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[一言]
>一人称表現ではあえて擬音を使うことで情報を制限することもできます。

これの説明ですね。

まず、三人称ではなく一人称に限定する話です。
一人称小説では主人公の語る言葉が地の分になります。つまり、主人公が知らない事は書けません。
例えばダンジョンもの。自分がいる部屋ではなく、他の部屋で爆発音があったとします。
それを
1:「ドーンという音がした」
2:「爆発音が聞こえた」
とした場合。
1では主人公は爆発音をそうと認識できず、単純に擬音表現しかできないという事になります。
2のようにもしそれが爆発音だと主人公が認識できた時は素直に「爆発音」と表記します。
ダンジョンに潜りたてのころは擬音表現、奥に潜っているときは記述表現を使う事で主人公の成長をうかがう事が出来ますよね。「ドーン」が「爆発音」と区別できるようになったのですから。
ご理解いただけたでしょうか? 分かり難かったら申し訳ありません。
  • 投稿者: 猫の人
  • 2013年 12月09日 01時25分

 ご教示をいただきまことにありがとうございます。

 つまり、擬音による音響の表現は、音響が発生したという以外の情報を読者に伝えずにすむという特徴があるということですね! 分かりました!

 特に語彙の乏しい主人公を語り手として置く場合には、むしろ擬音を多用するのが正しいのかもしれませんね。

 時間をとって書き込みをしていただきまことにありがとうございました。
[一言]
このエッセイを読んで、自分なりの考えを活動報告に書いてみました。
「感化された人間がこんなところにいる(笑)」と読んでいただければ幸いと思います。

擬音や顔文字についてですが、電撃文庫の「俺の妹が~」の使用方法が秀逸と感じております。
特に9巻。ヒロインの1人が考える「理想郷の絵」を見たメガネ少女(友人)の「この絵にワタクシがいない」という申し出に対し、絵に描かれた猫を指し、「この猫があなたのメタファーなのよ」と言った挙句「しょうがないわね」と猫にメガネを書き加えるシーンがあります。その時の猫の絵を顔文字で表現していましたが、あれは「顔文字でないと出来ない表現」の一つと考えています。
下手な説明で済みません(--;)

顔文字は独特の雰囲気もあるし、要は使い方だと思っています。
  • 投稿者: 猫の人
  • 2013年 12月07日 02時15分

 ご感想をいただきありがとうございます。

 活動報告のほうを読ませていただきました。

 えー、
 >一人称表現ではあえて擬音を使うことで情報を制限することもできます。

 私にはこの文の意味が分からなかったのですが、どういう意味なのかがすごく気になります。
 ちょっと聞いたことのない話なので……
 もしお暇があって、お教えいただけるようでしたら幸いです。


 「俺の妹が~」は読んだことがありませんので、また機会があれば読んでみたいと思います。


 ありがとうございました。
[一言]
漠とした疑問で申し訳ないのですが、「中世ヨーロッパ風」ってみんな共通認識有るんでしょうか?
中世ヨーロッパと言っても都市部や農村部では大分イメージが違うでしょうし、国や地域によっても印象が変わると思うのです。
しかもなろうでよくあるのは読み込むと、「それ、古代ローマ風じゃ?」みたいなものすらあります。
一人称の地の文や三人称でも登場人物の独白などであればその人物の主観ですが、3人称の地の文で「その町並みは中世ヨーロッパ風だった」って書かれても、幅が広すぎて何も描写していないように思えます。

「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」とか「赤いレンガで覆われた家々が軒を連ねる町」って書くと想像の幅が狭まって良いと思うのですが。

いっそ描写なんていらないくらい、「中世ヨーロッパ風の街並み」ってものには意味がないと思えます。

  • 投稿者: 相神 透
  • 2013年 12月05日 17時22分

 ご感想を頂き、ありがとうございます。


>「中世ヨーロッパ風」ってみんな共通認識有るんでしょうか?


 これはですね、以下はなんの根拠もない、私の個人的見解になりますが、

 ドラクエなどのRPGゲームとか、ロードス島戦記のアニメとか、ネトゲとかから作られた、非常に曖昧な『日本的西洋ファンタジー世界』というべき共通認識めいたものがある、と思っております。

 そうであるからこそ『中世ヨーロッパ風』などという言葉が発生したのだと思います。

 しかし、この『中世ヨーロッパ風』なるものは、あくまで、多種多様なサブカルチャーから自然発生してきたものでありますから、現実のヨーロッパとは直接の関係はありません。

 また『中世』ヨーロッパといいますが、そういうサブカルチャーを見る限り、実際には中世っぽいものと近世っぽいものが混淆したものであるような印象を受けます。

 つまり『中世ヨーロッパ風』なるものは、現実の足場をほとんど持たず、様々な創作物の総体から現れ出でた曖昧なイメージに過ぎません。

 ですから、

>幅が広すぎて何も描写していない
>いっそ描写なんていらないくらい、「中世ヨーロッパ風の街並み」ってものには意味がない
 
 とおっしゃいますが、これは全く正しいご見解であると思います。


 おそらく、ある小説中に『中世ヨーロッパ風』という言葉が登場した場合、それは描写といえば描写ですが、描写ではないといえば描写ではないのかもしれません。

『中世ヨーロッパ風(ファンタジー)』という表現が表すものは、おそらく、
その小説が『和風(ファンタジー)』ではなく『中華風(ファンタジー)』でもない、ということを読者に対して宣言しているに過ぎない、ということなのであろうと思われます。


>いっそ描写なんていらないくらい、「中世ヨーロッパ風の街並み」ってものには意味がない

 つまり「中世ヨーロッパ風の街並み」は、ある種の宣言であって、描写ではないのです。
 もちろん、読者の想像力を限定する宣言のことを描写というのだという考え方からすれば、これは間違いなく描写ということになりますが、描写というには値しないと言われればそのような気もいたします。

 しかし、それでも良いのだというのが当エッセイの立場であります。

 例えば例としてあげてくださった>「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」であれ、

 ・ロンドン風の「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」
 ・ギリシャ風の「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」
 ・ぺトラ遺跡風の「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」
 その他その他、色々に解釈が可能です。

 そしてその多義的な解釈がなされてしまうということは、異世界系小説の限界そのものなのです。
 
 現世界現代小説であれば、例えば「東京スカイツリー」と書けば、それは東京に建っているアレのことで、もう他の解釈はありえません。そしてこのような厳密な描写なくしては、本当は描写というものは不可能なのではないかと思うのです。

>「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」と作者がこのように描けば、
・ロンドン風の「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」
・ギリシャ風の「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」
・ぺトラ遺跡風の「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」

このように解釈が分裂するこれは、果たして描写というに値するのでしょうか。

 私の見解では、究極的には異世界の描写は不可能です。
 がんばって描写をしても、それが読み手に届く瞬間に曖昧に多義的に分裂するからです。

 であればその『描写』は『中世ヨーロッパ風』などという曖昧な宣言ともつかぬ描写と、その曖昧さの点で何ほどの違いがあるでしょうか?


 ということであります。


 しかしもちろん、上記に書いたようなことは、ある種の暴論でもあります。

「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」のことだって、たとえば
「どこか地中海周辺の地域を思わせる、白っぽい石が積み上げられた、石造りの建物が立ち並ぶ街並み」と書けばよいのですから。
 しかし、このような書き方は、小説におけるナレーターが現実世界に足場を持つ、例えば異世界トリップ小説などでしか用いることはできませんし、描写が長くなりすぎると小説のテンポを損ねます。

 でも、異世界の人物を主人公においた重厚なハイ・ファンタジーというのもこの世には存在しているわけですから、あきらめることなく、より適切な描写を模索していく必要があるのでしょう。
(でも個人的には、その手の造語とか使いまくりの、その世界に慣れるまである程度我慢して読まなきゃならない系の小説は、読むのがつらいうえに、結局のところ作者と読者それぞれで別の物語を見ているような感じになってしまいあまり好きではありません。)

 とても長文の返信になってしまい失礼しました。
 また何かご意見がありましたら、よろしければお聞かせいただければ幸いです。
 
 ありがとうございました。
 
[良い点]
 批判エッセイはいくつか読みましたが、擁護エッセイを読んだのはこちらが初めてでしたので、とても新鮮です。
 「レッツ炎上!」という割に、丁寧な内容かつ、思いっきり予防線を張っていたのには少し笑いました。
[気になる点]
 自ら「こじつけ」とは仰ってますが、詭弁になってしまっている部分が多いのが残念です。
 特に豆腐とプリンのたとえ話は、一般論に極端な例外を持ち出すことによる論点のすり替えとなっています。
 そもそも豆腐とプリンは固有の料理(あるいは食材)を示す名称ですが、「中世ヨーロッパ風」はそうではありませんから、同じ土俵に上げて考えること自体に無理があるかと。
[一言]
 はじめまして。群司といいます。
 大変興味深く読ませて頂きました。

 最初は色々と感想や私見、反論を書いていたのですが、半分ほど書いた時点でざっと五千文字を超えていたので、こちらに書くのは断念してしまいました。
 折角書いたものをお蔵入りさせるのも勿体ないのでエッセイ化しての公開を考えており、その際「こちらのエッセイから影響を受けたことの公言」と「一部反論や内容の補強のための引用」をしたいと思っています。
 厚かましいようですが、もしご不快でなければ、許可して頂けると嬉しいです。

 冗長になり過ぎる悪癖があるので、感想欄での反論の議題は一つに絞りました。顔文字についてです。
 私はこの「小説家になろう」というサイトで顔文字を使うことは反対です。
 何故なら「タテ書き小説ネット」という存在をまるっと無視しているからです。なろうはPCで普通に見る分には横書きですが、デフォルトの機能として縦書きPDFに変換出来ますよね。顔文字は横書きありきの表現なので、読者側の閲覧環境の選択肢を強制的に狭めてしまうことになるのではないでしょうか。
 そうでなくとも、顔文字は記号を組み合わせた一種の絵なので、小説に組み込むにはいかがなものかなと思わないでもないです……。

 長文失礼致しました。公言と引用の件、よろしければご検討下さい。
  • 投稿者: 群 司
  • 2013年 10月28日 00時54分
 ご感想をいただき、ありがとうございます。


>公言と引用の件、よろしければご検討下さい。

 はい、もう許可どころか大歓迎でございます。
 群さまがお書きになるエッセイのほうから当作品にもアクセスして下さる方もいるかもしれませんしね。ぐへへ(ゲス顔)
 ……というのは冗談としましても、
 そもそも当作品自体が、憂鬱な若人様の『なろう作家、読者の皆さま方へ』を読んでついカッとなって書いた作品です。
 それに、本宮愁さまから当作品に頂いた感想とそれに対する返信そのものを、エッセイの弟4回として投稿したこともあります。

 ですから、許可しないなどという選択肢はそもそもありません。ご存分にお書きください。
 楽しみにしております。ていうかこのサイトでは初投稿なんですね。

 群さまをお気に入りユーザーに登録して待機しておりますッ(嬉)。





>顔文字は記号を組み合わせた一種の絵なので、小説に組み込むにはいかがなものかなと思わないでもないです……。

 えー、これはちょっと難しい問題なのですが、顔文字は絵といっても記号なのですね。
 『記号』といっても
>『記号を組み合わせた一種の絵なので』 というときの記号とは意味が違う『記号』ですね。

 つまり『漫画の絵は記号的だ』とかいうときの『記号』です。
 例えば、漫画の中であるキャラクターが起こっていることを表すときに、額に血管のマークを描き込んだりすることがありますよね。
 この血管のマークってのは便利なもので、このマークを使えば、そのマークを付けているキャラが怒っているということを一目瞭然に表すことができます。
 笑顔のキャラの額に書き込めば『顔だけ笑顔で怒っている』という状態すら表現できます。
 
 しかし、この血管のマークを何の予備知識もない人、たとえばアマゾンの奥地に住む原住民とかが見て、その意味を理解できるかといえばそうではないと思います。
「この絵の人間の額についているマークはいったい何か?」とか聞いてくるかもしれません。

 日本の漫画に長く触れてきた私たちであるからこそ、この血管のマークが怒りを表す『記号』であると事前に知っており、それゆえに、漫画のキャラの額に血管のマークがついていると、そのキャラは怒っているんだなと分かるのです。
 つまりこの血管のマークっていうのは、絵というよりは記号なのです。

 そして、おそらく顔文字も血管のマークと同じ意味での記号なのだと思います。
 ( ゜д゜)とか(*´∀`*)は記号化され定型化された感情の表現です。

 記号と絵との違いは何か。
 それは、それを見るのに事前の了解、常識を必要とするかどうかということです。

 そして、文字というものはおしなべて記号なのですね。
 つまり漢字とかがもともとは絵であったんですが、そのうち漢字が絵ではなくて、特定の意味を持って記号化し、つまり文字になります。
 例えば『山』とか『川』とかいう漢字は、純粋に絵としては鑑賞されません。
 日本では、その絵としての形から意味を判断する人はほとんどいません。
 
 『山』なり『川』なりの漢字の意味を事前に知ってるから、それを文字として読めるのです。
 つまり文字は特定の意味を表す記号なのです。
 
 そうすると、記号化した絵=文字。となり
 顔文字=記号化した絵 と考えますと、

 顔文字=記号化した絵=文字 ⇒ 顔文字は文字だ! となります。 
 

 文字ならば小説中で使ってもなんら問題ない!! となります。



 ……いやあ、いつもながら詐欺くさい論理展開ですね!
 でも詭弁すれすれが当エッセイの特色ですから仕方ないですねっ(開き直り)

 でも、この返信の文をもっと膨らまして、このエッセイがもう一話分書けそうです。
 群さまのおかげです。


 ありがとうございました。
[一言]
 流し読みになっているような気がしましたが、一応全部読みました。
 勉強になりました。
 最近、スランプですが、ここにある指南を取り込んで、頑張りたいと思います。
 三回も書きました、失礼しました。
 では。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2013年 10月01日 23時38分
管理
 ご感想をいただき、ありがとうございます。

 まず、

>小説内に「中世ヨーロッパのような」という言葉が出ると、小説の世界から覚めてしまうような気がします。一人称であれば問題ないような気もするのですが、三人称の小説で「中世ヨーロッパのような」と言う描写があると安っぽく感じます。

 これは非常に傾聴に値するご意見であると思います。



 以前、読者さまから当エッセイに寄せていただいたご感想で、

『中世ヨーロッパ風』というのは描写でもなんでもなく、作者が頭の中で思い描いた街並みに対する、作者の感想(あるいは一人称なら主人公の感想)でしかないわけです。何が言いたいかというと、作者は頭の中にある情景をそのまま書けばいいのです。」by明日空 眼張さま 


 というご意見を頂いたことがあります。

 このご意見を前提として、頂いたご感想のなかにある、
 中世ヨーロッパ ⇒ 一人称なら可 しかし 三人称なら不可 という命題を検討してみましょう。

 そうするとこれは、別の言い方をすれば、同じ『中世ヨーロッパ風』という文言が書いてあっても、

 一人称 ⇒ 視点人物が風景に対して抱く感想
 三人称 ⇒ おおむねナレーターたる作者が風景について述べる事柄

 になると思うのですよ! どうですか、これは発見です!


 つまり、その辺の中高生(仮名:タカシ)が『中世ヨーロッパ風』異世界にトリップしたとします。

 そうすると、そのタカシは、その異世界で町並みを見て「ああ『中世ヨーロッパ風』の街だな」とか思うわけです。

 これは小説の流れとしては、むしろ自然です。
 もし、そのへんの、中高生が、知らない町並みを、あまりに豊富な語彙で、流れるような情景描写をするとかえって不自然だからです。 
 このタカシってやつはそのへんの中高生とは思えないほど語彙が豊富で描写が上手だな!
 まるで小説家のようだな! 
 とツッコミを入れたくなります。

 ですからそのへんの中高生を視点人物として置くなら、視点人物たる彼は『中世ヨーロッパ風だな』くらいの安易な感想を抱くのが、むしろ自然なのです。


 しかし『ナレーター=作者』の度合いが高まってくる、三人称ではどうでしょうか。
 
 この場合に無自覚に『中世ヨーロッパ風』などと安易に書いてしまうとそれは単に、作者の語彙や表現力の不足、あるいは怠慢を明らかにしてしまうことにもなるでしょうか?


 結論としては、

――『中世ヨーロッパ風』という表現は語彙や表現力の貧困な人物を視点人物とする可能性がある、一人称視点では、視点人物のキャラクター造形の表現として許容されうる。
 しかし、一人称に比較して、語り手としての作者が前面に出てくる三人称においては『中世ヨーロッパ風』などという安易な表現は、単に作者の表現の稚拙さや怠慢を表すに過ぎないので許容されない――

……ということになるでしょうか?

 いやあ、これは発見ですね!!


 頂いたご感想を考慮してみた結果、またしても感想欄を含めた場合の本エッセイの完成度が上がってしまいました。ありがとうございます!

 本エッセイは頂いたこのご感想を含め、皆様から頂きましたたくさんのご感想に支えられております。まことに幸せなことでございます。

 ありがとうございました。


 ……あ、それと 

 >最近、スランプですが、ここにある指南を取り込んで、頑張りたいと思います。

 と言っていただきましたが、当エッセイは超強引我田引水的論理展開が多用されておりますので、その話半分ともうしますか、話二割程度で聞いて頂きますのが正しい用法です。
 ”ここにある指南を取り込ん”だ結果、かえっておかしくなるということがないようにお気を付けください。

 失礼しました。

[一言]
 続けてなのですが、第二部を読みました。

 おおむね作者の考えに同意しますが、

 小説内に「中世ヨーロッパのような」という言葉が出ると、小説の世界から覚めてしまうような気がします。
 一人称であれば問題ないような気もするのですが、三人称の小説で「中世ヨーロッパのような」と言う描写があると安っぽく感じます。
 しかし、ラノベはほとんど一人称、もしくは三人称単視点ですか……。
 問題ないかぁ。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2013年 10月01日 23時08分
管理
[一言]
 第一部を読んだのに過ぎないのですが。

 こんにちは、ヨシダカケルと申します。

 ふむふむ、なるほどと思いました。
 視点を変えるのは、読者が混乱しない程度であれば、いくらでも変えたらいいと、私も思うのですね。
 最後まで読むには時間が掛かりますが、ゆっくりと読んでいこうと思います。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2013年 10月01日 22時25分
管理
[良い点]
第一話(?)を読む限りは必然の思いからであったようですが、あえてこれら一般的意見に反論したその勇気というか姿勢に対して評価したいです。
[気になる点]
お蔭でそれらを踏まえて尚、起こり得る問題に気づくことができました。
まず本文中で挙げられている四点に関しては全て、ことがこのサイト内だけで起きるという前提ならば、おっしゃる通り表現方法の一つとして全く問題はないと思います。
「郷に入っては郷に従え」の言葉にある通りで、そのようなローカルルールがあってもいいでしょう。
ただし、それはあくまでローカルルールとしてなのです。
些事から言いますと、それらを当然のものとして身につけてしまった人が作家を志そうとした時の一般的手段としては出版各社が行ってる賞に応募したらどうなるでしょう?
もしネットスラングや<Side ○○>や未完結の作品を常識として作品に盛り込んでしまったら?
正直に言ってしまえば、不幸な出来事ではありますがあくまでこちらは個人的な問題であり、それらは各人がどこかで気づき矯正していかなければいけないことだと思うので実は大したことでもありません。
作家を目指すようならば、それら言葉に対する誠意のようなものは自ら身につけてくれればいいだけのことです。
あえてこの話に触れたのは、ローカルルールによって齎される“影響力”に着目してもらいたかったからです。
こちらが本題になります。
さて、終章において『模造作品』に関しての定義がされました。
定義については、その章の内容も含めてまったく正しいと思います。
問題は、おそらく先に挙げられた四点のルールを作り上げたと思われる若年層が、“その『模造作品』と同じ人真似である『盗作』の区別がつくかどうか?”ということなのです。
それは考えすぎではないかと思われるかもしれませんが、実は最近ツイッターで以下のようなやり取りを見ました。
ツイッターについてどの程度ご存知かわからないので説明が難しいのですが、ツイッターには自分を表すイラストなり写真なりのアイコンというものが付けられます。
とある若い子が無断で他人が描いたイラストを使用し、それに気づいた作者から使用をやめるか作者の名前をきちんと明記して欲しいと連絡を受けての友人とのやり取りでした。
結論から言いますと、結局その子は「無断使用」ということがまるで理解できず、挙句に作者からの要望を難癖として判断してしまっていました。
彼我の認識が若年層であるから故に甘かったのか、著作権というものに対する認識がその子に限っては必要のない知識だったのか、詳しくはわかりません。
ですが、『著作権』については面と向かって考えたことのない人間にとって難しいことはわかります。
そして、このような周りを巻き込む出来事は、ただでさえ難しい『著作権』という概念の延長線上にある『模造作品』という定義で助長されることは想像に難くないように思われるのです。
以上のような理由から一般の常識を持つ人に対しては比較的当たり前のお話である終章は、そうでない可能性がある人に対して致命的な不備があると感じました。
「類似した作品」と言われた時に思い浮かび、また結びつきやすい『盗作』についても触れ、その違いについて言及すべきではないでしょうか。
少なくとも「『パクリ』はいけない」と訴える側の意見が暗に『盗作』を否定している以上、それを擁護するのであれば避けて通れない問題のように感じます。
[一言]
非常に長文になってしまいましたが、けして悪意からの批判でないことだけはご理解いただければと思います。
訴えたかったのは、この作品が『盗作』の言い訳に使われる危険性についてです。
私の文章力のなさ故で上手く伝わってなければ、申し訳ありません。
ご感想・ご意見を頂きまことにありがとうございます。


>若年層が、“その『模造作品』と同じ人真似である『盗作』の区別がつくかどうか?”
>この作品が『盗作』の言い訳に使われる危険性

ですか……。


本エッセイの第四回の最後の部分におきまして『擁護されるべき模倣作品』について

――
本エッセイが擁護しようとしている『模倣作品』とは『……相当程度に似たような設定・展開の作品ではあっても、独立した作品と言い得るだけの……加工やヒネリがある作品』
――

と明記されておりますから、それで大丈夫なような気もいたします。

がしかし、

>「類似した作品」と言われた時に思い浮かび、また結びつきやすい『盗作』についても触れ、その違いについて言及すべきではないでしょうか。
>少なくとも「『パクリ』はいけない」と訴える側の意見が暗に『盗作』を否定している以上、それを擁護するのであれば避けて通れない問題のように感じます。

という、このご意見は正当であるとも感じます。

 私個人としては、
『盗作』    (法的にも道徳的にもアウト。公開すれば訴えられかねない。)
『パクリ作品』 (法的にはセーフ。道徳的には感心できない。公開すべきでない。)
『模倣作品』  
(法的にも道徳的にもセーフ。昔から何ら非難されることなく堂々と行われてきたこと。故に公開しても全く問題なし。)

このような基準を持っております。


 そして、その前提をもとに本エッセイを書きました。
 しかし、上記のうち、本エッセイにおいて明確に定義されているのは『模倣作品』のみではないか、と言われてしまえば確かにその通りであると思いますし、故にもうすこし、きっちり書くべきだと言われれば確かにその通りとも思われます。

ということでありますから、近日中に、補足説明の文章を連載第5回として投稿することにいたします。


 貴重なご意見を頂きありがとうございました。
[一言]
「狂った独自の論理展開」というフレーズが浮かびました。
この手の文章にありがちな押し付けがましさが薄く、読みやすかったです。
むしろニヤニヤしながら読んでました。

※以下、やりとりに水をさすような文章なので不適切と判断された場合はお手数ですがこの感想を削除してください。

極論すると、文章を生み出す人達の意思統一なんて不可能なので、これから先も読み手が気に食わないお話はどんどん作られていくことになると思います。
結局は読み手側がどう折り合いつけるかになっちゃうと思うんですが、その折り合いをつけるために、どんなトンデモ理論であれ理屈をこねる試みをやってみるのは非常に面白いと思います。

なんとなくですが、ここ(感想)では酒でも飲みながら
「こう思うんだけど」
「それってホニャララの部分がおかしくね?」
「じゃあコイツで補足しよう」
「おっと今度は別のホニャララがおかしくなってるぞ」
「えー?じゃあコイツでどうだ」
「それよりもコッチの方がよくない?」
「でもそれだとアソコが弱いしー」
みたいな感じで、友人同士が適当に駄弁りながら整合性をとっていくような、もうこれ遊んでるだけじゃね?ぐらいの気分で議論するのがベストなのかなあと思いました。
議論って設定突き詰める遊びするのに似てると思うんですよね。
やってく内にマジギレしちゃう人が出てくるのもご愛嬌ってもんです。

でも自分は頭が追いつかないので、実際の議論参加はごめんなさいします。
  • 投稿者: 神賀
  • 2013年 03月06日 22時22分

 ご感想を頂き、ありがとうございます。

>「狂った独自の論理展開」

 そうですね。作者である私からしてもおおむね正しいと思われることにむりやり難癖をつけるようなエッセイでありますから、ちょっとばかしトンデモ的な論理展開になりますことはお許し下さい。

 間違っているとまでは言い切れない、くらいの線で理屈をこねるのが本エッセイの目指すところでありましたが、しかし、そうであっても論理が展開していないことはないわけですから、それなりに正当性はあると思っております。

 つまりですね。小説の作法とか決まり事というのは、何であれ解体される方向に向かうのが当然であって、時がたてば、そういうものはほとんどなくなって、何でもありの方向に向かっていくんだと思います。


>でも自分は頭が追いつかないので、実際の議論参加はごめんなさいします。

 いえいえ。

>極論すると、文章を生み出す人達の意思統一なんて不可能なので、これから先も読み手が気に食わない>お話はどんどん作られていくことになると思います。
>結局は読み手側がどう折り合いつけるかになっちゃうと思うんですが、その折り合いをつけるために、>どんなトンデモ理論であれ理屈をこねる試みをやってみるのは非常に面白いと思います。

 これも貴重な議論というかご意見であると思います。

 
 本エッセイをお読みいただきありがとうございました。
[一言]
大変興味深く読ませて頂きました。しかも感想欄でも皆さん真摯に議論されていてすばらしいと思いました。
私は文章は書けないのですが、読者の立場から、感想を書かせて頂きます。(ほとんど個人的な考え、要望です。起承転結がつけられないので、えらそうにコメントをつける形なのをご容赦ください)

・世界観にオリジナリティーがなく、そのために、中世ヨーロッパ風・・・
→個人的には、「中世ヨーロッパ風」という表現は問題ないと思います。ただそのあとに、具体的にその場をイメージできるような表現をしてくれると読みやすくてうれしいです。
そこで何が描写されているかで、作者様、主人公・・・語り部が何に興味を持っているか、またはどういう知識前提で語っているのかをイメージすることもできるからです。
できれば避けてほしいのは、読者の背景、年齢、等々によって解釈に幅が出る表現です。
例えば「スライムが現れた。やっぱり弱かった」・・・あまりいらっしゃらないと思う、イマイチなたとえですが、ドラクエ型なのかドロドロのゼリー状なのか、色は、においは、大きさは・・・?あまり書きすぎると冗長なのでしょうから、バランスをとるのは作者様の力量なのでしょうが。

・エタっても・・・『テーマ優先型』と『設定・ガジェット優先型』・・・
→「格好良い主人公が活躍するのを描く」のも立派なテーマだと思います。ですので、それならおっしゃるとおり完結していなくてもキリの良い所まで読めれば十分に楽しめます。
最初から方向性も終わりのイメージも持たずに書かれてしまうと、読み手としてつらい時もありますが・・・
プロの小説家、大家の方でも未完作品が山ほどある方もいらっしゃいますし(私の大好きな田中芳樹先生とか・・・)、未完なら未完で読者の想像の余地が残っていて楽しいと、私は考えますし、作者様のおっしゃるとおり、未完になる事を恐れて二の足を踏むくらいなら、どんどん書いてブラッシュアップしたり、腕を磨いて頂いて面白い作品が世に増えるほうがうれしいです。

・〈side ○○〉〈side out〉
→同じシーンを異なる価値観の人の視点で見られるので、私は好きです。
ただ、頻繁すぎたり、キャラの書き分けが不十分な作品では混乱と興ざめを覚えた経験もあります。
小説を書いた事がないので素人考えなのですが、この手法って、経験も知識も価値観もとにかくすべてが異なる複数のキャラクターの視点を、読者に違和感なく使い分けなければならない、という事は結構難しいのではないかと感じましたが・・・違うのでしょうか?

長文失礼しました。皆様これからもがんばって、楽しく書いてください。
  • 投稿者: ひろかず
  • 30歳~39歳 男性
  • 2013年 02月16日 11時30分
 ご感想を頂きありがとうございます。

>小説を書いた事がないので素人考えなのですが、この手法って、経験も知識も価値観もとにかくすべてが異なる複数のキャラクターの視点を、読者に違和感なく使い分けなければならない、という事は結構難しいのではないかと感じましたが・・・違うのでしょうか?

 はい、全くご指摘の通りであると思います。
 〈side ○○〉〈side out〉形式を用いる用いないにかかわらず、視点変更をする場合は、とりわけ一人称で視点変更をする場合は、視点人物の経験、知識、価値観をふまえた上で、違うキャラクターを描き分けなければなりません。

 例えば同一の風景を描写するとしても視点人物ごとに違いがあるかもしれません。
 つまり、ある同じ街中の風景を見た場合、ある女の子の視点人物は正面にある洋服店のウインドウに飾られてある洋服に目がいくかもしれませんが、
 同じ風景を、別の男の子の視点人物が見た場合は、その洋服店の存在すら気づかず、その洋服店の前をはしっている道路に停まっていたスポーツカーに注目するかもしれません。

 キャラクターごとの、行動パターン違いや、語彙の種類や量にも気を配る必要があります。

 はっきり言って面倒で難しいといって差し支えないでしょう。


 しかし、視点人物の経験、知識、価値観をふまえた上で、違うキャラクターを描き分けるとはいうものの、それが常に書き手にとって難しいかと言われますと、そうとばかりも言いきれないのです。若干難易度が下がる場合もあるんですね。

 どういうことかと言いますと、本エッセイの本文中にも登場しました、批評家の東浩紀さんの書いた『ゲーム的リアリズムの誕生』という本の中に書かれてあるのですが、
 今のキャラクター重視の小説やゲームやアニメに登場するキャラクターはある程度類型化されているということなのだそうです。

 つまり、個々の作品中に登場するキャラクターは、全くオリジナルなのではなく、過去に存在した作品中のキャラクターの変形バージョンに過ぎない場合が多いということなのです。
 具体例をあげますと、ひろかず様がご存知かどうかは分かりませんが……

 新世紀エヴァンゲリオン:綾波レイ
 機動戦艦ナデシコ:星野ルリ
 涼宮ハルヒの憂鬱:長門有希

 これらのキャラクター達は登場する作品が違い、キャラクターとして個々に多少の違いもありますが、しかし実質的には『似たようなもの』と見えます。

 つまり、言動などの行動パターンや、反応の仕方が似ているんですね。
 そして、高度に情報化され、娯楽にあふれた社会の子供として過ごし、数多の小説、マンガ、ゲーム、アニメ、そういうものに触れていく過程で、そういう類型化された人格すなわちキャラクターのパターンをある程度知っていることも多くあるのではないかと思われます。

 そして、この類型化されたキャラクターのパターンを借用して書いていく限り、視点人物ごとの描き分けといったところでそうは難しくないのだと思われます。


 いや、もちろん、そんなキャラクターの借用ということをされている方ばかりではないでしょうから、視点人物の経験、知識、価値観などをすべて一からオリジナルで設定し、描き分けておられる方もおり、その場合は、視点変更と言うのはとても難しいやりかたではあるのです。
 しかし、視点変更=理屈からいって難しいはず! とまで言えるかといいますと、そうとばかりも言いきれないということでしょうか。


 時間をとって本エッセイを読んでいただきありがとうございました。
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