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[良い点]
Side○○の擁護!
私は恋愛話を書くので、どーしても主人公カップルの両方の想いをガッツリ読みたい人です。だから、この書き方は好きです。だから、擁護、嬉しいです。
ただ、結構、書くの難しいんだけどな?
[一言]
中世ヨーロッパ風の街並みって表現は、使いたいですね。一発で表現できるから。
それ以降のいろんな場面で実況中継するのに、あの一文でグッとリアルに想像できますからね。

いろいろ小説書く初心者的には嬉しい擁護です。
これからも、頑張って下さい。
 ご感想を頂きありがとうございます。

>中世ヨーロッパ風の街並みって表現は、使いたいですね。一発で表現できるから。
それ以降のいろんな場面で実況中継するのに、あの一文でグッとリアルに想像できますからね。

 そうですねー。やっぱりそれ単独だとちょっとさみしいですけど、『中世ヨーロッパ風の街並み』に+αで描写があると、けっこう良いですよね。

 時間をとって本エッセイをお読みいただきありがとうございました。
[一言]
たびたび失礼いたします。

返信ありがとうございます。

①に関しましては、まとめていただいた通りです。しかしながら完全に私見ですので、ご参考までに。



③>描写こそが小説の重要な要素であり『力』でもある

そこまでは考えてないです。中世ヨーロッパ風であっても、何かこの手に今触れることができるような、とっかかりと言いましょうか、共感できうる部分を書いてもいいのではないかと思うのです。

また例に挙げていただいた『闇の左手』や『世界の中心で愛を叫んだ獣』読んだことはないのですが、翻訳ものなんですね。
これはもしかすると翻訳家の腕もあるかもしれません。
こういう作品は実は原文で読んだらまったく印象が変わることがあります。

ドラマの話で恐縮ですが、海外ドラマで、刑事が張り込みをし、容疑者がそこへやってきたシーンで、吹き替えも字幕もこの時刑事は「来たぞ!」と言います。ですが実際のセリフは「パーティータイム」です。これをそのまま訳してしまうと、気難しい顔をした真剣な場面で「パーティーの始まりだぜ!」とは訳せません。やはり日本人なら妥当に「来たぞ」がベストなんですが、そこでなんとなく「らしさ」のようなものが損なわれてしまったような気がしたんです。
 私は村上春樹の文体が好きなので、彼の翻訳をよく読みます。今までどうもしっくりこなかった「ライ麦畑でつかまえて」の主人公が、村上訳でやけに理屈っぽくなったせいかすんなりと読みこなせたのを思い出します。
 翻訳家が素晴らしい小説家であるとは限りません。三島は文句なくうまいです。ただそれを翻訳家に求めることは難しいかもしれません。
 だからもし、三島が『闇の左手』とか『世界の中心で愛を叫んだ獣』を翻訳し、自らの力を足して作品にしたら、またもっと違う作品になっていたかもしれません。
 どんなSFであってもファンタジーであってもそこに何かが起こるなら、イメージを喚起するものが必ず作者の頭にあると思います。共有はできなくてもあたえられたイメージを自分の頭で組み立てるのも、映画やドラマにない醍醐味です。個々それぞれのファンタジー世界を自由に思い描かせてくれるようなそんな表現が求められるのではないかと思います。

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こちらでは毎月、1000字の短編作品を競っています。
1000字に起承転結を持ち込むのはかなり難しいです。語りすぎても語らなすぎても駄目です。無駄な表現は一切そぎ落とし、如何にシンプルに伝えるかに重点が絞られます。それでも読み手にうまくイメージを伝えなくてはなりません。大変勉強になります。
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長々と失礼いたしました。

  • 投稿者: 退会済み
  • 2013年 01月08日 18時10分
管理
[一言]
初めまして。長月です。

興味深く拝見いたしました。

一つずつ私見を述べさせていただきます。


まず①の件。


〈side ○○〉〈side out〉というのは大変簡単な方法だと思っています。そういう断りを入れるだけで話は済むからです。だからと言ってこれが本当に登場人物たちの本心を作品の中で暴けるかどうかは別だと思います。みな自分の胸の内は、一人語りであっても見せることはできないと思うからです。それは作者が相応の思い入れを一人称にすることで抱いてしまうことにつながるからだと思います。実は三人称の技術を磨いていくのが、最も登場人物たちの心理に迫れる表現ではないかと私は思います。走れメロスもそうですね。主人公の葛藤や絶望が一人称では案外なしえないんです。
 映画やドラマでもそうですが、役者は、何かを表現するため以外に瞬きをしません。瞬き一つも、内面の表現の一つです。呼吸もそうですね。そう考えると、それを一人称で書くよりも三人称の方がずっと印象的に内面を表現できるかと思います。
とはいうものの、小説家になろうではそれとは違うタイプの娯楽が求められているようです。需要と供給を考えれば、小説家になろうに於いてこの技法は特色となり、〈side ○○〉〈side out〉形式の作品を読みたくば、ここに来ればよいという事でよいのではないかと思います。





(②につきましては、①と同様、小説家になろうの特色でよいのではないかと思います)

中世ヨーロッパ風にしても、その時作者がそこで何を聞き何を感じるのか、私は知りたいと思ってしまいます。空気感と言いましょうか。
例え作者と同じ風景は描けなくても、私はそこで馬車が石畳を走る音を感じることができすし、風の温度を感じることができます。かといってそれをだらだらと書けというのではありません。千の言葉を連ねるより一行のリアリティが持つ力を味わうのが小説を読む醍醐味かなと私は思ってます。
例えば遠野物語という作品があります。一つ一つの掌編は大変短いです。にも拘らず私はその田舎の風景やまた人間の関係性をリアルに感じることができます。
遠野物語では、仲の悪い嫁姑に業を煮やしたこの家の主人(嫁の夫であり姑の息子)がもうかんべんならんと母親を殺すと言い出します。そして朝から夕方までただ鎌を研ぐのです。このただ朝から日暮れまで鎌を研ぐという行為の狂気の恐怖が、何の装飾のない文体から目の前にあるかのように感じられます。ですが私は実際に母親を殺そうと目の前で鎌を研いでいる男を見た事はありません。だからそんな凶器や恐怖やその中で静かに暮れていく日や風の音を聞いたことも感じた事もありません。しかしそれは実際私には感じられるのです。それが小説を読むということの一つの醍醐味だと思っています。


最後の④です。


 大江健三郎が、小説を書く人に向けたエッセイで、何をおいても書ききることを勧めています。そして最後まで書きあがったものを、また書き直すんです。Aという主人公で書いた話を、今度はBで書き直す。Cでも書いてみる。三人称でも書いてみる。一人称でも書いてみる。同じ話をいろんな角度で書き終えると、その作品にとって一番良い表現が分かるという話でした。これは面白いと私は思います。まず書き終える事、そしてその作品を完全に完結させることこれらは小説を書こうという人に大変勉強になるのではないかと思います。
 メッセージやテーマですが、特にこだわることはないかなと思います。強いメッセージ性や話の筋を求めるのは、最近の作家で言えば宮部みゆきなどがそうですね。逆に、いしいしんじや村上春樹など、どこへ行くともしれない話であるにもかかわらず心に残していくものが不思議に多い作家もおります。だから私は強いメッセージ性やテーマにとらわれることなく、とにかく書ききることを目標にしてもらいたいと思います。

大変長くなってしまいましたが、以上が私の考えです。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2013年 01月03日 13時05分
管理
 ご感想を頂きありがとうございます。

 返信が遅れまして申し訳ありません。ちょっと時間が取れませんで……
 では、返信の本題に入りまして、

>だからと言ってこれが本当に登場人物たちの本心を作品の中で暴けるかどうかは別だと思います……(以下続く部分)

 むむむ……私にとっては少し文意が難しいですが、長月様の文を読み解かせて頂きますと、つまり、

 一人称における語り手は、三人称のある意味でナレーター的な純然たる語り手と違い、作中の登場人物として人格を付与されている。故にその語りの内容は、語り手自身の人格からして語りそうなことしか語れない、という制約を受ける。
 さらに、人はその内心はしぐさや表情に現れることがあるが、一人称はその性質上、語り手自身の表情やしぐさについては、十分に語ることができない。
 以上の理由より、登場人物の内心について最も迫れるのは、一人称のように見せかけて、実は三人称なのである!

 ……という解釈でよろしいでしょうか?

 長月様のおっしゃることが以上のようなことであればですが、ううむ、非常に説得力のあるご意見だと思います。なんだか蒙を啓かれた思いがいたします。非常に参考になりました。


>中世ヨーロッパ風にしても、その時作者がそこで何を聞き何を感じるのか、……(以下続く部分)

 なんで、わたしが『中世ヨーロッパ風』でもまあいいじゃん、みたいな文章を書いたかといいますと、私は高校生のころ、いわゆる青背といわれるハヤカワ文庫やその他のSF小説を本屋さんで買って、ヒマにまかせて読んでおりました。
 それらのSF文庫には、とても楽しくて面白いものもあったのですが、逆に有体に言って読むのが苦痛なものも数多くありました。苦痛すぎて最後まで読めなかったものも多くあります。
 例を挙げますと『闇の左手』とか『世界の中心で愛を叫んだ獣』とかです。
 ではこれらの作品は駄作なのかといえば、おそらくそんなことは無いのだと思います。
 何故なら、これらの作品は私にとっては読むのが苦痛なだけでしたが、世間的にはそれなりに評価を得ているようだからです。そもそも外国語で書かれた作品を、わざわざ日本語に翻訳してまで出版しているくらいですから、駄作ということはないのだと思います。
 では、なぜ私はそれらの作品を読むのが苦痛に感じたのか。
 それはもう理由はただひとつ、書かれている文章から情景を全く想像できなかったからです。もう本当に情景が浮かんでこなかったのです。
 これらの作品は情景描写を楽しむ類の小説ではなかったせいなのか、私の読み手としての頭のなかの引き出しが少なすぎたせいなのか。情景が浮かんでこなかった理由は色々あると思います。
 しかし、それらの理由に加えて、それら外国の文化の下に書かれた作品を、この日本の高校生であった私が読むのはそもそも難しい面もあった、というのも重要な要素であると思うのです。
 なぜそう考えるようになったかと言いますと、ある日に父の本棚から三島由紀夫の『金閣寺』を手に取って、少し読んだのです。(本当に少し読んだだけで最後までは読んでいませんが)そうするとそこに描かれている文章の濃密さに驚きました。
 まさしく、むわりと匂いさえしそうなほどの濃密さでした。濃密というのは具体的には、頭のなかに確固とした映像が容易に浮かぶのですね。まったくもって『世界の中心で愛を叫んだ獣』とは全然違います。
 では何故そうも違うのか。
 『金閣寺』の中には、主人公たる坊さんや、冒頭部に出てくる軍人の男、占領軍の兵士、それにくっついている娼婦、金閣寺、色々な人物や情景が出てきますが、私はそれらの文章の中に出てくる要素のひとつひとつをある程度想像することが可能です。
 それは、例えば身内の葬式で見たお坊さんの姿であったり、終戦記念日の特番で流れるドラマに旧日本軍や占領軍の軍人が登場するのを見かけていたり、学校で社会科の教科書に金閣寺の写真があるのを見ていたり、など、あらかじめ豊富な映像資料を私が、頭のなかに溜めこんでいたという前提があって、三島由紀夫の文章を読んだときに、その文章の濃密さを感じられるわけです。

 ひるがえって遠野物語はどうか。
 確かに一般的な読み手は、>実際に母親を殺そうと目の前で鎌を研いでいる男を見た事は ないでしょう。しかし例えば、アニメの日本昔話で見た農家の風景、朝の連続ドラマ『おしん』の再放送で見た昔の農家の風景。先日近所の家の草刈りを手伝った時に使った草刈り鎌、など、個々人によって見てきたものは違うとは思いますが、やはり時代が違えども日本という同じ文化圏に住み、読み手として頭のなかの資料を溜めこんできたその結果として、それらを組み合わせることで、
>だからそんな凶器や恐怖やその中で静かに暮れていく日や風の音を聞いたことも感じた事もありません。しかしそれは実際私には感じられる 
となるのではないでしょうか。
つまり、何と申しますか、文章というものには書き手と読み手が存在し、故にそこには何らかの共通の理解を必要とします。故に文章というものは程度や態様を違えつつも大なり小なり『ほら、おめえさん。アレだよアレ、アレのことだよ。おめえさんだって知ってるだろう?』というような説明というか、共通の基盤の構築というか、テンプレの提示というかそういうものが必要とされます。
 その点で、
 現実世界に基礎を置く現実の写生たる小説は、現実の風物をそのまま書けばある程度の共通理解が可能なのに対して、
 究極的には作者の頭のなかにしか存在していない情景を描写せねばならない異世界ファンタジーとは、 同じ“小説”ではありながら、根本的に全然別物なのではないのだろうか。そういう面で異世界ファンタジー(或いはある種のSFも)は、もっと根本的な部分に欠乏を抱えているんではないか。
 故にそれらを同列に比較するのはどうかなー、みたいなことを感ずるのです。


 それでまあ『中世ヨーロッパ風』もまあいいかなとなるのでしたが、しかし、
>中世ヨーロッパ風にしても、その時作者がそこで何を聞き何を感じるのか、私は知りたいと思ってしまいます。空気感と言いましょうか。

 とおっしゃいますとおり、以前本エッセイに、
「『中世ヨーロッパ風』というのは描写でもなんでもなく、作者が頭の中で思い描いた街並みに対する、作者の感想(あるいは一人称なら主人公の感想)でしかないわけです。何が言いたいかというと、作者は頭の中にある情景をそのまま書けばいいのです。」by明日空 眼張さま というご意見を頂いたことがあります。

>一行のリアリティが持つ力を味わうのが小説を読む醍醐味かなと私は思ってます。

 つまり『中世ヨーロッパ風』という書き方に違和感を感じる方は、描写こそが小説の重要な要素であり『力』でもあるのだから、たとえそれが異世界の描写であるゆえに難しくても、それを安易に捨て去るべきでない。と思うのかもしれないということだと思われました。



>大江健三郎が、小説を書く人に向けたエッセイで、何をおいても書ききることを勧めています。……(以下続く部分)

 小説を完結まで書ききることが、とりわけ重要で、それができればかなりの力になる。という文章はそこかしこで見たことがあります。
 私は、小説の内容の面からして、
 『完結させなければ意味が分からない物語』と、
 『完結してもしなくても大して変わらない物語』があるというようなことを書きましたが、小説の内容からして完結させるさせないという話でなく、小説執筆の能力を向上させる観点からすると小説は完結させるべきということなのですね。
 私は小説を完結まで書ききった経験がありませんので、登山などと同じく登ってみなければならない景色があるのかもしれないと思いました。


 様々にご意見を頂き、たいへん参考になりました。
 まことにありがとうございました。非常に長文になってしまいまして失礼をいたしました。
[一言]
はじめまして、失木 各人です。

とりあえず視点変更の話だけ読ませて頂きました。

確かに、プロの作家さん達は視点変更を行っていますし、私もそれを否定しません。

ただ、時々、やたらと視点変更を、しかも何人もの間で繰り返す作品があります。それこそ2000字程書いてすぐに変更、という感じで。
一人称の最大の利点として、主人公に最も感情移入しやすいという物が挙げられます。
ですが、余り頻繁に変えられると読む方は疲れてしまう。
使うと作品が彩られる、しかし使い過ぎるとごちゃごちゃしてしまう。
視点変更とは、装飾品の様な物だと思っています。


これについて、意見を聞かせてください。



最後に、長々と私論を述べてすみませんでした。

 まずは、ご感想を頂きましてありがとうございます。

 >長々と私論を述べてすみませんでした。
 いえいえ、本エッセイにおいては私論大歓迎絶賛募集中であります。


 えー、ご質問の件ですが、頻繁な視点移動についてどう思うかという点ですね。

 ご質問を頂いてから少し考えてみましたが、私の考えでは(あくまでも私が少し考えてみただけですから、一般的にいって正しいかどうかは分かりませんが)視点の移動というものは、概ねふたつの目的をもって用いられるではないかなと思います。

 ひとつめは、その内心まで含めて詳細に描写したい登場人物が複数いる場合。
 ふたつめは、ある特定の登場人物や、状況の説明をしたい場合。

>やたらと視点変更を、しかも何人もの間で繰り返す作品があります。それこそ2000字程書いてすぐに変更、という感じで。

 というような書き方の場合には、どのような効果が発生するかといいますと、一般的には(あくまでも一般的にはですよ?)
①おそらく文章の流れが切れ切れになってしまいますから、キャラクターとしての視点人物に対する感情移入という点ではマイナスであろうかと思われます。
②さらに、文章自体を芸術として鑑賞の対象とする観点からしますと、やはり流麗さが損なわれるためにマイナスであろうかとも思われます。・
③しかし、ある特定の登場人物や、状況の説明をしたい場合に、その対象を複数の登場人物視点から詳細に描写できるという点で、つまりは高い説明力を持っているとは思われます。

 具体例をあげますと『小説家になろう』に掲載されている小説の中には、VRMMOものなども含め、いわゆる異世界トリップものが多くあるわけですが、例えば、トリップしてきた主人公の状況や、パニックぶり、『俺tueee』ぶりを、細かく詳細に描写するという目的を達するためにはなかなかに優れた手法であるのかもしれません。

 小説の文章は、文章の書き方の、その手法や態様によって、それぞれにプラス面もマイナス面も様々に効果を発揮します。ですから、書き手は自分自身の技量とも相談しつつ、得られる効果と副作用とを秤にかけて、適切な選択をすべきであろうと思われます。

 ……という以上がご質問の答えになります。

 時間をとって本エッセイを読んでくださり、ありがとうございました。
[一言]
 はじめまして。さざっと目を通しただけなので、作者さまの主張を正確に読解できていなければ、申し訳ありません。
 なにが正しい、というわけではなく、一書き手(兼、活字中毒者)として、感じたことを書かせていただきたいと思います。


①視点変化
 作中で視点を変えることそのものには、なんの問題もないのだと思います。おっしゃる通り、出版作品にも用いられることの多い手法ですね。
 では、なぜ、視点を変えるべきでないとされているのか。この技法を使いこなすことは、非常に難しいからです。
 予告なく視点を動かすことは、描写の矛盾を生み、読者の混乱を招きます。本文の中で、さりげなく、それを読者に悟らせることは、プロだからこそできる技術です。
 確かに、サイドを明記することにより、この技法の難易度は格段に下がります。どうしても必要な場合、これを用いることは、一概に否定できないでしょう。
 しかし、本当に、『必要に迫られて』用いられているでしょうか? 私は、そうは思いません。本来、記述しなくともよい、冗長な描写である場合が、多々あるのではないでしょうか。
 必要でないにも関わらず、ただ、『なんとなく書きたいから』で視点をわけて、主人公を入れ替えたり、同じ場面を繰り返し描写することは、推奨されるべきでないと思います。
 以上を踏まえた上で、あえてこれを用いることは、批判しません。ただ、技術不足の甘えからくる技法であることを、意識の片隅に置くべきではないかな、と思うのです。

②ネットスラング
 顔文字、スラング、いいと思います。あえてそれを用いる、という作者の表現であるならば。
 ただ、必要性の感じない作品/場面での、小文字/顔文字の利用は、正直、賛同し兼ねますね。読みづらいし、気力が萎えます。
 ネットスラングでなければならない、という場所での使い方ならばいいのです。それ以外で、描写しようとする努力を欠くことは、作者の怠惰であるように思います。
 たとえ、どれだけ未熟で稚拙な文であろうと、自分なりの表現を模索して、読者に伝えようとすることが大切ではないでしょうか。

③模倣作品
 オマージュを繰り返すことにより、新しい作品が生まれる。確かに、そう思います。
 しかし、なにごとにも限度というものがあります。練習用として、手元で模倣するだけならいざ知らず、自分の作品として投稿してしまうことは、あきらかに度を超えています。
 流行り廃りがありますし、『似たような作品』までは白としても、『ほとんど同じ設定』あたりからはグレーですよね。
 すべてが悪いとは言いませんが、似たようなジャンルの作品ばかりが溢れかえってしまうのもなあ、と思わなくもありません。少しの捻りではなく、もっと、斬新な作品が生まれる機会を、減らしてしまうことにはなりませんか?

④エタり
 こればっかしはなんとも……。完結させる、ということは大変な労力を使いますし、気楽に書き始めた作品、すべてにその保証をしろと言われれば、書き手としても苦しいですね。
 ただ、問題なのは、エタることそのものではなく、それを肯定してしまうことだと思います。
 必ずしも完結しなくてもいいのかもしれません。読み手としては、途中まででも充分に楽しめる場合もあります。更新が止まっても、まあ、仕方ないかで割り切って忘れてしまうような。
 ただ、書き手としては、本来は完結すべきものである、という意識が根底になくては。それが失われてしまったら、完結できる作品も完結しなくなります。
 そうして、エタることが当たり前になればなるほど、未完のまま放置された小説が、より溢れかえっていくことが危惧されますね。


 長文、失礼いたしました。一個人の意見として、お受け止めいただければ幸いです。
  • 投稿者: 本宮愁
  • 2012年 12月23日 03時18分
 ご感想を頂き、まことにありがとうございます。

 実はですね。先日、初めて『妖怪お気に入り外し』に遭遇しまして、そこへきてご感想を頂きましたので、とても嬉しかったです。まあもちろん完結済みのエッセイですから、お気に入りを外されても、むべなるかな、ですが。

 えー、では、ご感想返信の本題に入りまして、

>必要でないにも関わらず、ただ、『なんとなく書きたいから』で視点をわけて、主人公を入れ替えたり、同じ場面を繰り返し描写することは、推奨されるべきでないと思います。
>以上を踏まえた上で、あえてこれを用いることは、批判しません。ただ、技術不足の甘えからくる技法であることを、意識の片隅に置くべきではないかな、と思うのです。

 一般的に言いまして、このご指摘は全く至当であると思います。
 しかし、しかし、本エッセイは題名からして『俺は、せっかくだから〈side ○○〉〈side out〉形式の小説を擁護するぜ』ですから、幾ばくかの擁護というか、だってだって何々なんだもん! というような言い訳をさせて頂きたいと思います。
 言い訳というより、参考意見というようなものでしょうか。
 
 まず、本エッセイ連載第三回目の『エタり&模倣作品』についての文で触れましたが、

 『キャラクターの自律化』という考え方、すなわち、
 アニメやラノベやゲームなどのキャラクターが、その作品自体を離れて自立。つまりキャラクターが固有の人格を持つ場合があります。
例えば二次創作のクロス物といわれるジャンルでは、キャラクターが自分の作品世界を離れて別の作品世界に出張したりする。つまり、ある作品のキャラクターが、そのキャラクターが存在する作品を離れて、キャラクター単独で行動しているということがあります。

このような、小説は旧来からのいわゆる私小説とは、その形式を異にします。

従来の私小説は、語り手となる視点人物の心情の変遷を描写していくタイプのもので、これはすなわち、原則として一人称の視点固定を要請します。
 
 しかし『キャラクターの自律化した小説』とは一体どのようなものでしょうか。
 作者の技量などもそれぞれあるので、その試みが成功しているかどうかは別論なのですが
 『キャラクターの自律化した小説』というのは、
 小説中の登場人物が、ストーリー展開上の単なる役割としてあるのでなく、それ自体自立した人格を持っていて、その人格すなわち、もはや単なる小説のストーリー展開上存在するに過ぎない役者ではなく、もはや『彼ら彼女ら』というにふさわしいキャラクター達の群像劇を、それぞれのキャラクターごとの心理描写も交えながら描写する。……というような形式の小説だと(私は)思います。

 そのような形式の小説を書くとなるとどのような記述方式がよいか?

 従来の小説形式で似たものを探すとすれば、それは戦記物になると思います。
 つまり、視点人物がころころ替わるという点で似ているんですね。
 じゃあ『キャラクターの自律化した小説』も戦記物を参考にして、同じように書けばいいじゃないか。と言えるかというと……その通りなのです。

 何も戦記物に限らず、視点変更のある小説はたくさんあります。
 では何が不満なのか。なぜ〈side ○○〉〈side out〉なんぞ使うのかというと、そのような、頻繁な視点移動のある小説は、主人公視点、あるいは視点移動をした場合でも、三人称を用いていることがほとんどであるように見受けられるのです。

 『キャラクターの自律化した小説』というのは、それぞれの魅力的なキャラクターの一個の人格を描き出すような小説ですから、外から見て分かるキャラクターの言動・行動のみならず心理的描写も含めて一個の人格をねっちりと描きたいわけです。
 そうすると、キャラクターの心理描写にどっぷり没入するためには、三人称でも描写することは可能ではありますが、没入の度合いをより深めるためには、やはり一人称をチョイスすることが必要なように思われたりするわけです。
 そして、その『魅力的なキャラクター』は何人もいたりするのです。

 そう思った時にいわゆるプロでない、小説家の常識にとらわれない素人(例えば恐らく大多数の小説家になろう作家の皆様)はどう考えるかというと、纏めて言いますと『一人称で、なおかつ頻繁に視点移動をしたい』と考えるのかもしれません。

 三人称であれば、視点移動をしたとて、文章の中で登場人物の名前を連呼できます。
 「佐藤一郎は走った。佐藤一郎は田中次郎を殴った。佐藤一郎はゲロを吐いた」
 などのようにです。

 しかし、一人称の視点移動はどうか。
 従来から恋愛小説などで、恋人同士の主役二人の間で一人称視点が交互に移動するなどという手法はありましたし、三角関係用の当て馬男(或いは女)をもう一人くらい一人称視点で登場させるようなこともあったかもしれません。

 しかしですね。一人称の視点移動が四人、五人となってくるともう見分けをつけるのが難しくなります。
 周囲の人物に名前を呼んでもらうとか、~佐藤一郎の何月何日の日記より~などと色々に小細工をすれば一人称多人数視点移動も可能かもしれませんが、それも頻繁になってくると、やはり根本的に無理があります。

 そうなるともはや残された手段は〈side ○○〉〈side out〉しかない(のかもしれない)のです。
 そう、すなわち〈side ○○〉〈side out〉とは【一人称多人数視点移動】のことなのです。

 もちろん『そもそも【一人称多人数視点移動】などというケッタイなものは書くべきでない』と言われてしまえばそれまでなのですが。

 ですから結論を申しますと、

>必要でないにも関わらず、ただ、『なんとなく書きたいから』で視点をわけて、主人公を入れ替えたり、同じ場面を繰り返し描写することは、推奨されるべきでないと思います。
 ⇒まったくその通りだと思います。

>以上を踏まえた上で、あえてこれを用いることは、批判しません。ただ、技術不足の甘えからくる技法であることを、意識の片隅に置くべきではないかな、と思うのです。
 ⇒『技術不足の甘えからくる技法である』とまで確言できるとまでは、言えないと思うのです。つまり、
 ・キャラクターをその内心にまで踏み込んで十全に描写したい。
 ・その描写の没入具合を高めるためには三人称ではなく一人称が必要だ。
 ・それなのに描写したいキャラクターは多人数いる!
 となると……ま、〈side ○○〉〈side out〉使っちゃってもいいかなー。となります。

 でもその場合以外は概ね同意であります。



 次に、ネットスラング問題ですが、

 私は、職場で社内の色々な人からメールを貰う機会がありまして、そのメール自体はなんてことない業務連絡とか挨拶のようなものなのですが、そのなかに顔文字や携帯の絵文字が入っていることがちょくちょくあります。
 その顔文字・絵文字はどうして用いられているかというと、単なる依頼や連絡であっても、ビシッと言いきると、そのメールの内容が、押しつけがましく感じられたり、あるいはメールの発信者が怒っているのではないかと思われる虞があるときに、顔文字・絵文字でその緊張を和らげようと考えているのかと推察されます。
 つまり、顔文字・絵文字というものは、連絡内容などの情報の伝達というよりは、書き手自身の持っている、あるいは受け手に伝えたい感情、情緒を伝達するための符号なのです。
 つまり、メールやインスタントメッセージなど、文章をもって情報を伝達しなければならない機会がかつてないほどに増えてきた現代における対人関係の知恵です。

 ウィキペディア先生のおっしゃるところによりますと、【!】や【?】は『約物』というものだそうですが、これは『句読点など、自然言語の中で文字に混ぜて使う記号』なのだそうです。
 一般的に言って【!】は驚きや人物が怒った場合の強調なども表しますし【?】は疑問を表します。
 ということは、つまりそれは感情を表す符号なのです。そうだとすると、
 【!】や【?】 = 感情を表す符号 = 顔文字・絵文字
 つまり『本質的には同じもの』という等式が成立し(ないこともない)ます。
あるいは、wwwとか(笑)なども、あんまりきれいな感情ではありませんが、インターネットの掲示板などでよく見られるような嘲笑的な情感をよく表しているとも言えます。
これもまた感情をあらわす符号として、一般化しているのです。

 驚き・強調=【!】 疑問=【?】 と何らの描写をせずに、ただそれだけで済ましてしまうならば、それは小説としては、ちょっといかがなものかと言わざるを得ません。
 しかし! や? が節度をもってであれば、ごく普通の文章中での使用も許されるのであれば、同じ程度に、wwwとか(笑)とか顔文字・絵文字も、
 
>ネットスラングでなければならない、という場所での

 などと限定せずとも、節度をもってごく普通に使えばいいのではないかと思います。
 【!】や【?】とネットスラングは、感情を表現する符号であるというその本質において何ら変わるところがない(キリッ)

 ……とここまで書いておいてなんですが、個人的には、顔文字はほとんど気にならないんですが、wwwとか(笑)とか、あんまり好きじゃないんですよねー。はっきりいって読む気が30%ほど萎えますよねー(じゃあこんな擁護の文章書くなよってことですが)

 あともうひとつ、この『小説家になろう』に投稿されている
 千海さま作『勇者の嫁になりたくて ( ̄∇ ̄*)ゞ』という作品がありまして、この小説は、それこそ表題にも顔文字が入っているくらいで、顔文字その他を多用している小説であるのですが、この小説に出てくる顔文字表現はとても楽しく、もはや芸術といっても良いくらいのものであると私は判断します。
 
 この作品を見ると顔文字もいいよねと思えてきます。



 次に模倣作品について。

 小説のジャンルでミステリーというものがあります。
 まあ、殺人事件があって、探偵がいて、刑事さんがいて、探偵がトリックの解明を皆の前で披露して、犯人の動機が語られて、というような流れを採る小説(やドラマやアニメや映画)はたくさんあります。
 もうそれこそ >ほとんど同じ設定 も山ほどあるでしょう。
 でも多分それらの小説は盗作とは言われないのではないかと思います。
 何となれば、殺人事件があって、探偵がいて、刑事さんがいて、探偵がトリックの解明を皆の前で披露して、犯人の動機が語られて、という枠組みは、ジャンルというものであって、そのジャンルという枠組みの中で『趣向』を競う、という暗黙の了解があるからではないかと思います。
 それは虚心坦懐にみれば『パクリ』と表現することも可能ではあるが、しかし実際には、それは『パクリ』とはみなされない。なぜならそれは『ジャンル』だからである。ということです。
 例えば、小説家になろうにあふれるVRMMOものの多くは『ソード・アート・オンライン』や『ログ・ホライズン』のマネなのでそもそも公開すべきでない、というとすればそれは少し極端だと思います。

 つまり結論を申しますと
 >『ほとんど同じ設定』 でも、書いてみれば、やっぱりどうしても作者のカラーが滲んじゃうので、多くの昼ドラのミステリーが相互に似通っているのと同じ程度に似通っており、同じ『ジャンル』だと言えるほどに似ているが、それでも作者ごとに違いや個性がある。
 故によくある一般的な模倣作品とも言われる作品群は、公開すべきでないというほどグレーゾーン作品だとまでは言えない。
 ということになります。……まあそれでも程度問題ではあるのでしょうけれど。

 あともうひとつ。

>似たようなジャンルの作品ばかりが溢れかえってしまうのもなあ、と思わなくもありません。少しの捻りではなく、もっと、斬新な作品が生まれる機会を、減らしてしまうことにはなりませんか?

 というご指摘についてですが、

 よく二次創作の作品なんかを漁っておりますと、人気の作品ではwikiのまとめページができていて、カップリング別とかアンチ・ヘイトものだとか、一部キャラ改変だとか逆行だとか、もうとにかく『その作品世界であり得た全ての可能性をローラー作戦ですべて潰す』というような、アドベンチャーゲームの選択肢全部制覇にも似た光景が展開されていたりします。

 ですから、インターネットの普及によって書き手の数が飛躍的に増大したのをいいことに、召喚勇者ネタとかVRMMOネタとか、基本線となり得る良いネタがあれば、それを消費しつくしてしゃぶり尽くす、という光景は、

 >似たような作品が溢れかえってしまう
 >もっと、斬新な作品が生まれる機会を、減らしてしまう

という捉え方も可能ですが、見方を変えれば『そのネタが持つ可能性を書き手の数にまかせて、骨になるまでしゃぶり尽くして検討しつくす』という言い方も可能です。
 それはそれで、なんか良いのではと思います。



これで最後! エタりの件です。

>問題なのは、エタることそのものではなく、それを肯定してしまうことだと思います。
>書き手としては、本来は完結すべきものである、という意識が根底になくては。それが失われてしまったら、完結できる作品も完結しなくなります。

 うーむ……そう言われてしまうと、そうかもしれないと思います。
 頑張って完結に向けて書いてた人が
『エタってもいいんだよーん』とか書いてる文章を見て、
「ああ、なんだ、そうなのか。もう、やーめた」となったらそれはそれで罪? かもしれないですよねえ。むむむ……


 非常に非常に長い返信になってしまいまして(5,478文字も書いちゃった。テヘッ☆)失礼しました。
 そしてまた、時間を取って本エッセイに目を通して頂き、またご感想を頂き、ありがとうございました。
[一言]
はじめまして、明日空と申します。
普段はキチっと良い点悪い点を書いているのですが、例外的に一言欄にまとめさせていただきました。

私もそのへん割とどうでもいいことだと思っていますが、特に反論というか、申し上げるとすれば、『中世ヨーロッパ風』についての擁護についてです。

確かに、そうやって書けば読者は各々漠然としたイメージを浮かべてくれるのだと思います。でも、私が不思議なのは、小説ってそうじゃないんじゃ? と思うのです。
つまり、『中世ヨーロッパ風』というのは描写でもなんでもなく、作者が頭の中で思い描いた街並みに対する、作者の感想(あるいは一人称なら主人公の感想)でしかないわけです。何が言いたいかというと、作者は頭の中にある情景をそのまま書けばいいのです。読者のイメージと違うのは仕方ないです。なぜなら作者は読者ではないし、主人公は読者がイメージしている中世ヨーロッパ風の世界を旅しているわけではないからです。
要は、読者と作者の頭の中にあるイメージにギャップが生まれてしまう危険が多いということです。

あとはエタってもいいじゃない。ということについてですが、私もエタってもいいと思います。

でも、難しいことは抜きに、オチはあったほうがいいと思います。それは私が関西生まれだからかどうかわかりませんが……

的外れかもしれませんが、楽しく読ませていただきました。

明日空
 ご感想を頂きましてありがとうございます。

 >つまり、『中世ヨーロッパ風』というのは描写でもなんでもなく、作者が頭の中で思い描いた街並みに対する、作者の感想(あるいは一人称なら主人公の感想)でしかないわけです。

 ……ううむ。そう言われればそうであるような気も致します。

 『中世ヨーロッパ風』という表現が、比喩の一種であると考えれば、それも描写の一部であるといえないこともないと思いますが、
 『中世ヨーロッパ風』という表現は、キャラクターの眼前にある事物そのものの描写ではなく、キャラクターが眼前にある事物を見て得た感想を、一言で言い表したものである。と言われれば確かにその通りでもありましょう。

『中世ヨーロッパ風』という表現について皆様が抱かれる違和感の正体が少し明らかになった気がします。
 あらたな視点からのご指摘を頂きましてまことにありがとうございます。
 本作品が、感想欄も含めるならば、さらに良いものになったと思います。

 時間をとって本作品を読んでいただきましてまことにありがとうございました。
[良い点]
とても興味深く読ませて頂きました。「これこれこういう手法は本当にけしからん!」などという一般論に物申す、というある種の挑戦のように感じました。こういう形で問題提起を行うのは大変意義あることかと思います。
[一言]
今古典的名作と謳われる作品の中には、その当時全く評価されなかったものも多いですよね。西村さんが擁護していた視点の明記等が、もしかしたら新しい手法として新しい文学ジャンルを生むかもしれませんし。というよりも、オンライン小説、携帯小説、ライトノベル等は全て最近生まれたものですから、今までと同じものさしで図ろうとすること自体が傲慢なのかも、なんて思ったりします。


まあ、文学の評価にあたって絶対の正しさなんてものはありませんから、こうやって議論をしたりしていくしかないのでしょうね。

私の個人的な立場としては、「好みの問題だろうな」という感じです。言葉の乱れは嘆かわしいことですが、創作への垣根が低いことは歓迎すべきだろうと思います。言葉の乱れは同時に進化でもあるわけですし、これからの日本語を作っていくのは若者ですから。


ただ、やはり読んで楽しければそれでいい、というのもある意味では思考停止です。文学のあり方や文学技法について考えるならば、代表的な古典や最近の作品まで読んだ上で、現在の小説の歴史や背景を踏まえて論じるべきでは、と感じます。もちろんこれも人それぞれですね。今後も活発な議論を期待します。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2012年 11月13日 20時39分
管理

 ご感想を頂きましてありがとうございます。

 >視点の明記等が、もしかしたら新しい手法として新しい文学ジャンルを生むかもしれませんし。というよりも、オンライン小説、携帯小説、ライトノベル等は全て最近生まれたものですから、今までと同じものさしで図ろうとすること自体が傲慢なのかも、なんて思ったりします。

 まさにそうだと思います。


 大塚英志さんとか東浩紀さん、あるいは他の方の著作においてもよく言われることですが、本エッセイでも触れたように、ライトノベルや『小説家になろう』に掲載されている小説においては、キャラクター小説と言って、キャラクターが(あるいは私の考えによればその他の設定やガジェットも)小説本来のテーマまたその“テーマのための”ストーリーから遊離しうるような小説が多く見られます。

 そのような小説はその登場キャラクターが、小説作劇上の役割を超え、それぞれの人格をもって動き回ります。
 そのありようは従前から多く見られた、いわゆる、私を中心に置いて、私について語る私小説とはその構造を異にするものです。

 そのような小説構造上の違いは、小説そのものの記述の仕方においても当然に影響を及ぼして然るべきものです。

 数多くのキャラクターを表現しなければならないゆえの、章ごと、あるいは節ごとの頻繁な視点移動、さらにもう一歩踏み込んでのキャラクターごとの<side〇〇><side out>表現。

 キャラクターや設定・ガジェットを重視する故に『私』をとりまく現実世界から離れた異世界を小説の舞台においていること、そしてそれ故の若干手抜きともとれる情景描写。

 『私』と『私をとりまく世界』を記述しないゆえに、小説上に強いテーマを持ちづらく、故にストーリーがあやふやで完結をしづらいこと。

 難しいことなのできちんと纏めては言えませんが、それは、もっと大きな話でいえば、人間と道徳とか、人間と人間の関係とか、人間の生甲斐ってなにか、というようなことを書く小説よりも、設定・ガジェット優先の小説が『小説家になろう』では好まれるという現状があって、それは実に現代的な虚無主義や冷笑主義とも重なる部分があって、それは今までの人類社会の歩みそのものの失敗の歴史みたいなものから来ているのではないかとも思うのです。

 小説の記述方法に限らず、ある特定の人だけが行うのではなく、多くの人が行っていることには、その是非はともかくとして、必ずその背後には何らかの理由や経緯があるものです。

 故にそれを分析なく安易に批判するのはあまりよろしくないと思うのです。
 批判するのは良いのですが、批判の対象となる事柄の理由や経緯をあまり深くは考えず、既存の尺度を理由にして目に付くところを指摘するのみであって、建設的ななにものをも生まないような気がいたします。

 それに既存のもはや古典とも言うべき小説であれ、はっちゃけているというかほとんど意味不明なようなものも数多くあります。
 例えばジェイムス・ジョイスのフィネガンズ・ウェイクなどは、父の本棚からとって二・三ページ読んだだけなのですが(難しくてわたしには読めるような作品ではありません)理解できないし理解する気にもならないというようなしろものです。

 既存の古典の小説ですら、そのようなのであれば、新しい表現の方法が生まれては消えて行ってもよいような、アマチュアが集う小説投稿サイトにおいて、その小説が、既存の小説作法から外れていることを理由にして批判するとすれば、アンタいったい何者よというか、まあなんというか、うむむむむ……という感じを受けるのです。
 
 ですから
 >文学のあり方や文学技法について考えるならば、代表的な古典や最近の作品まで読んだ上で、現在の小説の歴史や背景を踏まえて論じるべきでは、と感じます。もちろんこれも人それぞれですね。

 と言っていただいてとても嬉しく思いました。

 お時間をとって本エッセイを読んでいただいてありがとうございました。
 
[良い点]
 正直申し上げて、アジテーター的意見なのかな? とも取れますが、感情的ではなく、ちゃんとまとめ上げられた読者さんの意見はなかなか見ることができず、貴重なものだと思って拝読させて頂きました。
[一言]
 自分はどちらかというと、作者さんに意見を出したいであろう、よくある批判をする立場の人間ですが。
 どうにも自分が感じている現状の「なろう」の不満と、作者さんの論じようとしている内容には、読んでいてズレがある気がしました。

・〈side ○○〉〈side out〉 問題
・中世ヨーロッパ風 問題
・模倣作品 問題

 これらは過去の感想で出されているようなので割愛して、④のエタる問題について論じると。

>『完結できそうにないなら、作品に語るべきテーマがないなら語り始めない勇気を持ってください』

 この意見は、自分の感覚でも極論に位置するので、賛成はできません。しかし大まかに言いたいであろうことは賛成します。
 『完結させろ』と言いたいのではなく、『キチンと責任を取れ』と言いたいのです。

 誰だって最初は初心者で未熟です。だからいざ筆を取ったはいいが、完結まで持って行けないというのは理解できます。そしてそこまでは文句を言おうとは思いません。
 問題はその後、そうなった多くの作者さんは、その作品の放置して逃げるからです。
 夢オチや、原因不明の世界滅亡とか、理論破綻の最低オチもつけることができない。『自分の文才ではこれ以上書けません。すみません』と詫びの一言も書かない。
 作者が素人だとか、そういう問題とは違うのです。
 そして無責任な人が多いから、エタることに眉をひそめる人が多いのです。
 ついでに、単純に『素人なんだからエタっても仕方ないじゃない』と擁護されると、無責任な人間になることを推奨するように思えてしまうから、更なる反論も出てくるわけです。

 ある店に入って、アルバイト店員の対応が悪かったとしましょう。
 それについて文句を言ったら、アルバイト君はなにも言わずに奥に逃げたり、『俺、正社員じゃないから、仕事に責任ないですから』なんて開き直られたら、誰だって激怒するでしょう。それと似た感覚です。

 小説に限らず、クリエイティブな活動というのは、自分の無知なり未熟なり、恥を披露することだと思ってます。
 そして素人であろうと、自ら望んで恥を披露しているなら、責任を持って逃げずに、最後まで恥を掻ききるべきではないでしょうか。

 長々と失礼しました。
  • 投稿者: 風待月
  • 2012年 11月11日 14時14分

 ご感想を頂きありがとうございます。

>『完結させろ』と言いたいのではなく、『キチンと責任を取れ』と言いたいのです。
>自分の文才ではこれ以上書けません。すみません』と詫びの一言も書かない。

 はい、ごもっともなご意見であると思います。
 私は、ネット小説を読むときには、ネット小説というのは唐突に消えたり、更新停止になるのは、所与の危険性とでも申しましょうか、ある意味、そういうもんだ、と諦めておりますので、あまり気にしないのですが、やはり、更新を楽しみにして待っておられる方もおられるでしょうから、やはり責任というか配慮が求められるというご意見は正論でもありましょう。

 しかし、
>夢オチや、原因不明の世界滅亡とか、理論破綻の最低オチもつけることができない。

 という、何であれオチはあったほうが良いというようにも取れる(風待月様がそのようなご意見をお持ちであるとするならばの話ではありますが)ご意見には、私の考えからすると同意できません。

 本エッセイ中でも述べましたが、私は、そもそも、その小説自体の内容からして『完結すべき物語』と『別に完結することじたいはどうでもよい物語』とがあると思います。

 つまり『確たるテーマを持つ物語』は、語り始めたその時からその完結が所与のものとしてあり、終わらせること自体がテーマを語ること、すなわち、その物語の存在意義と密接に関わっている。(つまり『オオカミ少年』の話が、少年が村の人に嘘をつくシーンで終わったら全くお話の意味が分からないということですね)

 『確たるテーマを持たない物語』はその物語の作者自身がその物語を終わらせようと誘導しない限り終わらないし、その物語の存在意義は、これまでに語ってきたその積み重ねの部分にあるのであって、物語を終わらせることは一種の手続きに過ぎない。オチはつかなくても、その物語の存在意義にはたいして影響を及ぼさない。

 私はこのように考えております。

 なんでこのように考えるようになったかといいますと、
 わりと長期連載のマンガや小説などで、その連載の作者がその連載を終わらせようとするときに、連載の最後に相応しい程度の大きな事件やエピソードを起こして、それが解決する流れで、一気に連載のエピローグにまでもっていこうとする場合があります。
 その最後の事件なりエピソードなりが力の入った良いできだと、なかなかに感動的でよろしいのですが、そうでなくて、連載を終わらせる都合上で必要だから、無理矢理に事件やエピソードをひねりだしましたという雰囲気が紙面からありありと読み取れる場合があります。
 そういうのを見ると、ああ、この作品も最後で微妙に何とも言えない感じになってしまったなあ。などと感じるわけです。これならまだ、前回のエピソードが終わったところで終了していた方がきれいだったなあと思うんですね。

 ということで以上のことを総合しますと、
 作品がエタりそうになったら、あまりにも唐突すぎない場面を選んで、特にオチはつけずとも終わりにして良い。ただし読者の皆様へのアナウンスはちゃんとしましょうね。というふうに私は考えます。
 ストーリーとしてオチがついてなくても、それはそのような作品なんだと私は思うのです。



>正直申し上げて、アジテーター的意見なのかな? とも取れますが、

 えー、本エッセイは、ある文章を読んだ結果、ついカッとなって書いた、今も反省はしていない、というような作品でありますから、自己の主張を基礎づけるために我田引水的強引な論理展開をそこかしこに多用しております。
 そしてその穴だらけの論理が数多くの御意見を頂く契機に結果としてなってしまったということであります。それに穴の無い完成度の高い論を書くのが、作者の力量的に不可能であるという事情もありました。
 もちろん、このエッセイは『小説家になろう』の片隅でこっそりUPされ、あんまり顧みられることなく忘れられていくんだろうなー、と思っておりました作者といたしましては、多くの方にご意見・ご感想をいただき、まったくの喜びでありましたが、
 べ、べべべ、べつに意図的にやったわけじゃないんだからね!? ということでここはどうかひとつよろしくお願いいたします。ほ、ほんとですよ? でも結果として風待月様から頂きましたご感想も含め①③④全ての論点に関しまして、ご意見を頂きました。
 そしてそのことによって、本作品は感想欄も含めるならば、私の文章のみに比べてずっと堅固な論になりました。むしろ、頂いたご感想と、そのご感想に対する作者の返信の文字数のほうがエッセイ本文の文字数より多いかもしれないくらいであり、これは全く望外の喜びであります。

 お時間をとって本エッセイを読んでいただきまことにありがとうございました。
[良い点]
レッツ炎上! に心が躍りました。
読み専の方だとは思えないしっかりした文章を書かれますね。書き手である自分がちょっと恥ずかしく思ってしまうほどでした。
[一言]
side〇〇、この手法自体はなにも悪く言われることはないと思います。手法自体を否定してる方は、おそらく勘違いされてるだけで。
ジャイアンの例題、あれなら何も問題はありません。
よく苦言を聞くのは使用方法なのです。

例文②(side形式):
――
〈side ジャイアン〉
のび太め、今日という今日こそはギッタンギッタンにしてくれる。
〈side out〉

〈side のび太〉
ジャイアンのやつ、のび太め、今日こそはギッタンギッタンにしてやるとか思ってるんだろうな。ああ嫌だ。
〈side out〉

〈side ジャイアンのママ〉
タケシのやつ、また、のび太め、今日こそはギッタンギッタンにしてやる、とか思ってんだ、あのバカは!
〈side out〉

例文を直すとしたら、こう書くべきかと思いますよ。
何がイラッとするのか、はっきり解かると思いますが。
この調子でいちいち(×三人分)をやるのが、問題にされているsideの使用法ですよ。

次に、顔文字とか(笑)とか、あとギャル文字とかですか。
ああいうのも効果として狙って使う分はぜんぜん良いとわたし個人は思います。(自分の小説でもプロローグをポエムにしてますからね)
これって完全に好き嫌いだと思うんですが。

③の、中世ヨーロッパ風、という描写ですが、作品によってはそれも使います。雰囲気がそれを許すならば、ですが。
シリアスで登場人物の内面を丁寧に描写する物語の中で、中世ヨーロッパ風の、なんて描写が出たら、興醒めじゃないですか? テンポのいいコメディタッチな作品ならゲームみたいな風景、と書いても大丈夫と思います。
使いどころを間違ってるから、言われるだけでは?
人物の心理を細かく書くくせに片方で中世ヨーロッパなんて書かれたら、なんだか台無しな気分になりませんか?
つまり、片手落ちになっている作品という意味で中世ヨーロッパ(笑)とか言われているんだと思いますよ。

それと、模倣というのは、捻りを加えたり加工したりした作品のことは言いません。捻りを入れたと言いつつ、他人からみたら丸パクリとしか思えない作品を指して言うものですよ。盗作に近いグレーな作品をやんわりとそう言うんです。
インスパイア自体はいいですけど、犯罪は犯罪ですから。大学ノートにでも書いて、友達とかにだけ見せてる分には問題ないですが、なろうは公の場ですから、だから眉を顰める人がいるのです。いつの間にか、苦言を呈する人々までが論点がズレてしまってたりしますけど。

批判している人たちが本当には何を批判しているか、人それぞれ違うと思いますんで一概には言えませんが。

けれど概ね、個人の意見としてとても面白いと思いました。
炎上させて!というスタンスが、感想を書きやすい空気を作っていて良かったです。

長文失礼しました、それでは。
  • 投稿者: まめ太
  • 2012年 11月05日 21時37分

 うひょひょーい!
 
 と思わず叫んでしまうほどの素晴らしいご意見をいただきまして、ありがとうございます。

 このようなご意見こそが本エッセイの穴や弱点や不十分さを埋め、感想欄をも含めることによって本作品全体のレベルを大幅に上げることになるのです。
 ・〈side ○○〉〈side out〉 問題
 ・中世ヨーロッパ風 問題
 ・模倣作品 問題
 のすべてについて納得できるご指摘でした。

 時間を割いて本エッセイを読んでいただきありがとうございました。
[良い点]
ディベートはこうでなくっちゃ、面白かったです。
[一言]
 中世ヨーロッパやゲーム、だからレベルが低い?

 私は逆だと思います。

 同じような条件で多くの作者が競っていて、レベルが低いはずがない。

 それぞれに読んで頂く為の創意工夫があって、とても面白いと思います。

 ためしに書いてみましたが、面白くなかったので間違いありません。(笑

 底辺の底上げと言うか、小説家になろうとする新人が集まるサイトですから、むしろいい事だと思います。

 完結できなければそれが、今の実力。
 また頑張ればいいだけの事だと思うのですが、いかがでしょうか?
  • 投稿者: 水遊び
  • 2012年 11月05日 18時54分

 ご感想頂きありがとうございました。

 >同じような条件で多くの作者が競っていて、レベルが低いはずがない。
 >それぞれに読んで頂く為の創意工夫があって、とても面白いと思います。

 その通りだと思います。
 実際に、時がたつうちに、『小説家になろう』の小説も、バリエーションやパターンが増えて、さらに洗練されてきつつあると思います。

 例えば、

 ある日、男子高校生タカシ(17歳)は道で猫がトラックに轢かれそうになっているのを見かけ、猫を助けるべく、道路に飛び出し、そのままトラックに轢かれた。タカシは目を覚ますと異世界の森のなかにトリップしていた。一時はパニックになりかけるも、なんとか持ち直す。するとそこにゴブリンなどの腕試し用魔物が襲ってくる。若干ピンチになるものの、首尾良く撃退、同時に身体能力の向上に気付き、魔物を殺す事への抵抗感をも克服する。それからタカシはとりあえず人里を目指そうと、森から出て街道にたどり着く。そこでわりと高級そうな馬車が魔物or野盗に襲撃されている。タカシ助けに入る。魔物or野盗を華麗に撃退。馬車の中には王女or貴族のお姫様が乗っている。タカシは社会的立場をゲット。

 ……というような小説は、少し前なら普通にたくさんあったのですが、今はここまでコテコテなのは、なかなか見られない様に思います。大抵は何かヒネリを加えているように見えます。
 転生トラックなどという言葉もあるように、今ではここまでストレートな小説は、なんかのパロディー的なギャグかと思われる可能性があるからですね。
 それはすなわち同じような小説が、飽和するほどに増えた結果として『小説家になろう』全体のセンスが洗練されたということではないでしょうか。

 まあもちろん、あえて上記のような粗筋で縛りプレイで小説を書いてみて、どこまで面白いものが書けるかというチャレンジをしてみるというのもアリなわけです。

 そしてこのような切磋琢磨の結果『小説家になろう』はVRものも含めた『異世界トリップもの』に限定するならば、おそらく雑誌、単行本、文庫、インターネットサイトなど、他のあらゆるメディアを含めて、そのなかで、質量ともに、世界最高史上最高のレベルを誇るに至ったと私は考えております。

 そうなった理由は、圧倒的とすら言える書き手の数によるものだと思います。
 まさしく>同じような条件で多くの作者が競っていて、レベルが低いはずがない。 のです。
 そしてその『多くの作者』の中には未完の作品の書き手も含まれています。故に、

 >完結できなければそれが、今の実力。
 >また頑張ればいいだけの事だと思うのですが、いかがでしょうか?

 まさにそのとおりだと言えると思います。
 それほど未完の作品の書き手、実力のあまりない書き手も含めて、それらの人々の集団の日々の歩みが、良いものを生み出しているのだと私は考えております。

 お時間をとって本エッセイを読んでいただき、ありがとうございました。
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