感想一覧

▽感想を書く
1 2 3 4 Next >> 
[良い点]
結論に対して共感を持てた。
[一言]
 完全に余談だが賢い人と愚かな人はどちらが幸せか?
 
 賢い人は自分の価値観で生きるのならば愚かな人は他者の価値観で生きる。賢い人と愚かな人との間でのコミュニケーションでは賢い人が愚かな人が使用する言葉に合わせたコミュニケーションを図る。その中で賢い人は愚かな人に対して冷えた感情を抱くこともあるだろう。

 これに対して私は賢い人は傲慢だと思った。自分のものさしで相手を測り態度にまで現れることになっているからだ。一見、他者の価値観を許容しているようにも見えるが実際そうではないだろう。私は価値観の共有をしたことで初めて相手のことを真に理解できると考えている。しかし、自分の価値観を表現せず、自分から見た相手の価値観でコミュニケーションを図るということは相手のことを理解しようとしていないのではないだろうか?

 愚かな人である私にとってはこのような生き方では幸せになれるとは思えない。世界は愚かな人の方が賢い人よりも圧倒的に多いのだから。なので私は自分が愚かな人であることがとても嬉しい。

 作者様は賢い人か愚かな人のどちらが幸せだと思いますか?
  • 投稿者: 平生
  • 2021年 01月20日 02時12分
 神経は魂の下部組織様、ご感想ありがとうございます。

 愚かな人の方が賢い人よりも多いかというと、賢さそのものは正規分布していると思うのですが、確かに、本文で代表的に挙げた「愚かな人」と「賢い人」については、「愚かな人の方が賢い人よりも圧倒的に多い」でしょうね。
 そしてまた、賢さは多様なものですから、ある二者を取ってどちらがより賢いとは、知性についてのある恣意的な価値観を取り出した前提のもとで言えることです。しかし事実上、人間や人間の社会で有用な知性には類型が存在して、その意味で賢さは実在ですから、それに矛盾しないある尺度を取り出して、反例をもって、言わば「IQが20違っても話は通じる」という命題を棄却したのが本文でした。

 幸せについては、主観主義的な立場を取る人や、相対主義的な立場を取る人もいますが、私は、基本的には客観的な実在だと思っています。個人の欲求は遺伝子が定義していて、欲求が比較的に充足された状態が幸せであり、そうでない状態が不幸せであり、その軸は、将来技術を用いれば、神経の状態として客観的に観測可能な性質のものだと思っています。例えば余談ですが、犬に針を刺して悲鳴を上げたとき、犬は言葉を話せず、また悲鳴を上げたとはいえ相手の内面は不可知であるとして、その苦楽の類推も不可能だと合理性を否定するようなことは、愚かな言葉遊びにすぎないでしょう。
 そしてそんな幸せもやはり、正規分布の如く分布しているのだと私は思っています。ですから言わば、実在する人間個体らに賢さと幸せが正規分布するとき、そこに相関があるのか、確かに興味深い一つの論点だろうと思います。正に相関するのか、負に相関するのか、相関しないのか。


> 相手の価値観でコミュニケーションを図るということは

 相手の「言葉」に合わせたコミュニケーションを図るということと、相手の「価値観」でコミュニケーションを図るということは、異なることだと思います。例えば、上司の頭の中にある結論に矛盾しないように議論を進めることと、上司が知っている言葉を使って結論を変えるよう説得することは違う、という感じに違うと思います。
 客観的に存在する膨大な情報は、五感による観察で極端に抽象化され、さらに神経の計算能力に合わせて諸概念へと抽象化され、その一部には言葉が割り当てられます。それらを用いた推論やコミュニケーションが行われますが、推論の多くは、内面的にも外面的にもパターン化しがちで、言葉の解釈を制約しもします。わずかな情報量の言葉あるいは表情によって送信したとして、それが復号される概念のセットは相手の脳内に制約されています。
 ですから、相手の言葉によって語ること、直観的な理解を超えた論点ほど論理的に話すことは、避けられません。そうして、可能な範囲で「自分の価値観を表現」するわけであって、「自分の価値観を表現せず」というつもりはありません。
 世俗的ないわゆる「賢い人」のイメージで、解釈が歪んでいるのかもしれません。賢いつもりでいる愚かな人々は実に傲慢ですからね。


> 私は価値観の共有をしたことで初めて相手のことを真に理解できると考えている。

 それは言えないでしょう。
 ある箱に、リンゴよりもバナナが好きな生き物を配置したとき、彼はそこに存在するリンゴよりもそこに存在するバナナの方向に移動していくでしょう。非常に簡単なモデルを作れば、それを電子的にシミュレーションすることもできるし、数理的に証明することもできるでしょう。そのとき、彼を理解するためにリンゴよりもバナナを好きになる必要はありません。
 また、崖を見ると反射的にどうしても飛び降りたくなる人がいたとき、置かれた状況に対する彼の振る舞いを推定するために、同じ性質を備える必要はないでしょう。同じ性質を備えなくとも例えば、彼を殺さないためには彼を崖に近づけないほうがいいと言えます。ちなみに、知性の本質的な性質は将来予測の精度によって遺伝子の生存を最適化することだと私は思っています。
 しかし確かに、現実の個人の固有な振る舞いをそんな単純な議論に落とし込めない、というのは一面の事実だと思います。

 それはそれとして、他者の心理を理解するのでなければ、その人の幸せに対するある価値観の合理性を言えないことは確かでしょうね。
 世の中には、帰属集団による他者の安易な解釈や評価、価値観の傲慢な押しつけがそこら中にあふれています。しかしそれは、賢さというより愚かさの属性でしょう。

 ある他者を心理的に分解しきることは、不可能ではありません。例えば、本人が絶対に直視したくない現実が存在して、それからの無意識な逃避がその人の価値観や基本的な行動原理を形成している場合はあります。
 しかし、他者を心理的に分解しきることは、特に必要でなければするべきではないでしょう。人工知能を備えた機械の愛玩犬に本物の犬のように愛着していて、しかしあるとき、よくできた反応の中にあるパターンの構造を明確に理解してしまって、いかにも機械のように見えて冷めてしまって、愛着もそこから得られる幸せもまったく失われる、ということは人についてもあるでしょう。
 では、特に賢い人において、他者を集団的に、心理的に分解しきることは可能でしょうか? 例えば、人類全体の大多数について、振る舞いを強く予測させる心理的なロジックの限界を取り出すことは可能でしょうか? 可能だと思います。それはもはや、賢さというより、特殊能力と呼ぶべきものかもしれませんが。

 ですから、他者を理解するために心理的な共感が不可欠だとしても、その共感は普通、非常に手段的なものであっていいと思います。ですから、価値観の共有については、嫌な言い方をしてみれば、馬鹿と価値観を共有できるのは馬鹿だけだ、と言ってみても妥当でしょう。よって、価値観の共有は理解の要件ではありません。
 人の心理には、自分でも認めたくない否定的な部分があるものです。自分を真に理解する他者はそこを指摘しかねない恐ろしさがある一方で、自分の価値観を全面的に肯定してくれる他者は、自分をわかってくれる、わかり合える喜びをもたらします。しかしそれを真の理解と呼ぶことは、むしろ非常に傲慢で自己中心的な世界観かもしれません。
 その意味で、価値観を共有することはむしろ理解の放棄でしょう。互いに相手の価値観を共有してあげることで一心同体となり、相手の力を自分の力として取り込んだり取り込ませたりすることができますが、(二者からなる)自分を肯定するばかりであって、自分自身を真に理解することからは遠ざかりつづける。
 その盲目の中に常により優れた幸せがあるのでしょうか?

 現代人が幸せを論じるときに多く見過ごすのは、個人は利己的な存在ではないということです。
 生命は、利己的ではありません。歴史的な自然選択の過程で血縁選択がかかっているからです。すなわち、程度はどうあれ、愛の本能があると思ったほうが安全です。
 例えば、現代人は自分では利己的な個人のつもりですが、目の前で家族や友達が悲鳴を上げながら損壊されていけば精神的なショックを受けます。愛着している物を強制的に破壊されたり、努力して蓄えた財産をまとめて盗まれたりしても、立ち直れないほどショックを受けます。愛するものを壊されれば、自分の身体の一部を壊されたのと同様に、精神的な怪我をします。
 一方で、人間というのは、自分の心理を完全に理解できる生き物ではないし、自分自身のために完全に合理的に振る舞える生き物でもありません。そして、知性は力です。
 大衆にとって最大限合理的に見えている現代社会は、客観的には恐らくひどく非効率です。社会の幸せの効率は、自由や平等という原理のみによるのではなく、選挙行動や高級官僚や政治家の知的水準に強く依存しています。
 もしも人々が、自覚できない危機の中に置かれていて、あなたがあなただけに与えられた力によって未来を動かし彼ら彼女らを救うことができたならば、そのときあなたはきっと、自分が自分にだけ与えられた力によって愛する人々のために死んでいくことに喜びすら感じられるでしょう。
 すなわち、愚かさの内側からでは状況が観察できないのですから、愚かさに満足することの合理性を前もって告げることはできません。
 愚かであって満足だ、というのは言わば、利己的な個人を仮定したときに言えることです。しかし、利己的な個人を仮定することは、近代を通じた典型的な誤謬です。
 愛する人が地獄に落とされる危機が目の前に訪れれば、誰しも力を渇望するものです。


> 賢い人か愚かな人のどちらが幸せだと思いますか?

 以上の文脈によって今それを私は、戦士と農夫として捉えます。
 戦士は名誉を価値として短く死ぬ。農夫は命を価値として長く生きる。互いの生涯は一見、みすぼらしく見える。働きバチなどにおいて、真社会性や不妊カーストということも言われます。農夫のために死んで満足する戦士がいても、驚くには値しない。しかし、農夫が戦士への感謝を忘れていく時代は、悲しい危うい時代だとは思います。
 ただしこれも、極端な反例による反証かもしれません。一言で言えば、前言を翻すようですが、圧倒的に多いものとしての愚かな人の方が幸せでしょうね。
[良い点]
希望がもてました笑
[気になる点]
この内容道理だと僕賢い人になっちゃうなー笑
[一言]
ちょっと救われた気がします笑
 避雷神様、ご感想ありがとうございます。

 よい刺激になれましたようで、光栄でございます。
[良い点]
■ごまかしについて
あるいは何かを知っている人だろう
→深すぎて考えれば考えるほど気が狂いそうになりました。

■独創性について
ゆえに、議論を生産的にしようとして口を挟むことが、反感と攻撃によって報われることもある。
→盛大に吹き出してしまいました。

■テリトリーの侵害について
戦士
→個人的な意見ですが、表現に少し違和感がありました。
 SNSでよく見る光景だなと思い、何と表現すれば良いか考えていましたが
 それこそ「テリトリーの侵害」だと気付きました。すみませんでした。
[気になる点]
■結論
20
→20の説明無いんかーい。と笑いながら叫んでしまいました。
[一言]
1行1行、とても面白かったです。
  • 投稿者: マスオ
  • 40歳~49歳 男性
  • 2019年 11月08日 07時14分
 マスオ様、ご感想ありがとうございます。

 知性と、ごまかしなどに関する倫理的を関連づけたがるのは、私の性質で、その側面から、異なる知性の見る異なる世界を描けたらなと、本文を記述してみました。
 好意でしたことが、否定的に反応されることは、私のようなややアスペっぽい?人のみならず、誰しもあるだろうと思います。しかしやはりそれも、典型的に流暢なコミュニケーションとは、俗なものにすぎないとは言えて、期待する社会常識の、知的水準に起因するミスマッチは、事実ありうるのだろうと思います。
 「テリトリーの侵害」の項は、そうですね、受け止めかたによって、ご批判があって当然かもしれません。また思うのは、今ではSNS、例えばTwitterが一般化していて、むしろ相手の肩書きや権威など恐れない意味で、萎縮しない態度こそが新しいのかもしれません。
 IQが20違うと話が通じない?、ということを示した本文のはずですが、そうですね、気づけば「20」の根拠がない……。IQが15違うと、例えば学校の偏差値だと10の違いに相当するのですが、IQが19違うだけではやや不明確な差異が、IQが20違うとある程度、明確に言えるかなと。IQが10違うだけでは話が通じそうですし、30違うと関わる機会が減りそうですから、まあ、手頃なのではないでしょうか。笑
 深く読んでくださって、ありがとうございました。
[一言]
へへへ、照れるなぁ(違)
 KP-おおふじさん様、ご感想ありがとうございます。

 そんな照れる必要はありませんよ〜。
 実際事実ですからねえ。賢い方って話が通じにくいです。
 ほんと話が通じないんですよねー。
 いやいや、照れることはないですよ! 事実なんですから。
[良い点]
なんか、うん、すごかったです。
愚かか賢いか、自分をどちらに分類する気もありませんが、なるべく賢くありたいと思う。
[一言]
賢い人は生きずらい。
人間社会の表面の大半は愚かな人でできているから。
その社会で賢い人は否定され続ける。
愚かな人々には賢い人を理解できないから。

賢い人の楽しみを、愚かな人は嘲笑う。
愚かな人の楽しみに、賢い人は戸惑う。

話が通じないとき、賢い人は苦しむ。
話が通じないとき、愚かな人は誤魔化す。

うーんきびしい世界。
賢い人はあまり群れないと思います。たぶん、その方が楽だから。

興味深いエッセイ、ありがとうございました。
 ふとんねこ様、ご感想ありがとうございます。
 返信遅れましてごめんなさい!!


> どちらに分類する気もありませんが

 たしかに、分類してしまうことは不要な気がします。


> 賢い人は生きずらい。
> 人間社会の表面の大半は愚かな人でできているから。

 たしかに、「表面」が特にそうなのだろうと思います。
 つまり、建て前とか、権威とか。
 そういった中で生きていくうち、本来の自身を失っていく人も少なくないというか。
 誰もが内面では固有な非常な賢さを有しているというのも一面と思います。


> その社会で賢い人は否定され続ける。
> 愚かな人々には賢い人を理解できないから。

 人間や生命には自分自身を肯定しようというエネルギーがある気がします。
 それは肯定できる面が多いと思うのですが、色々な矛盾や苦しみを生じてもいる気がします。
 ほとんどの人はこの本文を、自らを「賢い」側に分類して読もうとするようです。
 それは人情ですよね。過小評価されれば損をする世間で、自分の価値を認めてあげるのは誰よりも自分自身ですから。
 でももしも世間に少しのいじめもなかったら、賢くある必要もない。
 無理ですよね、すべては正規分布?してるのですから、自分の能力の半分は並以上、もう半分はきっと並以下。
 背伸びしなくても幸せに暮らせる時代が来たなら、知性の分布も静かに眺めて、いじわるもなくなっていく気がします。


> 賢い人はあまり群れないと思います。たぶん、その方が楽だから。

 ですね。そんな傾向がある気はします。
 でも理系とは別種の文系的なすごい賢い人を見かける気もします。
 運やコネの世間ではありますが、地位のある人々の優秀性も色々に感じます。
 本当は群れたい人もいて、良い機会に良い人と出会えれば、色々な展開があるだろうとも思います。


> 興味深い

 わずかでもご考察の刺激になれましたなら光栄でございます。笑
[一言]
嘘を嫌う、多くの人に共感できない、権威に靡きにくい
この話における「賢い人」の特徴の多くががASDの特徴(俗に言うアスペ)に当て嵌まっているように感じた
嘘を見抜けないのは「■専門について」空気を読めないと呼ばれる現象は「■短所の指摘について」「■わかりにくさのわかりにくさ」において綴られているように思う

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2014/141105_2.html
  • 投稿者: 退会済み
  • 2019年 04月25日 17時53分
管理
  だんだんなんかかんたんになったん様、ご感想ありがとうございます。


>嘘を見抜けないのは

 嘘を見抜けないのはASD(俗に言うアスペ)の特徴だと思います。
 しかし、本文で描いた「賢い人々」の像は、

「愚かな人が自分の利益に少し有利なように少しだけ嘘をついた時、それは賢い人から正確に見抜かれている。」

 などと書いたようなものですからね。
 いわゆる「心の理論」の観点から言えば、明らかに露見する嘘を露見しまいと信じているほうがASDです。
 よって決定的に異なる。

 「空気を読めない」という論点についても、何らかの理由で「話が通じない」性質の2つのグループ一般について、片方の人が少数者としてもう片方に混ざったときには言えるでしょう。よってASDでない場合についてもそういう傾向の現象が言えることには無理がない。しかも上記によりASDたりえない。


 ご提示の論文は、類似性仮説 (similarity hypothesis)、つまり同質な者同士のほうが話が通じるという趣旨に基づくものだと思います。言わばIQ90同士とIQ110同士が、グループを隔てた場合より話が通じるということです。話が通じないならば典型的でない側がASD、という結論を導けるものではない。むしろ本文を支持している。

 著者の米田英嗣さんが提案している類似性仮説は、そもそも自明に言えることでしょう。しかしASDは突き詰めると(心の理論の能力における知性の不足として)自閉症に至る概念ですから、自閉症者と自閉症者が健常者と健常者ほどに分かり合える、という事実が言いえない事実からその限界もまた自明です。
 一つの価値観を権威と考えてしまいやすい世界に対して、各々の視点に配慮した日本的長所のある優れたご研究かもしれません。しかし、ASDというものの理解がユルいというか、軽度のASDに対する安易なシンパシーを主眼にしている気がします。
 重度ASDと重度ASDが健常者同士ほどに分かり合える可能性は言えないことから、類似性仮説に普遍的な有効性が認められないことは明らかだろうと思います。有意義な一面の事実だとは思いますが。
[良い点]
右を向きながら、左に何があるのかを知ったわけか
  • 投稿者: 退会済み
  • 2019年 04月06日 21時38分
管理
 ヤブ薬剤師様、ご感想ありがとうございます。

> 右を向きながら、左に何があるのかを知ったわけか

 なんのことでしょう。
 本文で、
「賢い人の立場から多数の愚かな人を眺めることは、自分の背後により賢い人々がいることを考えさせて」
 として触れたような論点でしょうか。(違ったらすみません。)

 逆に、左を向きながら右に何があるのか知ることは難しいのでは、と言ってみます。
 つまり、自分よりも確かに愚かな人を見ることで自分もまた誰かにとって確かに愚かであろうことを、つまり賢い人の存在を推論できるとして、その逆に、自分よりも賢い人がいると言ってみることによっては、自分よりも愚かな人の存在が実感としてわかることはない気がします。
 つまり、目の見えている人が目の見えない人を見ると、自分も何らかの意味でそのように盲目かもしれないと思うことができる一方で、自分が目の見えない人であった時に、周辺の情報から、自分よりも「目」なるものが「見える」人がいるとは理屈で推論できても、「見える」という実感がほんとうに認知できているのか、疑問に思うのです。
 つまり、下から上というのは、常に全く見えない定めにあると考えます。よって、私はあまり、左右としては認識してません。

 別の観点からコメントします。
 本文では、「賢い人」と「愚かな人」を話題の切り口としました。
 しかし、愚かな人を眺めることによって自らの確かな愚かさを知るということは、しばしばむしろ、専門の違いについて言われる気がします。
 つまり、自分自身が、ある専門で確かに優れた力を持っていると、そこにおいて才覚に恵まれない人々とどれだけ隔絶しているかはわかると思います。ですから、別の専門に行けば自分がいかにど素人かもわかると思います。
 意志や努力ではそうそう乗り越えられない壁のようなものを、両側から見えるというか。
 例えば数理的な話題で盛り上がっている人々といる時に、私などしばしば、話題に理解が追随せず苦労することがあります。10分後に到着した結論がそもそも相手の最初の指摘だったりして恐れ入ります。
 だから結局、知性はかなり多様ですね。じゃなきゃ例えば、将棋やチェスが強い人が、政治家にも官僚にも経営者にも教員にもなればいいわけで。
 つまり上下ならぬ左右のごとき面も、知性にはある。

 しかし先天的な知的優劣の実在を過小評価することは、弊害のある社会病理だとは思います。

 ソクラテスでしたか、「無知の知」なる概念がありますね。
 自分がいかに知らないか知っているという点によって私は多くの人よりも賢いと言える、というような。
 全くナンセンスだと思います。そんなレトリックを言ったところで1ミリも賢くはなれない。愚者が言葉に溺れているようにしか見えない。
 まあ、西洋的には意義があったのかもしれませんが、東洋では荘子の「胡蝶の夢」などあって、主観など初めから相対化されてますから。
 結局、理屈こねても無駄だと思うのですよ。本100冊熟読したって、英才の瞬時の直観に敗北するものだと思っています。
 諦めの境地。笑
 まあ人間、賢くなどなくていいし、できないものはできないでいい、自分を傷つけるような無理までしない、それが大事と思います。
 でも、人間の人格の社会的な価値が平等だとまで言ったら、嘘ですね。
[一言]
欧州の研究だと高等な教育を施せば施すほど
同じ教育内容でも高IQの人と低IQの人の知的格差は広がるとのことらしいやね

教育でみんな全員が賢くなるってのは幻想で
元から賢いものをより賢くして知的格差を広げるだけという現実w

インターネッツにも同じことが言えるやねぇ
人類の叡智にどこからでもアクセス出来る、見知らぬ他人とコミュニケーションが取れる、まるで夢のような機械だけど

みんな全員を賢くする事は無く知的格差は広がるばかりで、コミュニケーションは融和よりも断絶を産んでおるんよw
悲しいのぅw悲しいのぅw

ちなみに自分が賢い側だとは思っていません(震え声)
 通りすがりのケンモメン様、ご感想ありがとうございます。

 面白い話題ですね。

 「高IQの人と低IQの人」については、人間と動物として考えてもいいでしょうね。
 つまりかつて人類は虎を恐れたが、銃を発明してからは、人間の優越が確定してしまった。
 親を殺された虎の子が涙を流しながら銃の製造法を学んでも、どうしたってちんぷんかんぷん。
 残酷ですね。

 おっしゃる通り、人間同士についても知的優劣があるでしょうね。
 そして知的才能は、遺伝子やそれに類するもので決まっていると考えることが一応は自然でしょう。
 よって愚劣な男が懸命に働きあるいは宝クジを当てて多く子を儲け、環境に投資して全員を超名門校に進めても、自身の遺伝子はやがて消えていく。
 せいぜいが、優れた相手と結婚して家名を残す程度しかできません。
 かつて自分達だけが人間だと思っていた白人の若者が、勉学では今や中国人やインド人に子供扱いされている。
 熊のような体格が自慢だった西洋の男達が、猿のような東洋人のほうが知性の時代には有利かもしれないと気づく。
 運命的で、救いがありません。

 ならば愚者は、数の暴力で損失を先延ばしすべきでしょう。
 デモ行進でもして、窓ガラスでも割って、富の再分配や、社会福祉の拡充を求めるほかない。
 賢い遺伝子と愚かな遺伝子の社会的実力は、どうしようもなく広がっていきますから。
 生活保護によって貧困から守るのに同じく、愚かさは障害と見なされ保護されねばならない。
 つまり全ての人々が、大なり小なり知的障害者であると認めましょう。
 みんなIQ証明書を提示して、IQに応じた割引価格でバスに乗るようになります。
 今で言う義足のように、知能拡張素子を脳に埋め込んでもらって生かされることになるかもしれません。
 少し屈辱的ですね。

 社会福祉によって知能を与えられやっと生きている人々を、上層の人は内心でどれほど蔑むでしょうか。
 いやそんな蔑みは今すでにあるのかもしれない。
 学校の教科書やテレビのニュースで与えられる社会正義の規範は、大衆を弄ぶために恣意的であって、真の権力者達は庶民の姿をいつも嘲笑して見ているのかもしれません。
 子供向けのアニメが夢を語るのは、報われない努力へと労働者を促すためかもしれません。
 「教育でみんな全員が賢くなるって」「幻想」は、誰かの意図によるのかもしれない。

 スマートフォンが当たり前になって、テックジャイアントの権力がどれほど巨大化しているかわかったものではない。
 庶民は資本の前に家畜化されていく。
 思考は権力のために最適化されていく。
 パクス・ロマーナ、平和という名の奴隷制。
 経済のために作られる紛争、経済のために作られる論争。コミュニケーションの断絶すら弄ばれることになる。

 しかし地球で発達したどんな覇権も、宇宙から現れたより優れた他者によっては一掃される。
 ならば、才能への怨嗟にこそ、普遍的な真理があるのかもしれません。
 神は平等だと、権力は悪徳だと。
 死の運命を定められた生命という存在の、本心に宿る呪詛。
 悲しいですね。

 知性こそが最大の暴力であり権力なのに。
 競争も発展も、もう止めるわけにはいかない。
 みんな所詮馬鹿なのに、永遠に争い合い、虚勢を張り合い、蔑み合って見せるほかない。
 知性が美徳で自分は賢いという信仰に逃げれば、虚勢の不安から死ぬまで逃げられない。

 ならば、雑魚雑魚教を作って、皆で雑魚雑魚音頭を踊りましょう! (私も踊ります。笑)
 滅びゆく雑魚であることを愛しましょう。
 私達が虐げ滅ぼしてきた弱者のように、私達誰もがやがて虐げられ滅ぼされる。誰もが、滅びゆく雑魚である。
 ゆえに虎の子の涙も、生命の名のもとに共有されます。死という言葉が、理解を繋ぐ。
 めでたしめでたし。
[良い点]
 この感想の内容がほとんど本文の論旨から逸脱していることをどうかお許しください。

 愚かな人サイドの私でもよく理解でき、また納得させられる内容で、とても勉強になりました。具体例としては少々不適切かも分かりませんが、ここでいう愚かな人というのはプロタゴラスとかゴルギアス等のソフィストで、賢い人というのはソクラテス、プラトン等の哲学者といった感じなのでしょうか。

 自分に甘い人間からすると、このようなエッセイを書いていただけくことだけで、自分を律することを優先できるので、本当にありがたいのです。

 このような賢さについて論じるとき、私が見てきた多くの論者は、どうしても「賢さ=良」「愚かさ=悪」といった印象を与えてしまい、またその賢さといった基準が相対的なものだという一部読者の思い込みと「お前だって論法」によって、その議論を取り下げざるをえない状況に追い込まれてしまっていました。

 しかし、今回は作者様のたくみな言葉選びと分かりやすい構成のおかげか、そのような状況になっていないようでしたので、とても安心しました。

 私は学生時代、東大の数学科を卒業した人が初見で解けなかった数学の問題を、初見で解いた経験があります。ただし、初見と言っても4日ほど自分の頭で考えた結果でありますので、何も自慢できることではありません。

 しかし、自分より能力が高い人と戦うときにも、やり方さえ間違わなければ勝てるパターンもあるのだ、ということを身を以て経験し、それは今でも私の支えとなっています。

 つまり、高い能力を有していることと、一般的に高い能力を有している人でないと出せないと思われている結果を出すことは分けて考えるべきであり、後者が我々愚かな人サイドの人間が戦う唯一の道だということになります。

 しかし、それはまぎれもなく自分と同じ愚かな人たちを騙す行為であり、彼らに対して「自分は賢いのだ」と嘘を用いて自己宣伝する行為でありますから、それは賢い人たちから正確に見抜かれていることでしょう。

 ここで、私は孤独を感じます。この愚かなジレンマについて先生のご意見を是非ともお聞かせください(本文と関係がなくなっているかもしれませんが、それについては本当にごめんなさい)。

 私は処世術を日夜研究しております。芸能、スポーツ、誰が不倫した、誰の音声が流出した等、本当はどうでもいいと思っているのですが、積極的に話題を集めております。

 そうでないと、いつ、誰に社会的地位を奪われるのかが分からないからです。これは単に私が世間一般の方々と違う趣向を持っているだけなのでしょうが、もしかしたら才能を持っている方々の厭世と通じるところがあるかもしれません。

 人間失格の主人公のように、周りを常に警戒する自分を本当に恥ずかしく情けなく思いますが、このエッセイのおかげで、もしかしたらこれは自分の才能ゆえではないか、と思えるので、大変励みになります笑 ありがとうございます。

 最後に、私はこれまでずっと嫌味のようなものに一定の価値を感じておりました。明らかに間違ったことをしている人に対して、あなたは間違っていますよと直接告げるのは、彼を一時的にでも傷つけ、また彼の精神の鎧の棘によって自分を傷つける行為であります。

 したがって、彼の行為が間違っていることを彼には伝えず、しかし、私は彼の行為が間違ってることを知っているということを第三者に伝えるときに、言葉に複数の意味を持たせることはとても有効なのです。
 
 しかし、この考えも改めなければならないと確信いたしました。こんなことをしていたら、人々が疑心暗鬼になることを助長するだけですもんね。本当に感謝です。
 
 

 

[一言]
全体的にとっても面白かったです。感謝感激です。
  • 投稿者: 退会済み
  • 2018年 11月23日 15時36分
管理
 痛い人様、ご感想ありがとうございます。


> ここでいう愚かな人というのはプロタゴラスとかゴルギアス等のソフィストで、賢い人というのはソクラテス、プラトン等の哲学者といった感じなのでしょうか。

 教養がなさすぎて意味合いがよく分かりませんでした。
 雑に言って、私は、理系よりも文系のほうが凄いのでは、という思いが少しあります。数学の天才だがいわゆるアスペな人は存在しうると思うのですが、アスペが社会のトップに立つのは合理的じゃないだろうと思うからです。ただそれは本質論であって、実際の文系の世界は価値観が客観的ではないと思うので、特に尊ぶ思いはありません。
 雑に言って、文系に話を限ってみる意味で、基礎研究と応用研究を区別できるかなと思います。近いのは、哲学と法学でしょうか。ソクラテスとプラトンは基礎研究で、プロタゴラスとゴルギアスは応用研究という形で、ご指摘を受け取ってみることもできるのかなと思いました。前提なく考える哲学が有用な前提を提出し、その前提を単位として法学が社会に応用するというイメージを持ちました。法学が事実上、多量の知識を不可欠とするのに対して、哲学はもっと、概念をどこまでも分解して論理に俎上で動かしてみる力が要求される。
 本文における知識力と推論力の対比は、確かにそのような意味合いで書きました。
 ただ、現実に応用研究に従事している人は基礎研究に従事している人に敬意を持っているだろうと思います。その意味では、価値観において、話が通じている。ソフィストと哲学者も、当時の実態としてはそういうところがあるのかなと思います。なので、ガッチリ対応する譬えではないような気もします。


> 多くの論者は、どうしても「賢さ=良」「愚かさ=悪」といった印象を与えてしまい

 世間での知的優劣への言及は大いに恣意的ですよね。
 まあ、優秀な人間が社会を支え、劣等な人間が足手まといになっている、という構造は現実の一面としてはあるでしょう。
 しかし、良い学校や良い会社に行く人々が皆、やむにやまれぬ社会貢献への衝動の発露として受験勉強に精を出したわけではありませんよね。
 畜産より医学を選んだ全ての人が、経済的安定をわずかにも顧慮しなかったとは言い難い。
 むしろ、賢い人ほど社会の上層にいると考えるなら、疑いなく既得権益を形成しているとも見なせる。
 よって、「賢さ=良」「愚かさ=悪」という事実も論点によっては実在すると思いますし、一方で、「賢さ=悪」「愚かさ=良」という事実も論点によっては確かに実在すると言えます。
 社会貢献の程度としての美徳と、競争力の力としての美徳が、恣意的に混濁しているのだろうと思います。社会貢献の力としての知性は、誰にとっても美しいものであるはずで、妬み羨む感情が生じる必要の全くないものだと、私は思ってます。私は思ってますが、世間は混濁しているので、私が思ってるだけです。笑

「自分を賢いと思いたい」
「他者からは賢いと思われたい」
 という発想は世間からはしばしば感じますね。それが議論を歪めるのだろうと思います。
 私にはそのどちらもほとんど無いと思うので、なかなか分かりにくいです。
 でもそこには暗黙の前提があるでしょう。
 馬鹿だと侮られると損する社会ですよね。
 愚かであることによって誰一人に侮辱されない社会であれば、賢く見せたがる人はずっと減ると思いますよ。だからそういう欲求は既存社会を暗に前提にしている。無自覚な適応としてです。
 自分を賢いと思いたいという発想も、きっと多くの前提に依存しています。
 女性の多くは、男性よりも筋力に劣ることを受け入れていますよね。優秀性や見栄そのものって、人間の本心にとっては、最終的にはどうでもいいことだろうと思います。せいぜいが手段かなと。

 根本として、パブリックを文脈とする言論とプライベートを文脈とする言論があると思います。
 例えば無人島に母親っぽい人と多くの子供達が流れ着いて、
「君は力持ちだから、あの枝をこちらに運んでちょうだい」
「あなたは賢いから、帳簿をつけて木の実を集計してちょうだい」
 と言ったとします。帳簿をつける意味では愚かさは悪徳だと考えられますが、それを指摘されて誰が不快ということもないでしょう。母親っぽい人がパブリックを主体として、どの子供の幸福も大切に尊重していると仮定されるからです。
 だから、「賢さ=良」「愚かさ=悪」という議論が普遍的に不当だという認識は私にはない。
 その論点にまつわる実際の不都合は、大抵は、プライベートな文脈に絡め取られて、果てしなく的外れな議論に吹っ飛んでいくことだろうと思います。

 賢さは実在だと思います。正義も実在すると思う。
 しかし実際、あらゆる知性が存在します。時々の論点によって、様々な知性を単に知性として論じることが有益です。なので色々な知性があるという意味では、相対性が言える時もあるでしょうね。
 本文の構造は、知性の一例を以って反例を示したということだと思っています。


> 私は学生時代、東大の数学科を卒業した人が初見で解けなかった数学の問題を、初見で解いた経験があります。ただし、初見と言っても4日ほど自分の頭で考えた結果でありますので、何も自慢できることではありません。

 すごい……。
 私は一万回戦っても一万回負けるだろうと思います。
 まあ、問題の専門性があったかもしれませんし、4日間の本気っぷりが違ったかもしれませんし、最初の作戦の方向性の運もあるかもしれません。理由は色々ありえるでしょうが、一言で言えば、すごい!、ですね。笑


> しかし、自分より能力が高い人と戦うときにも、やり方さえ間違わなければ勝てるパターンもあるのだ、ということを身を以て経験し、それは今でも私の支えとなっています。

 自分がどのくらい戦えるのかって、自分だけでは分からないですよね。
 自分が妙に苦労した問題が、実は他のみんなも苦労していて安心したり。そんな積み重ねも有意義でしょうね。
 あるいはそもそも、幼少の家庭環境で醸成された自己肯定感とか、そんな関係ないところが一番関係している場合も多いでしょう。
 大抵の問題について努力は非常に重要ですね。専門領域のトップみたいになるとセンスの壁は疑いなくある気はします。
 大谷翔平選手だって日本人っていうスタイルじゃないし、それは子供に夢を与えているのか?、ていう。笑


> つまり、高い能力を有していることと、一般的に高い能力を有している人でないと出せないと思われている結果を出すことは分けて考えるべきであり、後者が我々愚かな人サイドの人間が戦う唯一の道だということになります。

 個人的には、「一般的に〜思われている」というのは、かなりどうでもいい気がしてしまいます。
 世間の常識に尊重すべき真理なんて含まれてませんよ。(←おい)

 なろうで言えば作家志望なんてありますね。才能のある人間が成功した作家になるのか、あるいは成功した作家が才能のある人間だったのかと言えば、後者でしょう。
 どんなに才能に満ちた子供を見ても、それが将来成功した漫画家になると保証できる大人などいないように。
 「高い能力」と言っても、どこでどう測った能力なのかなって思います。学歴や地位じゃないかなと。そういった形式で測りきれるものはないと思います。
 どんな輝かしい肩書きを持っていても、自分が万能だと思っている人はきっといませんよね。程度を無視すれば、誰にでも苦心はある気がします。


> しかし、それはまぎれもなく自分と同じ愚かな人たちを騙す行為であり、彼らに対して「自分は賢いのだ」と嘘を用いて自己宣伝する行為でありますから、それは賢い人たちから正確に見抜かれていることでしょう。

 よく分からないです。
 例えば戦争の戦術なら生きるか死ぬかですから、やはり結果が価値ですよね。泥臭く勝っても勝利でしょう。
 知らないですけど、ナポレオンだって戦争に負けたこともあるみたいですし。世界は不可知ですよ。


> ご意見を

 難しいですね。
 具体的にはどういった話題についてなのか不明瞭なので分かりにくいという面もあります。

 ただ、人間の思考は全て思考実験という気はします。
 派手なこと言ってみて、いくらかの人に評判を得るかもしれません。翌日には考えが変わって、内心ではその発想を撤回していたとしても、別に人間、そんなものでしょう。
 ほとんどの人は、命懸けではなく、話半分で聞いてるだけですから、騙す結果になってしまっても甚だしい害までないことがほとんどでしょう。
 色々な極論を試さないと、自らの推論の力というのは発展しにくい気がします。
 色々な切り口で考えてみること、一つ一つが有益であって、なかなか損にはならないだろうと考えます。
 超越的に賢い人を夢想すれば、私達凡人の人生なんて全体が恥かなと思います。犬猫が犬猫であることを恥じる必要はないと思うのですよ。心の向くまま楽しまないとね!


> そうでないと、いつ、誰に社会的地位を奪われるのかが分からないからです。これは単に私が世間一般の方々と違う趣向を持っているだけなのでしょうが、もしかしたら才能を持っている方々の厭世と通じるところがあるかもしれません。

 まあ、処世術に人並み以上の研究心を向けるのも、一つの才能には違いないでしょうね。

 付け加えて否定的な可能性も申し上げると、いわゆるアスペ傾向の人が、直感的な社会不適応性を、理性的な対策によって克服しようとするパターンはある気がします。
 もしかそういった意味が含まれるなら、その点では、才能というより個性という程度のことでしょう。
 もちろん、理性的に考察しているから非常に賢い面も備えるのですが、多くの人はその半分を直感的に適当に実現してしまっていたりしますからね。自分が思うほど賢くないっていう。


> 嫌味のようなものに一定の価値を

 実際、そうですよね。
 皮肉っぽく少し遠回しに指摘してもらったほうがありがたいと感じる人はいますし、そのほうが社会生活がうまくいく場面は多いだろうと思います。
 本文での言及は、少し理想主義的なところもあります。実際には嫌味がベストかもしれません。しかしそこに悪徳としての性質はどうしても残るだろう、と考えました。
 500年後に嫌味のない社会は実現するかもしれません。現代ではそうではありませんから、あまり割り切って理想主義に傾かずに、その時々のバランスで落とし所を得るべきでしょうね。

 常識的な意味での見栄というものに、気を使っていらっしゃるのかもしれません。
 自分が人前で恥をかかされたら嫌なように、人にも直接指摘するのは可哀想かもしれません。
 私は常識的に社会的な感性は少し破綻しているので、あまりご参考にならない気がします。笑
 私は本気で学歴をゴミだと思ってますしね。何かの病気です。


> 全体的にとっても面白かったです。感謝感激です。

 それは何より。良かったです。ありがとうございます。
[一言]
黙れ小僧!お前に人の不幸が癒せるのか?賢人にもなれず、愚かにもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!お前に人が救えるか!?
 落合圭介様、ご感想ありがとうございます。

 事実を解き放て! 知的優劣は事実だぞ!


 ご指摘は、不快な指摘は事実であれ慎まれるべきだ、との主旨だと受けとめます。
 つまりそれは、他者の心を傷つける言葉の暴力ですからね。しかし実際には、自分を肯定できる言論に逃避して、それへの妨害は事実性の如何を問わず退けようとする態度こそ、現代の主要な暴力でしょう。

 人間には知的優劣があり、知的格差のもとではしばしば対話が困難な事実があると思います。
 自分を肯定したがる意味では、自分よりも賢い人がいるという言論は精神的なストレスです。
 そのような声の力が最大になるのは、人口でボリュームゾーンをなす平均的な大衆においてです。
 彼らはマジョリティです。彼らは彼らが共有する認知を普遍的な事実だと見なしたがる。
 正常性バイアスや公正世界仮説によって言論の力学を構成し、一つの権力となる。
 しかし、心地良い認知に逃避しようとすれば、それによって損をすることもあります。

 現実には、平均的な大多数よりもずっと愚かな人々や賢い人々が多くいます。
 彼らを含むものとして私達の社会は運営されています。
 愚かな人々と大多数の人々は話が通じない。
 その現実を軽視すれば、愚かな人々の苦しみを過小評価することになります。
 つまりその意味で、弱者の苦しみを過小評価しようとする社会となる。
 それは社会運営としては健全ではなく、方向性において破滅的です。
 誰もが何らかの意味で弱者ですから。お金持ちだって老人になります。

 一方で、大多数の人々と賢い人々ともまた、話が通じない。
 その現実を軽視すれば、やはりマイノリティである賢い人々の幸福を損なうことになる。
 のみならず、その軽視は、大多数の人々の利益を深刻に損ないやすい。
 なぜなら、社会は競争である一面で、確かに互助でもあるからです。
 賢い人々は、目が良くて遠くまで見えることに譬えることができます。
 自分の利害だけでなく社会の利害を悟る、明日のことだけでなく明後日のことを悟る。
 そこからもたらされる言説は原則的に、大多数が前提とする価値観と矛盾します。
 ゆえに、凡人が短期的な利己性への自己肯定へ埋没していくことは、社会の幸福度や対外的競争力を損ないます。
 ゆえに、庶民の自己肯定感は尊重すべきものだとはいえ、現実を一定程度認識することも大切です。

 よって、賢人でも愚かでもない人の不幸を言わば救う意味でも、本文の論点は有益だと思います。
 以上により、不快な指摘は事実であれ慎まれるべきだ、との主張の社会的正当性を棄却できたと考えます。
1 2 3 4 Next >> 
↑ページトップへ