今の特殊なライトファンタジーとかテンプレ物と呼ばれる、よく似た〝なろう〟的ファンタジーの量産と商業化の反動がどんな物を生み出すか、生み出せず萎むか……それを私は楽しみにしています。
考えが纏まらずすいません、Saiさんの考えを否定する訳では無く、むしろこの様な意見も出てくる多様性がこのサイトに生まれてきたという事は、大きく化ける予兆なのかもしれないとワクワクしている次第です。
ご感想をありがとうございます。
パン×クロックスさんのおっしゃられる、このサイトにおけるひとつの多様性には、私も興味を持っております。そして、ご感想にて書いて下さった内容に関しましては、私も同意です。パワーという点で言えば、明らかに未成熟なジャンルのほうが力強いものを持っているでしょう。
しかし、ライトファンタジーはまだ未成熟なのか、という疑問が湧いてきます。これにはいろんな答えがあるでしょう。ある意味において成熟した部分もあれば、まだまだ未成熟な部分もあるかと思います。それくらいにライトファンタジーの世界は大きく、変動するものなのでしょう。好き嫌いはあるかと思いますが、それでもライトファンタジーが社会に与える影響というのは決して小さなものではありません。ライトファンタジーの可能性は未知であり、それは面白いことでありますが、同時に恐ろしいことでもあるように思うのです。つまり、それが社会に与える影響という面で、です。私が「ファンタジー論」で切に願っているのは、「ライトファンタジーが、どうか社会に対して健全なエネルギーでありますように」ということです。
[良い点]
概ね理解できます。
[一言]
豪勢な家を自らの手で建てるより、豪勢な家にただ住むだけ(誰かに建ててもらって)の方が気楽だし、満足。現代日本では後者の考え方を基調とする方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
だって、生きてくのにそれで何の問題もないんです。
淘汰と言えば淘汰です。
前者のように建てた家でなければ住んではいけない、イコール物語とは呼べない、なんてことはないでしょう。
むしろそう決めつけてしまうことこそ、文学の変遷に釘を刺すような暴論というか、エゴイズムかなと思います。

  • 投稿者: すぎたち
  • 2013年 11月18日 04時11分
ご感想をありがとうございます。

しかしおっしゃられていることは、本質から外れているように思います。私は文学の変遷を批判等するつもりはありません。変遷していくということのほうが当たり前ですから、むしろ、そういった流れに合う衝動を内的に持った作品がいつの世でも必要とされるという重要性を支持する立ち位置です。その意味で言うと、「豪華な家にただ住むだけの方が気楽だし、満足」という考え方が現代において多くなることを否定はできませんし、むしろそういう時代なのだと思っています。しかしこの裏にある真の衝動は、「私たちは豪勢な家を建てるより、そこにただ住むだけのほうがよい」というものではなく、「私たちには豪勢な家を建てることはできない。だが、すでに建っている豪勢な家を模倣することはできる。もしくは、それをうまく壊して、自分の作品のように見せることはできる」というものになるでしょう。ですがそういう衝動を持つ者は、同時にこうも思わなければなりません。「私たちは、今のところ自分の力で豪勢なものを創ることはできない。だが、今自分たちが必死にやっていることの成果として、いずれ、立派なものを創れるよう努めたい」
[一言]
 返信ありがとうございました。
 上手く伝わらなかったと思うことが一点あるので、そのことを説明するためにもう一度書かせていただきます。

 それは、現実逃避の文学としてのファンタジーに、筆者の誤解があるのでは、ということです。もちろん、本稿の主旨は、現実と向き合うファンタジーのことなので、それについての文句はほとんどありませんが、僕が言いたかった現実逃避のファンタジーというものは、現実に浮き沈みする面倒な問題(税金とか、公共医療制度とか)を意図的に排除し、男は常に格好良く、女は常に美しくある、常に読み手を前向きに明るくしてくれる爽快感を味わせる、カタルシスの文学のことなのです。
 これは一歩間違えば、キャラ萌えや、そういったことを目指す商売に悪用されて自堕落な方向へと行きがちな、悪い面に見られがちですが、これがファンタジーをファンタジー足らしめているのではと個人的には考えています。
 ギリシャ悲劇でアリストテレスが指摘するように、特に主人公を始めとする登場人物に対する鑑賞者の感情移入によって、カタルシスを引き起こし、鬱積した感情から、鑑賞者は解放されるのです。この解放こそが現実逃避の文学としてのファンタジーの魅力であり、その感情の浄化こそが、現実に生きる自分たちに、ファンタジーが与えるエネルギーでは無いでしょうか? むしろ、現実を探求する文学としてのファンタジーは、そのシリアスな面に偏り過ぎると、重いと言われ、倦厭される危険性すら孕んでいます。どっちもどっち、てところですね。

 何の解決にもなっておりませんが、筆者の答えに対し、そういった疑問を感じたので、再度感想を書かせていただきます。
 乱文失礼しました。
  • 投稿者: 退会済み
  • 15歳~17歳 男性
  • 2013年 05月04日 19時20分
管理
ありがとうございます。
八雲さんのページにお邪魔させて頂き、少しばかりエッセイを拝読しました。
ちょうど「現実逃避の文学」について詳しく書かれていたので、そちらも合わせて八雲さんの言わんとしていることを、私も理解できていると思います。そしてそのことに対して、私が反論するようなことはございません。私が誤解をしていた、というのもその通りです。

ここから先は、それぞれの考え方の違いなどもありますので、私が正しい、こうあらねばならない、と言いたいわけではないのですが、少し、思うところがありますので、添えておきます。
小説に限らず、あらゆる芸術は鑑賞者にとって常に能動的な態度を要求するものだと考えています。もちろん、受け身であっても鑑賞はできますが、それは感覚的なものを受け取っているにすぎません。ですが芸術とはそもそも、感覚的なものを越えたところにあります。私は小説ではなく、詩のほうがメインなのですが、詩は言葉で書かれるものでありながら、言葉で表現できないものを描いています。先日、私はラファエロの絵を見ましたが、五感のみで味わうのはもったいないものです。ラファエロも詩もそうですが、五感を越えて感受しようとするならば、人間は少なからず能動的にならねばなりません。その態度にとって、小説が「現実逃避の文学」である必要性は全くないのです。「現実逃避の文学」を否定するわけではありません。現代の時代欲求に対して、それが存在するべき理由は十分にあるのですから。ですが八雲さんもおっしゃるように、そこには危険性もあります。そのような危険性がありながら、それでも「現実逃避の文学」は、少なくとも現代においては存在しなければならないのです。でなければ、現代社会のほとんどの者が、文学離れをしてしまうでしょう。
これは大きな問題です。そしてこの問題の根は、現代の教育制度にまで伸びています。と言うよりも、教育制度こそが最も根本的な問題だと言えるでしょう。この危機感を共有できればと思い、長々と書きましたが、余計なことと言えばその通りです。しかしもしも気にかかれば、少しだけでもこの問題を考えて頂きたいと思います。
[良い点]
 ファンタジーの評論を書いた身として、この評論も面白く読ませていただきました。もちろん、僕自身のそれとは言いたいことも、結論も違うわけではありますが、それでも、こんな見方があるのだな、という貴重な意見を見聞き出来たことに、喜びを感じています。
[一言]
 ただ、トールキンや、多くのファンタジー評論家が指摘している点で、ファンタジーには大きく分けて二つあるのだと思っています。つまり

①現実逃避の文学
②現実を探求する文学

 の二種類です。この評論では、②の方に意識が偏り過ぎていて、①の良さを真っ当に評価されていないのではないかという懸念もありました。もちろん、どちらも安易に書かれてはならないものだし、そういった安易な量産品が、世の中を多く出回っているのは現状ですが。

 更に言うならば、「真理」という言葉をファンタジーと繋げるのはある意味で矛盾があると思いました。真理という言葉自体を、筆者がどう用いたのかは知らないのですが、誰がどう見てもこうである、という真理の概念は、ファンタジー、ひいては小説の多面的な見方を妨げているのだと思います。
 想像力を多く必要とする小説、特にファンタジーにおいては、物理の法則のような理論を当てはめるのは危険極まりないと考えています。それは、物語を定型に当てはめるのと同じようであり、それは、自由であるべきものに制約を掛けてしまうではないでしょうか。魔法や、異世界、異種族に対するメタファーは、要らないと言っても過言ではないと思うのです。
 確かに『ゲド戦記』の魔法の理論は、それだけで他作品との圧倒的な違いがありますが、そんな理論が無くても、面白いものは面白く感じるのです。そもそも、神秘や魔術のことを完璧に知ったわけではない僕たちが、方法論などに囚われた書き方を意識しなければならないのは過酷なことではないでしょうか。個人的には、そういった奇を衒うようなことではなく、ストーリーそのものの骨組みの部分がしっかりしていないから、最近のファンタジーは面白くない、と思われているのではないかと思うのです。

 乱文失礼致しました。
  • 投稿者: 退会済み
  • 15歳~17歳 男性
  • 2013年 05月04日 12時26分
管理
ご意見、ご指摘、ありがとうございます。

「ファンタジー論」を書いたのは数年前であるにも関わらず、現在でもこのように読んで頂けているということ、本当に嬉しく思います。しかし同時に、当時の未熟さがどんどんと自分でも分かってくるようにもなり、恥ずかしい思いもあります。

ふたつのご指摘に関しまして、少しばかりの弁解をさせて頂きます。
ひとつめのご指摘、ファンタジーは大きくわけて2種類あり、「ファンタジー論」においてはそのうちの片方に偏り過ぎている、というもの。全くその通りです。しかし私が「ファンタジー論」を書いた根本的理由を思えば、それで良かったものと考えます。論中において、私は「ファンタジー=人が生きるために必要不可欠な心のエネルギー」という旨を書いております。ファンタジーが人間に必要とされるのは、それが人間の現実生活において有用であるからです。となれば、ファンタジーを現実逃避の道具として用いることは、論の趣旨から外れてしまいます。

ふたつめのご指摘、「真理」とファンタジーを繋げることには矛盾がある、というもの。あるいは、そのような面もあるかと思います。しかし私の立場は、決して「真理」とファンタジーを直接的に結びつけようとは考えていません。大切なのは、ファンタジーというものが現実生活をおくる上でエネルギーとなることです。その際、私たちはただファンタジーをエネルギーとして使用するだけではなく、その使用法について注意すべき点も心得ておく必要があると考えます。車は生活の上で便利ですが、その使用法や交通ルールを守らなければ、一瞬で悪魔の道具となってしまうでしょう。それと同じことがファンタジーにも言えると思うのです。ファンタジーとは人間の想像力であり、この想像力こそが生活に潤いを与え、社会そのものの健全な発展にも繋がります。しかし、言うまでもなく、人間の想像力は無限です。その無限さをコントロールできないで小説を書くことは、人間を病的な領域に引きずりこみかねません。現在、市場に出ている小説のなかには、人間の心や精神にとって健全でないものが少なからずあります。それらは言ってしまえば、ファンタジーの乱用によって生じたものです。そうならないためにも、ファンタジーを用いて多くの人間に読まれる小説を書く者は、ある種の過酷さや重い責任を自らに課さねばなりません。そしてファンタジーの乱用は、ストーリーそのものの骨組みをしっかりと組み立てるという作業をおろそかにさせてしまうのです。

以上、長々と失礼致しました。
ともあれ、読んで下さり、感想まで頂けたこと、ありがとうございます。
[一言]
宗教と信仰と言う言葉から連想する意味が違う、と言うのは割とどうでもいいと事なんだろうと思うのでうっちゃっといて

今のところのアレやコレやの私的解釈まとめ

詰まるところ、ファンタジー論とは、『向上心を持て』ということ

『ああしたい、こうしたい』と言う目標を持ち、其れを成すための『ああすればいい、こうすればいい』と言う方策を模索し続けろ、と伝えたいのではなかろうかと感じた

・・・・・・でも、コレだと大抵の者が誰に言われずとも、極々自然に当然に成していることだから違う気がする
相手に伝わらなければ何の意味も成さないのだから、わざわざ難しく言う必要性がないし


筆者のしたいことと言うかなんと言うか

端的に言うと、『総てを内包する世界を俯瞰し、観測し、記録したい』

筆者は現在、其れを成す為の方策を模索中



  • 投稿者: ヒー
  • 23歳~29歳 男性
  • 2012年 02月27日 18時35分
[一言]
一読した後の感想『筆者はファンタジー教の狂信者なのではないのか?』

この考えは、もしかしたら自分が筆者の言いたいことを理解出来なかったからじゃないか?
難解な公式にぶち当たったときにするように解らないまま投げ出してしまっているんじゃないか?
そう考えて何度も読み返してみましたが、やはりこれは自分とは相容れない在り方なんだと納得しました

自分はファンタジーが大好きです
誰もが少なからずするだろう自分の世界に没入することが大好きです
その世界は自分で考えた世界もあれば、誰かが考えた世界の場合もあります

だからこそ自分は筆者の在り方が理解出来ません
何故、自分の描き出した世界しか認めようとしないのか?
何故、誰かの描く世界を認めようとしないのか?



冗長にしても言いたいことや伝えたいことが解らなくなってしまいそうなので伝えたいことを

自分は、真理はその読みと同じように、一人一人の心裡に一つずつあるものなんだと考えています
だから、自分だけの真理を盲信する余りに、誰かの真理を否定する事に必死にならないでくれよ
  • 投稿者: ヒー
  • 23歳~29歳 男性
  • 2012年 02月24日 12時33分
追記。

ひとつだけ、と書いておきながら、もうひとつ。

「自分だけの真理を盲信する余りに、誰かの真理を否定する事に必死にならないでくれよ」

と書かれていましたが、私の思いは、これと全くの正反対の場所にあると、付け加えさせて下さい。一人ひとりの心裡のうちに真理があるというお考え、それは近いところで私も同意です。そしてそれを探すためのきっかけとして、私はファンタジー論を、より多くの方に使って頂きたいと考えているのです。私は誰かの描く世界を認めていないわけではなく、より多くの人間の内に、ファンタジーの力(その萌芽は誰でも持っているはずです!)が開花することを望んでいるのです。
ご感想ありがとうございます。

ヒーさんのようなお考えの方に私から言えることは、何もありません。ただ、自己弁護の形でひとつだけ言わせて頂くとすれば、それは、私はただ、何においても真実が知りたいという、ただそれだけだということです。私の真理があり、誰かの真理がある、としたとして、私が本当に知りたいのは、私の真理や誰かの真理ではなく、それらを繋いでなお大きく我々人間の前にそびえ立つ、最も偉大な存在なのです。そして何よりも、ファンタジー論で書いている内容は、私自身の考えというわけでもありません。前述した偉大な存在の、現在の私なりの「解釈」であり、「翻訳」なのです。ですから、私が書いていることが真理なのではありません。

私は決して特定宗教への信仰があるわけではありません。しかし信仰のない者が、それでもなお純人間的な成長を求める時、私はそこに、本来的なファンタジーの力の必要性を感じるのです。
[一言]
 私がこの作品に出会ったのは、人づてに「貴方の作品に似ている作品がある、貴方のはそれのパクりではないか」という指摘に触れてのことです。
 確かに、私がファンタジーについて云々言うまえに、貴方ほどの方の、それも私の主張を私より非常に美しく纏められている文章があるようでは、私の一人相撲だった訳にございましょう。しかし、私と同意見の方がいらっしゃることに勝る喜びはございません。
 幸いにも、これほどの作品にであえる事が出来まして、複雑な心境ながらも、もう少し私のファンタジー論を見つめ直すきっかけを見つけました。この度はそのことの程を綴らせて頂く所在にございます。ありがとうございました。
  • 投稿者: 未設定
  • 2011年 10月15日 14時36分
私も、自分と同じご意見を持たれている方の存在を嬉しく思います。

ファンタジーの力は、今、日本に欠けているものを、少しずつでも埋めていくことでしょう。そのための土台作り、方向性を、我々は示さなくてはいけません。共に頑張っていきましょう。
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