感想一覧
▽感想を書く[良い点]
確かに多用はよくないですよね。
[気になる点]
()は好き好きで良いのではないでしょうか。
[一言]
そうなんですね。なるほど。私の場合、まず尊敬している先生が()を多用する方なので、自然と最初から使っていました。そして私の見えている世界ではジャンルを問わず8~9割方()を使います。
読んでいる途中で思わずにやり、ああ、この人上手だなあ、さすがなあ、と思わせられて、最後にもう一度作家名を確認してしまう。
そんな作品がある一方で、物語の主人公に完全に感情移入し、しゃくり上げるほど泣き、読み終わった後、思わずほうっとため息を吐き、暫く呆然自失状態となる。
そういう作品もある。
そして例題の()使いは少し違うと思いました。私だったら相手の表情を描き、視線を受け(あんま見るなよ、ばれるだろう)とそんな風に使います。
上手く説明できませんが、理系脳(頭で読む)か恋愛脳(心で読む)か、にもしかしたら近いのかもしれません。
※返信は不要です。
確かに多用はよくないですよね。
[気になる点]
()は好き好きで良いのではないでしょうか。
[一言]
そうなんですね。なるほど。私の場合、まず尊敬している先生が()を多用する方なので、自然と最初から使っていました。そして私の見えている世界ではジャンルを問わず8~9割方()を使います。
読んでいる途中で思わずにやり、ああ、この人上手だなあ、さすがなあ、と思わせられて、最後にもう一度作家名を確認してしまう。
そんな作品がある一方で、物語の主人公に完全に感情移入し、しゃくり上げるほど泣き、読み終わった後、思わずほうっとため息を吐き、暫く呆然自失状態となる。
そういう作品もある。
そして例題の()使いは少し違うと思いました。私だったら相手の表情を描き、視線を受け(あんま見るなよ、ばれるだろう)とそんな風に使います。
上手く説明できませんが、理系脳(頭で読む)か恋愛脳(心で読む)か、にもしかしたら近いのかもしれません。
※返信は不要です。
感想ありがとうございます。
返信不用とありますが、返信する放心なので書きますが。
>私の場合、まず尊敬している先生が()を多用する方なので、自然と最初から使っていました。そして私の見えている世界ではジャンルを問わず8~9割方()を使います。
自分としては、これが一番の問題だと考えています。
「誰々がやっているから」「皆がやっているから」
これ、要するに、劣化コピーしか作れない考え方なんですよね。
誰かの宿題を、間違いもそのまま丸写しするのと似たようなものです。
>例題の()使いは少し違うと思いました。私だったら相手の表情を描き、視線を受け(あんま見るなよ、ばれるだろう)とそんな風に使います。
>上手く説明できませんが、理系脳(頭で読む)か恋愛脳(心で読む)か、にもしかしたら近いのかもしれません。
気持ちはわからないでもないですが、この反論は、少なくともそのままを披露しないでください。「反論するな」とか、そんなこと言うつもりないですけど。
「理由は説明できないけど、あなたは間違ってます」なんて言われれば、イラっとします。理由も言わずに非難するのは、嫌われる人の物言いです。
返信不用とありますが、返信する放心なので書きますが。
>私の場合、まず尊敬している先生が()を多用する方なので、自然と最初から使っていました。そして私の見えている世界ではジャンルを問わず8~9割方()を使います。
自分としては、これが一番の問題だと考えています。
「誰々がやっているから」「皆がやっているから」
これ、要するに、劣化コピーしか作れない考え方なんですよね。
誰かの宿題を、間違いもそのまま丸写しするのと似たようなものです。
>例題の()使いは少し違うと思いました。私だったら相手の表情を描き、視線を受け(あんま見るなよ、ばれるだろう)とそんな風に使います。
>上手く説明できませんが、理系脳(頭で読む)か恋愛脳(心で読む)か、にもしかしたら近いのかもしれません。
気持ちはわからないでもないですが、この反論は、少なくともそのままを披露しないでください。「反論するな」とか、そんなこと言うつもりないですけど。
「理由は説明できないけど、あなたは間違ってます」なんて言われれば、イラっとします。理由も言わずに非難するのは、嫌われる人の物言いです。
- 風待月
- 2016年 05月01日 21時46分
[一言]
初めまして。
一人称で()は、私は市販されている小説で読んだことはありませんが、違和感は覚えます。
また、私自身も一人称で()を使うことはありません。
小説家になろうで()があるという意味であれば、理由は何となくわかります。
多くの方の一人称の小説は、三人称主観視点に置き換えることが可能なものだからです。
しかし書籍化レベルになってきますと、描写もそうですが、多く地の文が心の声だったりします。
そうしますと、どれもこれも()で括ることになってしまいます。
「涼宮ハルヒ」や「俺ガイル」を読まれますと、私が書いたことが分かると思います。
「なろう」だけの話しでしたら、一人称と三人称主観視点の使い分けがマスターできていないことが原因だと思います。
挙げられたトランプの小説でしたら、一人称でも三人称主観視点でも、両方で書くことは可能ですよね。
しかし、書籍化できるものになってきますと、このテーマと展開は一人称しか不可能、三人称しか不可能とかになってきます。
このとき、()を使う三人称主観視点みたいな書き方にはなってこないと思います。
初めまして。
一人称で()は、私は市販されている小説で読んだことはありませんが、違和感は覚えます。
また、私自身も一人称で()を使うことはありません。
小説家になろうで()があるという意味であれば、理由は何となくわかります。
多くの方の一人称の小説は、三人称主観視点に置き換えることが可能なものだからです。
しかし書籍化レベルになってきますと、描写もそうですが、多く地の文が心の声だったりします。
そうしますと、どれもこれも()で括ることになってしまいます。
「涼宮ハルヒ」や「俺ガイル」を読まれますと、私が書いたことが分かると思います。
「なろう」だけの話しでしたら、一人称と三人称主観視点の使い分けがマスターできていないことが原因だと思います。
挙げられたトランプの小説でしたら、一人称でも三人称主観視点でも、両方で書くことは可能ですよね。
しかし、書籍化できるものになってきますと、このテーマと展開は一人称しか不可能、三人称しか不可能とかになってきます。
このとき、()を使う三人称主観視点みたいな書き方にはなってこないと思います。
感想ありがとうございます。
まぁ、そういうことだと、自分も思うのです。一人称形式文章と三人称形式文章が入り交じっていても、そこまで言われないのは、やはり不思議に思うのですが。
それを理解してないのは、自分では恥ずかしいと思いますが。
まぁ、そういうことだと、自分も思うのです。一人称形式文章と三人称形式文章が入り交じっていても、そこまで言われないのは、やはり不思議に思うのですが。
それを理解してないのは、自分では恥ずかしいと思いますが。
- 風待月
- 2016年 03月28日 12時32分
[一言]
私は許容派ですね。単に読み慣れているというのもありますけれども。
読み手の方にも文字からの読み取り能力の高い人、低い人、色々いると思うのです。
どの層に向けて書いているかというのもおそらくあるように感じます。
例文を見ると状況の描写や主人公の意思、主人公の心の声等が書かれているわけですが、
台詞だけを抜き出す意味でなんらかの記号で括っているというのは
わかりやすさという側面のみの話ならば、割とアリなのではないかと思います。
※()を使用するかどうかは別として。
せっかく例文があるのですから、例文を()を使用せず書いたものを併記することによって
賛同して下さる方が増えるかもしれないと感じました。
私は許容派ですね。単に読み慣れているというのもありますけれども。
読み手の方にも文字からの読み取り能力の高い人、低い人、色々いると思うのです。
どの層に向けて書いているかというのもおそらくあるように感じます。
例文を見ると状況の描写や主人公の意思、主人公の心の声等が書かれているわけですが、
台詞だけを抜き出す意味でなんらかの記号で括っているというのは
わかりやすさという側面のみの話ならば、割とアリなのではないかと思います。
※()を使用するかどうかは別として。
せっかく例文があるのですから、例文を()を使用せず書いたものを併記することによって
賛同して下さる方が増えるかもしれないと感じました。
感想ありがとうございます。
うーん、作中に書いてないことを挙げるのもどうかと思うのですが。
これ単体でも問題といえば問題なのですが、実際複合的に、別の問題を孕んでいる傾向を考えるのです。
()が無くても問題ないのはいいと思います。
とすると、作者が書式の統一できるかという疑問点が生まれます。心の台詞だけを拾い上げると言っても、一人称文章だと地の文全部が心の全員といえるわけですから、結局作者の気分次第になりますから。
話の要・不要が判断できず、興味のない話をダラダラ続けていないかという疑問点が生まれます。些細な起点からですが、ミスがあれば他にないか疑ってしまいます。
仮に()がミスだと断言できるものだとしても、多分多くの人は些細なことだと言うでしょう。
ですが自分の基準だと、例えば目上の相手でもタメ口を聞くような、深刻な問題に発展するかもしれない危うさを感じるのです。
>せっかく例文があるのですから、例文を()を使用せず書いたものを併記することによって
ごもっともと思いますが……
例文が微妙に長いので、繰り返しは………
うーん、作中に書いてないことを挙げるのもどうかと思うのですが。
これ単体でも問題といえば問題なのですが、実際複合的に、別の問題を孕んでいる傾向を考えるのです。
()が無くても問題ないのはいいと思います。
とすると、作者が書式の統一できるかという疑問点が生まれます。心の台詞だけを拾い上げると言っても、一人称文章だと地の文全部が心の全員といえるわけですから、結局作者の気分次第になりますから。
話の要・不要が判断できず、興味のない話をダラダラ続けていないかという疑問点が生まれます。些細な起点からですが、ミスがあれば他にないか疑ってしまいます。
仮に()がミスだと断言できるものだとしても、多分多くの人は些細なことだと言うでしょう。
ですが自分の基準だと、例えば目上の相手でもタメ口を聞くような、深刻な問題に発展するかもしれない危うさを感じるのです。
>せっかく例文があるのですから、例文を()を使用せず書いたものを併記することによって
ごもっともと思いますが……
例文が微妙に長いので、繰り返しは………
- 風待月
- 2016年 03月06日 19時59分
[良い点]
文章表現について一石を投じていただきました。
[一言]
例文を一読してみてあまり変な文章とは感じなかったので考えたところ、二重人格というか脳内会議なのではないかと。一人ツッコミと言ってもいいですが。
脳内でいろんな考えがぐるぐるしているのを、わざと違和感を感じさせて強調する手法でしょうか。
あとは、一人称では「」を実際に声に出している台詞、()を脳内で声に出しているレベルの台詞と使い分けている場合が考えられます。その場合、地の文は極端に言えば音読不能なスピードの思考を文章に表したり、読者が目でみて緩急つけて読むといった表現方法として有効だと思います。多分に漫画的·アニメ的表現としてですが。
そもそも古典の時代には()も「」も存在しなかったのですから、時代の流れと共に使い方も変化するものです。
小学校の作文で習う文章作法を踏まえた上でのあえての文章表現かどうかは、作者のみぞ知ること。読者が付いてこれるかは作者の文章力次第ということで。
文章表現について一石を投じていただきました。
[一言]
例文を一読してみてあまり変な文章とは感じなかったので考えたところ、二重人格というか脳内会議なのではないかと。一人ツッコミと言ってもいいですが。
脳内でいろんな考えがぐるぐるしているのを、わざと違和感を感じさせて強調する手法でしょうか。
あとは、一人称では「」を実際に声に出している台詞、()を脳内で声に出しているレベルの台詞と使い分けている場合が考えられます。その場合、地の文は極端に言えば音読不能なスピードの思考を文章に表したり、読者が目でみて緩急つけて読むといった表現方法として有効だと思います。多分に漫画的·アニメ的表現としてですが。
そもそも古典の時代には()も「」も存在しなかったのですから、時代の流れと共に使い方も変化するものです。
小学校の作文で習う文章作法を踏まえた上でのあえての文章表現かどうかは、作者のみぞ知ること。読者が付いてこれるかは作者の文章力次第ということで。
感想ありがとうございます。
>脳内でいろんな考えがぐるぐるしているのを、わざと違和感を感じさせて強調する手法でしょうか。
どこまで意識しておられるか不明ですが、この書き方をされてる作者さんは、そういう意図で使われているのだと思います。
ですが同時に、自分がは根本的に考え方が違うのだと思ってしまいます。
()丸かっこは強調の意味では絶対に使えない記号です。
()を使う場面を考えると。
(1) 私のペンネームは風待月(かぜまちづき)です。
(2) 由来は六月生まれだからです。(六月の別名が風待月)
読み方や追記事項を記載する時に使う場合がほとんどでしょう。数字をくくるのは単なる区分で、見やすくする以上の意味はなく、別の書き方でなんら問題ありません。
つまり、()が記号として持つ意味は『補足』なのです。漢字が読めたり知識がある人には無用だけど、知らない人のために追加している、場合によっては削除してしまえる内容だと。
強調の意味とは真逆なので、違和感を抱いてしまうのです。
>脳内でいろんな考えがぐるぐるしているのを、わざと違和感を感じさせて強調する手法でしょうか。
どこまで意識しておられるか不明ですが、この書き方をされてる作者さんは、そういう意図で使われているのだと思います。
ですが同時に、自分がは根本的に考え方が違うのだと思ってしまいます。
()丸かっこは強調の意味では絶対に使えない記号です。
()を使う場面を考えると。
(1) 私のペンネームは風待月(かぜまちづき)です。
(2) 由来は六月生まれだからです。(六月の別名が風待月)
読み方や追記事項を記載する時に使う場合がほとんどでしょう。数字をくくるのは単なる区分で、見やすくする以上の意味はなく、別の書き方でなんら問題ありません。
つまり、()が記号として持つ意味は『補足』なのです。漢字が読めたり知識がある人には無用だけど、知らない人のために追加している、場合によっては削除してしまえる内容だと。
強調の意味とは真逆なので、違和感を抱いてしまうのです。
- 風待月
- 2016年 03月03日 10時03分
[一言]
ラジオ放送等の内容を区別するのに使われているのは見たことがあります。
ラジオの内容と登場人物のセリフの違いが明確だったので読みやすさがありました。
ただ仰るとおり心の声に使うのであれば、二重人格や時間の経過などが違っているのなどの特殊な状況でないと、少し変だなと思います。
一時期は()はより表面的な心の声なのかなとは思っていましたけど・・・
ラジオ放送等の内容を区別するのに使われているのは見たことがあります。
ラジオの内容と登場人物のセリフの違いが明確だったので読みやすさがありました。
ただ仰るとおり心の声に使うのであれば、二重人格や時間の経過などが違っているのなどの特殊な状況でないと、少し変だなと思います。
一時期は()はより表面的な心の声なのかなとは思っていましたけど・・・
感想ありがとうございます。
三人称の文章なら問題ないですし、一人称でも最悪ラジオなら問題ないのです。
完成品ーー実際に視聴者には音しか伝わらないので、台本がどういう書き方しようと、わからないわけですから。
でも小説だと、台本状態が完成品ですから。
それに、又聞きなので詳しくは知らないのですが、ラジオドラマの脚本では、嫌われる書き方と聞いたことがあります。
丸カッコのモノローグと、地の文のモノローグ、やはり区別がわからないとか。
>一時期は()はより表面的な心の声なのかなとは思っていましたけど・・・
多分、この書き方をやる作者さんは、そんなルールがあって使っているのだと思うのです。
でも読者側に伝わらないのです。どこまでが『表面的』なのか、その時の気分で判断変わることですし。
なので自分は、そのルールのなさに違和感を覚えるのだと思います。
三人称の文章なら問題ないですし、一人称でも最悪ラジオなら問題ないのです。
完成品ーー実際に視聴者には音しか伝わらないので、台本がどういう書き方しようと、わからないわけですから。
でも小説だと、台本状態が完成品ですから。
それに、又聞きなので詳しくは知らないのですが、ラジオドラマの脚本では、嫌われる書き方と聞いたことがあります。
丸カッコのモノローグと、地の文のモノローグ、やはり区別がわからないとか。
>一時期は()はより表面的な心の声なのかなとは思っていましたけど・・・
多分、この書き方をやる作者さんは、そんなルールがあって使っているのだと思うのです。
でも読者側に伝わらないのです。どこまでが『表面的』なのか、その時の気分で判断変わることですし。
なので自分は、そのルールのなさに違和感を覚えるのだと思います。
- 風待月
- 2016年 01月07日 22時40分
[一言]
私は()は使いませんがーは使います。
おっしゃることはわかります。で、なぜ、私が使うかというと、思ったことを強調したい時に使用します。
一人称小説の場合、余程うまい人でない限り、感情が地の文に埋もれてしまうのです。
一人称は情景描写と感情描写が一緒になります。
たとえばこの文の中に、そうかなあ?と思った。とかくより、
――そうかなあ?
と書く方が、感情が目立ちます。
頭で考えていることは同じですが、書き手として訴えたいセリフ的感情、と申しましょうか。
あと、字面(文面?)でしょうか。
上手な人は、必要ないのかもしれません。
私は三人称のほうから文章を書き始めたので、一人称の時もーを使ってしまいます。
私は()は使いませんがーは使います。
おっしゃることはわかります。で、なぜ、私が使うかというと、思ったことを強調したい時に使用します。
一人称小説の場合、余程うまい人でない限り、感情が地の文に埋もれてしまうのです。
一人称は情景描写と感情描写が一緒になります。
たとえばこの文の中に、そうかなあ?と思った。とかくより、
――そうかなあ?
と書く方が、感情が目立ちます。
頭で考えていることは同じですが、書き手として訴えたいセリフ的感情、と申しましょうか。
あと、字面(文面?)でしょうか。
上手な人は、必要ないのかもしれません。
私は三人称のほうから文章を書き始めたので、一人称の時もーを使ってしまいます。
感想ありがとうございます。
ダッシュだと丸カッコ以上に汎用性が広いせいかもしれませんが、強調の意図が伝わり、あまり引っ掛かりは覚えないのです。
ま、強調となると程度問題が絡んでくるかもしれませんが。あまりに頻出するなら、書き方考えろよという印象を抱くかもしれません。
ダッシュだと丸カッコ以上に汎用性が広いせいかもしれませんが、強調の意図が伝わり、あまり引っ掛かりは覚えないのです。
ま、強調となると程度問題が絡んでくるかもしれませんが。あまりに頻出するなら、書き方考えろよという印象を抱くかもしれません。
- 風待月
- 2015年 09月29日 22時22分
[一言]
補足すると、下であげた「モノローグ付き群像劇」ですが、「なろう」で多用されている、主人公以外の登場人物視点によるモノローグの多用があたると思います。
主観視点なら他者のモノローグは本来はあり得ないのだけど、主人公視点だけで全てを描写するのは慣れが必要なので、ネタばらし的に他者のモノローグを使いがちなのでしょう。
補足すると、下であげた「モノローグ付き群像劇」ですが、「なろう」で多用されている、主人公以外の登場人物視点によるモノローグの多用があたると思います。
主観視点なら他者のモノローグは本来はあり得ないのだけど、主人公視点だけで全てを描写するのは慣れが必要なので、ネタばらし的に他者のモノローグを使いがちなのでしょう。
感想ありがとうございます。
二度に渡って感想をいただいていますが、まとめてひとつに返信させていただきます。
キラービー様の意見を見て思ったのは、一人称文章でこの書き方をする作者さんにしても、それを読んで違和感を覚えない読者さんにしても、セリフとモノローグの区別がないのかな、と。
演劇用語を調べてみると、セリフにも種類があり、一般的には対話(ダイアローグ)/独白(モノローグ・ソリロキー)/傍白(アサイド)と分かれてるみたいです。対話は二人以上で話す時のセリフ、独白は一人でのセリフ、傍白は登場人物には聞こえていない体の、観客に向けての本心を表すセリフ。
でも一般人の感覚だと、区別つかないんですよね。アウトサイダーの観客にしてみれば、全部役者がしゃべるセリフに違いはない。
演劇の観客は、いわゆる神視点の持ち主。キラービー様がおっしゃるところの「モノローグ付き群像劇」を見ているのと大差ないです。複数登場人物の心情がわかったとしても、別におかしなこととは捉えない。
そしてただ「セリフ」とだけ認識し、対話か独白か傍白かなんて気にしない。
一人称小説で丸カッコモノローグが書かれていても気にしないのは、こんな感じなのかなと思いました。
小説作家がそれやるのは、マズいという考えに変わりはないのですが。
二度に渡って感想をいただいていますが、まとめてひとつに返信させていただきます。
キラービー様の意見を見て思ったのは、一人称文章でこの書き方をする作者さんにしても、それを読んで違和感を覚えない読者さんにしても、セリフとモノローグの区別がないのかな、と。
演劇用語を調べてみると、セリフにも種類があり、一般的には対話(ダイアローグ)/独白(モノローグ・ソリロキー)/傍白(アサイド)と分かれてるみたいです。対話は二人以上で話す時のセリフ、独白は一人でのセリフ、傍白は登場人物には聞こえていない体の、観客に向けての本心を表すセリフ。
でも一般人の感覚だと、区別つかないんですよね。アウトサイダーの観客にしてみれば、全部役者がしゃべるセリフに違いはない。
演劇の観客は、いわゆる神視点の持ち主。キラービー様がおっしゃるところの「モノローグ付き群像劇」を見ているのと大差ないです。複数登場人物の心情がわかったとしても、別におかしなこととは捉えない。
そしてただ「セリフ」とだけ認識し、対話か独白か傍白かなんて気にしない。
一人称小説で丸カッコモノローグが書かれていても気にしないのは、こんな感じなのかなと思いました。
小説作家がそれやるのは、マズいという考えに変わりはないのですが。
- 風待月
- 2015年 09月29日 22時09分
[一言]
個人的意見だけど、主人公が一人の主観視点ならモノローグに()はなくてもいいと思います。
客観視点なら、そもそもモノローグはありません。
だけど群像劇かつ各人の内心が直接描写される作品だと、モノローグに()がないと分かりにくいのです。
主人公にとっては頭の中も頭の外(外界)も等価だけど、群像劇だと、各人の頭の外は共通でも各人の頭の中は各人毎バラバラです。
だから、各人の脳内を描写する時に()を使うのだと思います。
まぁ、群像劇は本当は各人の内心は描写せず、全て客観視点で描くべきなのかもしれませんが、それは難易度が高いから、()付き台詞が多用されるのでしょうね。
個人的意見だけど、主人公が一人の主観視点ならモノローグに()はなくてもいいと思います。
客観視点なら、そもそもモノローグはありません。
だけど群像劇かつ各人の内心が直接描写される作品だと、モノローグに()がないと分かりにくいのです。
主人公にとっては頭の中も頭の外(外界)も等価だけど、群像劇だと、各人の頭の外は共通でも各人の頭の中は各人毎バラバラです。
だから、各人の脳内を描写する時に()を使うのだと思います。
まぁ、群像劇は本当は各人の内心は描写せず、全て客観視点で描くべきなのかもしれませんが、それは難易度が高いから、()付き台詞が多用されるのでしょうね。
[一言]
エッセイや他の方々の感想を読んで、ちょっとびっくりしました。
()の中身は頭の中で喋っていること、だと思っていたので……。
頭の中でいろいろ考えることと、頭の中で喋ることって、私にとっては全く別物なんですけど、他の方はそういう区別がない、もしくは頭の中で喋ることなんてないんでしょうか?
ちょっと謎が生まれてしまいました……。
エッセイや他の方々の感想を読んで、ちょっとびっくりしました。
()の中身は頭の中で喋っていること、だと思っていたので……。
頭の中でいろいろ考えることと、頭の中で喋ることって、私にとっては全く別物なんですけど、他の方はそういう区別がない、もしくは頭の中で喋ることなんてないんでしょうか?
ちょっと謎が生まれてしまいました……。
感想ありがとうございます。
自分からすれば、逆に頭の中で考えることと、頭の中で喋ることが、別物というのが理解できないのです。
想定するにしても、話し言葉で書いてるから、といった主観的で曖昧な判断基準くらいしか思いつかないのです。
ラジオドラマや朗読だと分かりやすいのですが、モノローグ(丸カッコ文章)とモノローグ調ナレーション(地の文)の違いは、聞いても理解できません。
しかも、モノローグは一人称文章、ナレーションは三人称文章なのに、同じキャラクターが語っているという、理解不能の事態が行っていることになります。
自分からすれば、逆に頭の中で考えることと、頭の中で喋ることが、別物というのが理解できないのです。
想定するにしても、話し言葉で書いてるから、といった主観的で曖昧な判断基準くらいしか思いつかないのです。
ラジオドラマや朗読だと分かりやすいのですが、モノローグ(丸カッコ文章)とモノローグ調ナレーション(地の文)の違いは、聞いても理解できません。
しかも、モノローグは一人称文章、ナレーションは三人称文章なのに、同じキャラクターが語っているという、理解不能の事態が行っていることになります。
- 風待月
- 2015年 09月29日 07時43分
[一言]
一人称でカッコの中に語り部の心情を入れるやり方、僕は許容派です。
一人称の地の文では、語り部の心情の他、情景やら他キャラの描写やら色々な情報が書かれます。
例えば物語の山場などで特に強調させたい語り部の気持ちがある時、そのまま書いてしまうと、上記の「色々な情報」に埋れてしまう危険性があると思うんです。それを防ぐという意味で、語り部の強い気持ちなどはカッコの中に入れます。
ただ、使い過ぎるのは良くないでしょう。強調させたいものがたくさん出てくると、一発ごとの印象が弱まってしまいますから。
短編で考えると、多くても二回くらいに抑えた方がいいでしょうね。
効果的に機能していれば、賞で用いても全然問題ないというのが個人的な見解です。
一人称でカッコの中に語り部の心情を入れるやり方、僕は許容派です。
一人称の地の文では、語り部の心情の他、情景やら他キャラの描写やら色々な情報が書かれます。
例えば物語の山場などで特に強調させたい語り部の気持ちがある時、そのまま書いてしまうと、上記の「色々な情報」に埋れてしまう危険性があると思うんです。それを防ぐという意味で、語り部の強い気持ちなどはカッコの中に入れます。
ただ、使い過ぎるのは良くないでしょう。強調させたいものがたくさん出てくると、一発ごとの印象が弱まってしまいますから。
短編で考えると、多くても二回くらいに抑えた方がいいでしょうね。
効果的に機能していれば、賞で用いても全然問題ないというのが個人的な見解です。
感想ありがとうございます。
そういう意味では、自分は否定派になってしまいますね。
他の方の感想返しにも書きましたが、この書き方にメリットが見出だせないのです。
自分なら、一人称文章で言葉を強調したいなら、ルビで点を打つとか、地の文に『』でくくって混ぜてしまいますね。あるいは状況が許されるなら口に出してセリフにする。ネット小説だと微妙な手段ですが、改行で強調したい文章を空白行で挟む。そんな手段が思いつきます。
地の文と()、モノローグの書き方が二種類あるのは、やはり変に思えます。
そして強調したい文章を()で、という理屈はわかるのですが、少なくとも自分の好みではないなと感じます。
そういう意味では、自分は否定派になってしまいますね。
他の方の感想返しにも書きましたが、この書き方にメリットが見出だせないのです。
自分なら、一人称文章で言葉を強調したいなら、ルビで点を打つとか、地の文に『』でくくって混ぜてしまいますね。あるいは状況が許されるなら口に出してセリフにする。ネット小説だと微妙な手段ですが、改行で強調したい文章を空白行で挟む。そんな手段が思いつきます。
地の文と()、モノローグの書き方が二種類あるのは、やはり変に思えます。
そして強調したい文章を()で、という理屈はわかるのですが、少なくとも自分の好みではないなと感じます。
- 風待月
- 2015年 09月14日 20時43分
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