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[一言]
「「最近、辞(皇帝の命)を奉じて罪を伐ち、旌麾(将帥旗。または軍隊)が南を指して劉琮が投降した。今、これから水軍八十万の衆を治めて将軍と呉で会猟しよう(「会猟」は大規模な狩猟のことだが、ここでは戦争を意味する)」
孫権が曹操の書を臣下に示すと、皆が響震失色(すぐに顔色を失うこと)した。」
これ十八史略では「操遺権書曰、
「今治水軍八十万衆、与将軍会猟於呉。」
権以示群下。
莫不失色。」(https://manapedia.jp/text/3807)となっていますが、何故「莫不失色。」つまり顔色を失わない者はいなかったのでしょう。
高校時代、「与将軍会猟於呉。」は宣戦布告であると習いました。しかし、「会猟」は会って狩猟を行うことを意味します。
尤も、「今治水軍八十万衆」から、狩猟対象が鳥獣でないことは明白です。
だからと言って宣戦布告と解釈するのは早計で、例えば「今私は水軍八十万の兵を指揮している。(私に負けてノコノコ劉備がそちらに来るはずだから劉備の頸を獲物にして)孫権将軍と呉で共に狩猟をしよう。」とも解釈できます。この場合は同盟の誘いです。だから「莫不失色。」はどう考えても可笑しいです。
何故呉の家臣は顔色を失ったのでしょうか。
「「最近、辞(皇帝の命)を奉じて罪を伐ち、旌麾(将帥旗。または軍隊)が南を指して劉琮が投降した。今、これから水軍八十万の衆を治めて将軍と呉で会猟しよう(「会猟」は大規模な狩猟のことだが、ここでは戦争を意味する)」
孫権が曹操の書を臣下に示すと、皆が響震失色(すぐに顔色を失うこと)した。」
これ十八史略では「操遺権書曰、
「今治水軍八十万衆、与将軍会猟於呉。」
権以示群下。
莫不失色。」(https://manapedia.jp/text/3807)となっていますが、何故「莫不失色。」つまり顔色を失わない者はいなかったのでしょう。
高校時代、「与将軍会猟於呉。」は宣戦布告であると習いました。しかし、「会猟」は会って狩猟を行うことを意味します。
尤も、「今治水軍八十万衆」から、狩猟対象が鳥獣でないことは明白です。
だからと言って宣戦布告と解釈するのは早計で、例えば「今私は水軍八十万の兵を指揮している。(私に負けてノコノコ劉備がそちらに来るはずだから劉備の頸を獲物にして)孫権将軍と呉で共に狩猟をしよう。」とも解釈できます。この場合は同盟の誘いです。だから「莫不失色。」はどう考えても可笑しいです。
何故呉の家臣は顔色を失ったのでしょうか。
- 投稿者: 山城守
- 2022年 02月15日 21時31分
エピソード164
ご質問ありがとうございます。
質問の内容に関してですが、孫権の臣下たちが顔色を失ったのはこの後の張昭の言葉にある『曹公は豺虎(山犬や虎)であり、天子を脅迫して四方を征し、動く時は朝廷を名義にしています。今日、これを拒めば、更に朝廷に逆らうことになります』という言葉にあるように、曹操の行動の後ろに漢王朝という朝廷があり、曹操の行動に逆らうような行為をするということは朝廷に逆らうということです。そのことを曹操は「わかっているよね?」と聞いてきていることを臣下たちはよくわかっていました。
一方、孫権は諸葛亮に煽られて曹操と戦おうと臣下たちに意見を聞いている段階です。この状況の孫権に対して臣下として曹操に従うべきですと言いたい人たちが顔色を失っているのかもしれません。そこで張昭が代表して進言したという流れかもしれません。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
質問の内容に関してですが、孫権の臣下たちが顔色を失ったのはこの後の張昭の言葉にある『曹公は豺虎(山犬や虎)であり、天子を脅迫して四方を征し、動く時は朝廷を名義にしています。今日、これを拒めば、更に朝廷に逆らうことになります』という言葉にあるように、曹操の行動の後ろに漢王朝という朝廷があり、曹操の行動に逆らうような行為をするということは朝廷に逆らうということです。そのことを曹操は「わかっているよね?」と聞いてきていることを臣下たちはよくわかっていました。
一方、孫権は諸葛亮に煽られて曹操と戦おうと臣下たちに意見を聞いている段階です。この状況の孫権に対して臣下として曹操に従うべきですと言いたい人たちが顔色を失っているのかもしれません。そこで張昭が代表して進言したという流れかもしれません。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
- 大田牛二
- 2022年 02月15日 22時54分
[一言]
先刻の追伸
荏開津典夫氏によるとアジアにおいて慢性的栄養不良の境界値は1日摂取カロリー1760kcalです(荏開津典夫著岩波書店発行『農業経済学』p116-117)。
で、今白米の重さにその境界値のカロリーを治してみます。
白米100g当たり米のカロリーは356kcalです。1gなら3.56kcalです。ということは1人1日に必要な米の量は1760kcal÷3.56kcal=494.382022471gとなります。これを18日分ですから8.89887640447kgの食料を背負って山越えして前線に補給しなければなりません。しかも輜重兵の食べ物も前線の食べ物もどちらもひつようだから結局その2倍の17.7977528089㎏もの荷物、否、これに矢も加えると更に重い荷物を背負って山越えを繰り返し、食料を運ばねばなりません。
そんなこと不可能だ。不可能なら略奪か現地での協力を乞うしかありませんが、現地での協力は不可能なので古の都長安で「漢復興」を叫ぶ交戦団体=蜀が略奪するという無茶苦茶な絵面になってしまいます。
なので魏延が頭が悪いかさもなくば余程軽量で高カロリーな軍隊食が蜀で発明されていたと考えました。
孔明が却下したのを見ると、恐らく魏延が無教養であるということになるんでしょうね。
先刻の追伸
荏開津典夫氏によるとアジアにおいて慢性的栄養不良の境界値は1日摂取カロリー1760kcalです(荏開津典夫著岩波書店発行『農業経済学』p116-117)。
で、今白米の重さにその境界値のカロリーを治してみます。
白米100g当たり米のカロリーは356kcalです。1gなら3.56kcalです。ということは1人1日に必要な米の量は1760kcal÷3.56kcal=494.382022471gとなります。これを18日分ですから8.89887640447kgの食料を背負って山越えして前線に補給しなければなりません。しかも輜重兵の食べ物も前線の食べ物もどちらもひつようだから結局その2倍の17.7977528089㎏もの荷物、否、これに矢も加えると更に重い荷物を背負って山越えを繰り返し、食料を運ばねばなりません。
そんなこと不可能だ。不可能なら略奪か現地での協力を乞うしかありませんが、現地での協力は不可能なので古の都長安で「漢復興」を叫ぶ交戦団体=蜀が略奪するという無茶苦茶な絵面になってしまいます。
なので魏延が頭が悪いかさもなくば余程軽量で高カロリーな軍隊食が蜀で発明されていたと考えました。
孔明が却下したのを見ると、恐らく魏延が無教養であるということになるんでしょうね。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月19日 20時30分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
先のご感想、ご質問も踏まえてここで答えさせていただきます。
魏延の作戦について、私も明らかに無茶ではあると思います。ただ無茶であっても悪くない提案だと思います。明らかに国力差のある魏相手にぶつかっていく上で無茶な作戦も行っていかなければならない虚を突くほどの行動をしていく必要性があるのではないかというのが魏延の提案だと思ってます。しかし諸葛亮としては安全策、最善策を行っていくそれを行っていけば勝てる。もしくは蜀の領地拡大して未来に繋いでいくことができると考えていたのでしょう。まあ馬謖が台無しにするんですけどね。
略奪云々に関してはその通りだと思いますね。まあ私は記録に無いだけにやりまくっているとは思いますけどね。
あと諸葛亮と魏延はプロレスしていたのではないかという考えもあります。魏延が無茶な作戦を真っ先に主張し、諸葛亮が却下し安全策を通しやすくする。特に諸葛亮は軍事面では劉備時代はなく、南方討伐は異民族討伐で実績としては弱い可能性もある。そのため自分の考えを通しやすいように魏延とプロレスすることで、作戦実行をやりやすくしたのではないか。
また、作戦への不満を魏延が真っ先に主張することで不満のガス抜きを行う。このプロレスを行っていくことで北伐をやりやすくなったと考えたことはあります。だからこそ李厳から後ろから刺されるが如き、行為に厳しい処置で対処し、息子を用いることで活用する道を完全に閉ざすほどの厳しさを示しながら北伐中は魏延に対しては甘いところがありましたからね。
そしてそのプロレスは自分だからこそ魏延とできるという考えで、楊儀では無理という判断で自分の死後は始末させたのではないか。まあこれも私の妄想に違いません。
農業経済学のカロリーの部分に関してはなるほど、そこまでの量が必要なのですね。そう考えると蜀から魏を攻め込むのは難しいと言わざる負えませんね。諸葛亮はそれでも実行して何回も行いながらあそこまで奮闘したのだからやはり彼の才覚は本物だったのでしょうね。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
先のご感想、ご質問も踏まえてここで答えさせていただきます。
魏延の作戦について、私も明らかに無茶ではあると思います。ただ無茶であっても悪くない提案だと思います。明らかに国力差のある魏相手にぶつかっていく上で無茶な作戦も行っていかなければならない虚を突くほどの行動をしていく必要性があるのではないかというのが魏延の提案だと思ってます。しかし諸葛亮としては安全策、最善策を行っていくそれを行っていけば勝てる。もしくは蜀の領地拡大して未来に繋いでいくことができると考えていたのでしょう。まあ馬謖が台無しにするんですけどね。
略奪云々に関してはその通りだと思いますね。まあ私は記録に無いだけにやりまくっているとは思いますけどね。
あと諸葛亮と魏延はプロレスしていたのではないかという考えもあります。魏延が無茶な作戦を真っ先に主張し、諸葛亮が却下し安全策を通しやすくする。特に諸葛亮は軍事面では劉備時代はなく、南方討伐は異民族討伐で実績としては弱い可能性もある。そのため自分の考えを通しやすいように魏延とプロレスすることで、作戦実行をやりやすくしたのではないか。
また、作戦への不満を魏延が真っ先に主張することで不満のガス抜きを行う。このプロレスを行っていくことで北伐をやりやすくなったと考えたことはあります。だからこそ李厳から後ろから刺されるが如き、行為に厳しい処置で対処し、息子を用いることで活用する道を完全に閉ざすほどの厳しさを示しながら北伐中は魏延に対しては甘いところがありましたからね。
そしてそのプロレスは自分だからこそ魏延とできるという考えで、楊儀では無理という判断で自分の死後は始末させたのではないか。まあこれも私の妄想に違いません。
農業経済学のカロリーの部分に関してはなるほど、そこまでの量が必要なのですね。そう考えると蜀から魏を攻め込むのは難しいと言わざる負えませんね。諸葛亮はそれでも実行して何回も行いながらあそこまで奮闘したのだからやはり彼の才覚は本物だったのでしょうね。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月20日 22時41分
[一言]
「聞くところによると、長安に駐屯している夏侯楙かこうぼうは魏主の壻であり、臆病なうえ謀がありません。今、私に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます。私が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ずや城を棄てて逃走することでしょう。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです。横門邸閣と散民の食糧があれば、食糧をやりくりするに足ります。敵が東方で集結するまで、尚二十余日が必要であり、公が斜谷から来れば、長安に達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます」という魏延の意見具申はどうも褒められたものでないように思えますね。
GoogleMAPで蜀の都成都から長安(現在の陝西省西安市)までのルートはアップダウンが極めて激しく、例え魏延が山越えできても兵站部隊が滞りなく食料、武器、弾薬を輸送する等不可能です。狭い山道では馬車も使えないですので、一輪車かさもなくばリュックのようなもので運ぶしかありませんが、そんなもの山を越える300㎞の間に輜重兵の胃袋に収まってしまうでしょう。300㎞となると1日の行進8時間、時速4㎞として9.375日分です。往復を考えれば18.75日分です。18.75日分の自分が食べる食料に輸送先の前線部隊の食料や矢を一輪車に積み、或いはリュックサックに詰め込んで、山を越える自信は少なくとも私にはありません。
そうなると長安の民衆に魏の暴虐を訴えて協力を乞うしかありませんが、管見の限り魏の領内で不満が溜まっていたという記載はほとんどありません。恐らくよく治まっていたんでしょう。そうなると強硬手段、つまり略奪しかないのですが、「漢王室を復興するための私達は正義の軍隊だ」と宣言して古の都長安で略奪放火をすれば蜀のその「正義」が疑われかねないことになります。以上総合すると、魏延の意見具申を孔明が却下したのは当然でしょう。
そういうことが判らないところを見ると、魏延は大佐くらいしか任せられないですね。
もし魏延が右を考慮してなお意見具申していたとしたら、余程軽量で高カロリーな軍隊食が発明されていたんでしょうな。
「聞くところによると、長安に駐屯している夏侯楙かこうぼうは魏主の壻であり、臆病なうえ謀がありません。今、私に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます。私が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ずや城を棄てて逃走することでしょう。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです。横門邸閣と散民の食糧があれば、食糧をやりくりするに足ります。敵が東方で集結するまで、尚二十余日が必要であり、公が斜谷から来れば、長安に達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます」という魏延の意見具申はどうも褒められたものでないように思えますね。
GoogleMAPで蜀の都成都から長安(現在の陝西省西安市)までのルートはアップダウンが極めて激しく、例え魏延が山越えできても兵站部隊が滞りなく食料、武器、弾薬を輸送する等不可能です。狭い山道では馬車も使えないですので、一輪車かさもなくばリュックのようなもので運ぶしかありませんが、そんなもの山を越える300㎞の間に輜重兵の胃袋に収まってしまうでしょう。300㎞となると1日の行進8時間、時速4㎞として9.375日分です。往復を考えれば18.75日分です。18.75日分の自分が食べる食料に輸送先の前線部隊の食料や矢を一輪車に積み、或いはリュックサックに詰め込んで、山を越える自信は少なくとも私にはありません。
そうなると長安の民衆に魏の暴虐を訴えて協力を乞うしかありませんが、管見の限り魏の領内で不満が溜まっていたという記載はほとんどありません。恐らくよく治まっていたんでしょう。そうなると強硬手段、つまり略奪しかないのですが、「漢王室を復興するための私達は正義の軍隊だ」と宣言して古の都長安で略奪放火をすれば蜀のその「正義」が疑われかねないことになります。以上総合すると、魏延の意見具申を孔明が却下したのは当然でしょう。
そういうことが判らないところを見ると、魏延は大佐くらいしか任せられないですね。
もし魏延が右を考慮してなお意見具申していたとしたら、余程軽量で高カロリーな軍隊食が発明されていたんでしょうな。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月19日 20時08分
エピソード238
[一言]
なるほど。私としては、そもそも孫家は管見の限り天子になったことがないのだし、別に魏や蜀が滅茶苦茶しているわけではないのだからどっちかの王朝を支持して例えば江南侯とか呉侯とかいう位を貰って「私は蜀の(又は魏の)臣下でございます。」という顔していた方が安全かなと。
蜀の劉備、劉禅が皇帝を名乗ったのは「私は漢の皇族だ。漢王室に何の血脈もない曹家に王朝を取られてたまるか」というプライドから、曹丕や曹叡が皇帝を名乗ったのは「私は400年続いた漢王室の献帝が「汝になら中華を任せられる。」と仰って堯や舜等の古の名君の禅譲の例を挙げて皇位をお譲り下さった。私こそ正統な皇帝だ。」ということからですよね。
孫権には血筋も禅譲もないから「魏や蜀が無茶苦茶しているから皆を暴政から解放するために立ち上がるんだ。」という放伐しか理由付けができません。
ところが、孫権が周の武王の真似して大演説をぶって最後に「故今予権惟共行天罰勉哉夫子不可再不可三」(史記巻四周本紀第四の武王の牧野の戦いの演説の最後のフレーズを文字っています)と言ったって恐らく呉の実効支配地域の人以外ついてこないと思うんです。何しろ前述の通り魏も蜀もよく治まっていますので。
そうなると、孫権が「私は皇帝だ」と名乗っても意味がないどころか害しかないように思えるんです。
例えばこれが蜀で孔明が死んで劉禅が暗君化してからとか魏が度重なる対蜀戦争や対呉戦争で疲弊して魏の領内に不満が溜まっているときに「放伐」宣言して皇帝になれば文字通りの「皇帝」になれると思うんです。
なるほど。私としては、そもそも孫家は管見の限り天子になったことがないのだし、別に魏や蜀が滅茶苦茶しているわけではないのだからどっちかの王朝を支持して例えば江南侯とか呉侯とかいう位を貰って「私は蜀の(又は魏の)臣下でございます。」という顔していた方が安全かなと。
蜀の劉備、劉禅が皇帝を名乗ったのは「私は漢の皇族だ。漢王室に何の血脈もない曹家に王朝を取られてたまるか」というプライドから、曹丕や曹叡が皇帝を名乗ったのは「私は400年続いた漢王室の献帝が「汝になら中華を任せられる。」と仰って堯や舜等の古の名君の禅譲の例を挙げて皇位をお譲り下さった。私こそ正統な皇帝だ。」ということからですよね。
孫権には血筋も禅譲もないから「魏や蜀が無茶苦茶しているから皆を暴政から解放するために立ち上がるんだ。」という放伐しか理由付けができません。
ところが、孫権が周の武王の真似して大演説をぶって最後に「故今予権惟共行天罰勉哉夫子不可再不可三」(史記巻四周本紀第四の武王の牧野の戦いの演説の最後のフレーズを文字っています)と言ったって恐らく呉の実効支配地域の人以外ついてこないと思うんです。何しろ前述の通り魏も蜀もよく治まっていますので。
そうなると、孫権が「私は皇帝だ」と名乗っても意味がないどころか害しかないように思えるんです。
例えばこれが蜀で孔明が死んで劉禅が暗君化してからとか魏が度重なる対蜀戦争や対呉戦争で疲弊して魏の領内に不満が溜まっているときに「放伐」宣言して皇帝になれば文字通りの「皇帝」になれると思うんです。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月19日 19時40分
エピソード242
ご感想ありがとうございます。
孫権が魏と蜀の臣下として振る舞うというのは、難しいと思います。特に蜀の臣下という形になるのは難しいと思います。劉備が荊州と益州を有した段階では、荊州を貸しているという認識の強い孫権からすれば屈辱的でしょうし、荊州を奪還した段階では荊州を取り戻した立場でそれを言うのは性格上も踏まえて無理だと思います。それに孫権からすれば自分よりも弱い国だと思っている蜀の下につくのはありえないでしょう。
魏に関しては曹操が生きている間であれば、彼としては下についてもいいと考えていた可能性は無いわけではないと思いますが、孫権の性格上、同年代の曹丕、その年下の曹叡の下につこうとは思わないと思います。また、荊州と揚州を擁している状態で更に領地を拡大しようとするのであれば、魏の方面に進みたいでしょう。蜀は益州を荊州の方向だけで落とすのは難しいと思いますしね。
また、孫権が皇帝になったら支配地域の人しかついてこないという部分においては私はそのために皇帝を称する必要があると思います。呉の地域を治め、運営していく必要のある格が必要なのだと思います。これが魏と蜀が皇帝を称していないなら問題は無いでしょうが、両国が称している状態で彼らと関係を持つ上での格がないのは問題があると思います。まあこの頃にどこまで愛国心という考え方が成熟してはいないと思いますが、自分の住む国が他国よりも下の立場というのは面白くないという意識も出てくるかもしれませんね。まあこれは現代的な考え方でしょうが。
また、赤壁の戦い前に魯粛が自分たちは降伏しても上の地位になれるが、孫権は上の地位にはいけないというのがありましたが、孫権が皇帝にならないと臣下たちはもっと上の地位に行くのは難しい。もしかすれば、孫権から離れて魏、蜀についた方がもっと良い地位を手にすることもできる可能性が生まれてしまう。それを防ぐ意味もあるとは思います。
仮に江南侯とか呉侯として立ち回るとすると魏からも蜀からもその称しているものよりも明らかに領地と国力が大きすぎますし、呉王という立場ならとなるともし魏と蜀どちらかがつぶれた場合、劉氏か曹氏ではないものが王を称してはならないで、潰していく動きになるでしょう。そうならないように両国が潰し切らないように立ち回る。それを行っていくやり方は理想であっても実行は難しいと思います。
魏と蜀の弱体化を待つ。確かにそれは理想です。その時の、天命を待ち続けた周の文王、武王親子。天命が来るまで呉を滅ぼすのに待ったをかけ続けた越の范蠡の凄さはそこにあると思いますが、孫権の性格上それはできないでしょう。そうでなければ小手先の手で魏にちょっかいをかけ続けることはなかったでしょうしね。我慢できるような人ではないのでしょう。
今後もご質問お待ちしております。
孫権が魏と蜀の臣下として振る舞うというのは、難しいと思います。特に蜀の臣下という形になるのは難しいと思います。劉備が荊州と益州を有した段階では、荊州を貸しているという認識の強い孫権からすれば屈辱的でしょうし、荊州を奪還した段階では荊州を取り戻した立場でそれを言うのは性格上も踏まえて無理だと思います。それに孫権からすれば自分よりも弱い国だと思っている蜀の下につくのはありえないでしょう。
魏に関しては曹操が生きている間であれば、彼としては下についてもいいと考えていた可能性は無いわけではないと思いますが、孫権の性格上、同年代の曹丕、その年下の曹叡の下につこうとは思わないと思います。また、荊州と揚州を擁している状態で更に領地を拡大しようとするのであれば、魏の方面に進みたいでしょう。蜀は益州を荊州の方向だけで落とすのは難しいと思いますしね。
また、孫権が皇帝になったら支配地域の人しかついてこないという部分においては私はそのために皇帝を称する必要があると思います。呉の地域を治め、運営していく必要のある格が必要なのだと思います。これが魏と蜀が皇帝を称していないなら問題は無いでしょうが、両国が称している状態で彼らと関係を持つ上での格がないのは問題があると思います。まあこの頃にどこまで愛国心という考え方が成熟してはいないと思いますが、自分の住む国が他国よりも下の立場というのは面白くないという意識も出てくるかもしれませんね。まあこれは現代的な考え方でしょうが。
また、赤壁の戦い前に魯粛が自分たちは降伏しても上の地位になれるが、孫権は上の地位にはいけないというのがありましたが、孫権が皇帝にならないと臣下たちはもっと上の地位に行くのは難しい。もしかすれば、孫権から離れて魏、蜀についた方がもっと良い地位を手にすることもできる可能性が生まれてしまう。それを防ぐ意味もあるとは思います。
仮に江南侯とか呉侯として立ち回るとすると魏からも蜀からもその称しているものよりも明らかに領地と国力が大きすぎますし、呉王という立場ならとなるともし魏と蜀どちらかがつぶれた場合、劉氏か曹氏ではないものが王を称してはならないで、潰していく動きになるでしょう。そうならないように両国が潰し切らないように立ち回る。それを行っていくやり方は理想であっても実行は難しいと思います。
魏と蜀の弱体化を待つ。確かにそれは理想です。その時の、天命を待ち続けた周の文王、武王親子。天命が来るまで呉を滅ぼすのに待ったをかけ続けた越の范蠡の凄さはそこにあると思いますが、孫権の性格上それはできないでしょう。そうでなければ小手先の手で魏にちょっかいをかけ続けることはなかったでしょうしね。我慢できるような人ではないのでしょう。
今後もご質問お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月20日 22時13分
[一言]
「孫権が皇帝になったのである。」
このことがよく判らないですね。中国で皇帝になるには先代皇帝の長子又は最近親者として帝位を受け継ぐか禅譲により、つまり元の皇帝から「お前にならこの国を任せられる」と言って譲られる(曹丕)か徳を失って失政や暴政を行う皇帝を力ずくで玉座から引きずり下ろす放伐しかありません。
まず、1番目ですが、孫権は漢の皇室の出でないので、これは無理です。次に、禅譲については「禪位、冊曰「咨爾魏王。昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不于常、惟歸有德。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大亂茲昏、羣兇肆逆、宇內顛覆。賴武王神武、拯茲難於四方、惟清區夏、以保綏我宗廟、豈予一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光于乃德、恢文武之大業、昭爾考之弘烈。皇靈降瑞、人神告徵、誕惟亮采、師錫朕命、僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之曆數在爾躬、允執其中、天祿永終。君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。」」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/02_buntei.html 三國志卷二/魏書二/文帝紀第二)とあるように漢最後の皇帝が曹丕に舜や禹といった伝説上の名君まで持ち出して禅譲を宣告していますので、孫権が禅譲を受けることはあり得ませんし、また現に受けていません。
では3番目の放伐ではどうか。
劉禅は名君とは言えませんが、蜀軍については「賞罰肅而號令明」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)るまりは「賞罰が厳粛で号令も明快」と賞され、非常によく治まっていて、殷の紂王が「好酒淫楽」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958 史記巻三殷本紀第三(当該デジタルコレクションのコマ56))とか「厚賦税以実鹿臺之銭」(出典同じ)等、己の快楽のためにやりたい放題しているのをぼろくそ書かれているのと大違いです。
で、魏はというと、こちらも管見の限りぼろくそ書かれている件は見当たりませんでした。
そうすると、孫権が皇帝を名乗っても、中国の人々が靡くとは到底思えません。
しかも皇帝=天子は中国に一人なので、これは魏、蜀どちらに対しても反逆(少なくとも分断国家)を宣言したのと同じなので、両側から攻められる恐れがあります。或いは呉、蜀の関係がこじれ、そこを魏に攻められる恐れもあります。魏が呉を攻める大義名分としては帝位を勝手に名乗った逆賊内乱罪と言ったところでしょう。
「王」であれば魏か蜀のどちらかに臣従し、呉の地域の統治を安堵してもらうという体裁が整いますから、確実にどちらかの庇護は受けられます。
以上総合すると、孫権が皇帝を名乗ることは有害無益でしかないでしょう。
孫権は何故この時期に皇帝を名乗ったのでしょう。
「孫権が皇帝になったのである。」
このことがよく判らないですね。中国で皇帝になるには先代皇帝の長子又は最近親者として帝位を受け継ぐか禅譲により、つまり元の皇帝から「お前にならこの国を任せられる」と言って譲られる(曹丕)か徳を失って失政や暴政を行う皇帝を力ずくで玉座から引きずり下ろす放伐しかありません。
まず、1番目ですが、孫権は漢の皇室の出でないので、これは無理です。次に、禅譲については「禪位、冊曰「咨爾魏王。昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不于常、惟歸有德。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大亂茲昏、羣兇肆逆、宇內顛覆。賴武王神武、拯茲難於四方、惟清區夏、以保綏我宗廟、豈予一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光于乃德、恢文武之大業、昭爾考之弘烈。皇靈降瑞、人神告徵、誕惟亮采、師錫朕命、僉曰爾度克協于虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之曆數在爾躬、允執其中、天祿永終。君其祗順大禮、饗茲萬國、以肅承天命。」」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/02_buntei.html 三國志卷二/魏書二/文帝紀第二)とあるように漢最後の皇帝が曹丕に舜や禹といった伝説上の名君まで持ち出して禅譲を宣告していますので、孫権が禅譲を受けることはあり得ませんし、また現に受けていません。
では3番目の放伐ではどうか。
劉禅は名君とは言えませんが、蜀軍については「賞罰肅而號令明」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)るまりは「賞罰が厳粛で号令も明快」と賞され、非常によく治まっていて、殷の紂王が「好酒淫楽」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958958 史記巻三殷本紀第三(当該デジタルコレクションのコマ56))とか「厚賦税以実鹿臺之銭」(出典同じ)等、己の快楽のためにやりたい放題しているのをぼろくそ書かれているのと大違いです。
で、魏はというと、こちらも管見の限りぼろくそ書かれている件は見当たりませんでした。
そうすると、孫権が皇帝を名乗っても、中国の人々が靡くとは到底思えません。
しかも皇帝=天子は中国に一人なので、これは魏、蜀どちらに対しても反逆(少なくとも分断国家)を宣言したのと同じなので、両側から攻められる恐れがあります。或いは呉、蜀の関係がこじれ、そこを魏に攻められる恐れもあります。魏が呉を攻める大義名分としては帝位を勝手に名乗った逆賊内乱罪と言ったところでしょう。
「王」であれば魏か蜀のどちらかに臣従し、呉の地域の統治を安堵してもらうという体裁が整いますから、確実にどちらかの庇護は受けられます。
以上総合すると、孫権が皇帝を名乗ることは有害無益でしかないでしょう。
孫権は何故この時期に皇帝を名乗ったのでしょう。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月17日 19時31分
エピソード242
ご質問ありがとうございます。
孫権が皇帝を名乗ったのはまあ本人の性格もあるでしょうが、蜀と魏が戦っている中で、どちらも皇帝がいる状態の中、自分だけが皇帝と称していないことにより、対等の外交を展開することができないのではないかという考え方や
両国がばちばちにやりあっている中、自分が皇帝になっても蜀は呉との同盟を解消しようとはしないだろうし、魏は批難はしても蜀から攻撃を受けており、いきなり大規模に呉へ侵攻しないだろうという打算もあって称したのではないでしょうか。また、天下を争うという意思を皇帝になることで称していないと、呉の国家方針がよくわからないものになってしまうというのもある気がします。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
孫権が皇帝を名乗ったのはまあ本人の性格もあるでしょうが、蜀と魏が戦っている中で、どちらも皇帝がいる状態の中、自分だけが皇帝と称していないことにより、対等の外交を展開することができないのではないかという考え方や
両国がばちばちにやりあっている中、自分が皇帝になっても蜀は呉との同盟を解消しようとはしないだろうし、魏は批難はしても蜀から攻撃を受けており、いきなり大規模に呉へ侵攻しないだろうという打算もあって称したのではないでしょうか。また、天下を争うという意思を皇帝になることで称していないと、呉の国家方針がよくわからないものになってしまうというのもある気がします。
今後もご感想、ご質問お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月18日 22時45分
[一言]
孫権が曹操と戦う道を選んだ理由が判らないですね。孫権にすれば江南一帯の統治権さえ確保できれば劉備と曹操どちらが天下を取っても良い訳で、そうすると、ここでの最善策は同地の統治権保証を条件に曹操と同盟し、劉備と戦うことですよね。何しろどっちが勝っても孫権にとって得られる結果は同じなのだから、勝ちそうな方、つまり勢いがあって勢力も大きい曹操に付くのが得策と考えるのが尋常でしょう。
それなのに孫権は劉備と組んで曹操と戦ったというのが私には理解できません。
この点、如何にお考えでしょうか
孫権が曹操と戦う道を選んだ理由が判らないですね。孫権にすれば江南一帯の統治権さえ確保できれば劉備と曹操どちらが天下を取っても良い訳で、そうすると、ここでの最善策は同地の統治権保証を条件に曹操と同盟し、劉備と戦うことですよね。何しろどっちが勝っても孫権にとって得られる結果は同じなのだから、勝ちそうな方、つまり勢いがあって勢力も大きい曹操に付くのが得策と考えるのが尋常でしょう。
それなのに孫権は劉備と組んで曹操と戦ったというのが私には理解できません。
この点、如何にお考えでしょうか
- 投稿者: 山城守
- 2021年 10月15日 12時59分
エピソード164
ご感想ありがとうございます。
孫権が孫劉同盟を持って曹操と対抗しようと考えた要因は色々とあるかと思いますが、江南一帯の統治権を確保できていればいいと孫権が考えていたかと言われると違うとは思います。
先ずは彼は若くして勢力を率いる立場になって自信がついてきている頃であり、プライドも高い人なので曹操の屈するのは良しとはしていなかったでしょう。また、父・孫堅の代から孫家は漢王朝への忠誠も掲げていたので、当時、漢王朝を専制している曹操に降るって判断をしたくないという思いもあったかもしれません。
孫権は多くの癖のある人材を上手く活用しながら駆け引きを行っていく人というイメージが強いですが、この頃は若さ故の血気盛んさのが強いという印象を持っています。そしてその血気盛んさが、魯粛の抗戦論に共感したのでしょう。また、荊州の劉琮の早々の降伏を見ているのもあるかもしれません。彼の速すぎる降伏に孫権としてはああはなるまいという思いもあったかもしれませんね。
孫権自身の性格とは別に、魯粛の存在は大きいです。彼は曹操と戦う路線を打ち出し、天下二分の計といった絵図を説明できるほどの戦略を描け、その彼の抗戦論は孫権のプライドと若さ故の血気盛んさを刺激しました。また、彼のもし曹操に降伏すれば、自分たち臣下は今よりも高い地位にはいけても、孫権は今の地位以上にいけるだろうかという降伏によるデメリットを指摘しているのも大きいでしょうね。
もしも孫権が降伏したとして、江南の統治権を認めたとしてもそれが果たしていつまでなのか。天下統一を曹操が果たした場合、統治権を取り上げにかかる可能性が高いでしょう。そうなった際に反旗を翻したら果たして勝算があるのかという部分もあるでしょう。
次に劉備と組んでの部分は魯粛の意見の他には諸葛亮が孫権を徹底的に煽っております。自分たちは小さな勢力でありながら曹操とは徹底的に戦うという意思表示にプライドの高い孫権は負けてなるものかという意思が強かったでしょう。
ここまで孫権の意思と魯粛の意見が大きなものであると説明してきましたが、孫権と言えども無視できない存在がいます。周瑜です。
軍事における最高責任者というべき周瑜が弱気であれば、戦うなどできません。その周瑜が強気であるというのも大きな要因でしょう。周瑜は地の利で勝負できるという意思を示しており、兵力の差に関しての問題をそこで覆すことができると堂々と示したことが大きかったでしょう。また、劉備との同盟という形を見せることで、独力で戦うわけではないというアピールもしてますしね。まあ赤壁の戦いはほぼ孫権陣営の独力での勝負でしたけどね。
現場で戦える周瑜、その後の戦略の絵を示せる魯粛の後押しによって孫権は戦えると判断して戦ったのでしょう。そこで勝ったことにより、孫権はまずます自信をつけることができました。ここから天下統一の野心が強まったのでしょう。
まあここから劉備陣営の立ち回りによって出し抜かれることになったが故に天下三分になるんですけどね。
孫権は曹操と戦う判断を下したのはやはり降伏した後のこと、若さ故の血気盛んさ、軍事の責任者たちがやる気であったこと、そう言った部分があって、勝負に出たのだと思います。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
孫権が孫劉同盟を持って曹操と対抗しようと考えた要因は色々とあるかと思いますが、江南一帯の統治権を確保できていればいいと孫権が考えていたかと言われると違うとは思います。
先ずは彼は若くして勢力を率いる立場になって自信がついてきている頃であり、プライドも高い人なので曹操の屈するのは良しとはしていなかったでしょう。また、父・孫堅の代から孫家は漢王朝への忠誠も掲げていたので、当時、漢王朝を専制している曹操に降るって判断をしたくないという思いもあったかもしれません。
孫権は多くの癖のある人材を上手く活用しながら駆け引きを行っていく人というイメージが強いですが、この頃は若さ故の血気盛んさのが強いという印象を持っています。そしてその血気盛んさが、魯粛の抗戦論に共感したのでしょう。また、荊州の劉琮の早々の降伏を見ているのもあるかもしれません。彼の速すぎる降伏に孫権としてはああはなるまいという思いもあったかもしれませんね。
孫権自身の性格とは別に、魯粛の存在は大きいです。彼は曹操と戦う路線を打ち出し、天下二分の計といった絵図を説明できるほどの戦略を描け、その彼の抗戦論は孫権のプライドと若さ故の血気盛んさを刺激しました。また、彼のもし曹操に降伏すれば、自分たち臣下は今よりも高い地位にはいけても、孫権は今の地位以上にいけるだろうかという降伏によるデメリットを指摘しているのも大きいでしょうね。
もしも孫権が降伏したとして、江南の統治権を認めたとしてもそれが果たしていつまでなのか。天下統一を曹操が果たした場合、統治権を取り上げにかかる可能性が高いでしょう。そうなった際に反旗を翻したら果たして勝算があるのかという部分もあるでしょう。
次に劉備と組んでの部分は魯粛の意見の他には諸葛亮が孫権を徹底的に煽っております。自分たちは小さな勢力でありながら曹操とは徹底的に戦うという意思表示にプライドの高い孫権は負けてなるものかという意思が強かったでしょう。
ここまで孫権の意思と魯粛の意見が大きなものであると説明してきましたが、孫権と言えども無視できない存在がいます。周瑜です。
軍事における最高責任者というべき周瑜が弱気であれば、戦うなどできません。その周瑜が強気であるというのも大きな要因でしょう。周瑜は地の利で勝負できるという意思を示しており、兵力の差に関しての問題をそこで覆すことができると堂々と示したことが大きかったでしょう。また、劉備との同盟という形を見せることで、独力で戦うわけではないというアピールもしてますしね。まあ赤壁の戦いはほぼ孫権陣営の独力での勝負でしたけどね。
現場で戦える周瑜、その後の戦略の絵を示せる魯粛の後押しによって孫権は戦えると判断して戦ったのでしょう。そこで勝ったことにより、孫権はまずます自信をつけることができました。ここから天下統一の野心が強まったのでしょう。
まあここから劉備陣営の立ち回りによって出し抜かれることになったが故に天下三分になるんですけどね。
孫権は曹操と戦う判断を下したのはやはり降伏した後のこと、若さ故の血気盛んさ、軍事の責任者たちがやる気であったこと、そう言った部分があって、勝負に出たのだと思います。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 10月15日 23時10分
[一言]
「謖、違亮節度、舉動失宜」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)と馬謖が諸葛亮の命令に違反したことは三国志に書かれていますが、横山光輝版みたいな「山登りするな」というのは書いていませんね。
そこで、「山登りするな」という命令が有った前提で話を進めると凡そこういうことになりますね。
諸葛亮孔明は馬謖に対し魏軍が隴西方面に抜けるのを防ぐよう命じる際、次のように厳命した。「良いか。現地では絶対山に登るなよ。」と。すると馬謖は「畏れながら、『孫子』「地形篇」だと「險形者、我先居之、必居高陽以待敵」と、高所に拠る有利さを強調しています。高所の有利を捨てよとは如何なる故でございましょう。」と反問した。孔明は「あの界隈の山には水源がないからだ。人間は水が無ければ3日ともたず行動不能に陥る。魏軍が麓の水源を押さえにかかったら一巻の終わりだ。だから絶対に山上に陣を張るな。」と答えた。
かくして馬謖は軍を率いて街亭に至り、王平の進言も先刻の孔明の命令も無視して山上に陣を張り、結果水源を絶たれ惨敗した。
…
無茶苦茶ですね。
横山三国志に代表される「孔明が馬謖に登山禁止令を出した説」だと最早馬謖がわざと敗れたとしか思えないストーリーになってしまいます。まあ、王平の忠告聞かなかったという正史の記述もとどのつまり王平に「この山水出ませんよ。水源絶たれたら3日で将兵は戦闘不能になります。」と言われたのに馬謖がそれを無視して登山を強行したことになり(「謖、舍水上山、舉措煩擾。平、連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/43_kouri.html 三國志卷四十三/蜀書十三/黃李呂馬王張傳第十三)、馬謖が常識では測れない程の愚か者ということになってしまいますよね。
この辺の真相がどうも私には判然としないんですよね。
同じことは石亭での曹休にも言えますね。
常識的に考えれば賈逵に助けてもらったのだから「救援ご苦労」の一言を発するはずで、皇族で大司馬にもなって「全部賈逵が悪いんだ。」等と己を救援してくれた人間を讒謗すれば朝廷でどんな目で見られるかくらい想像できるのにそういう想像ができないという不可解なことをしていますね。
こういうのは心理学者の格好の研究材料になるんですかね。
馬謖と言い、曹休と言い、行動が不可解です。
「謖、違亮節度、舉動失宜」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html 三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五)と馬謖が諸葛亮の命令に違反したことは三国志に書かれていますが、横山光輝版みたいな「山登りするな」というのは書いていませんね。
そこで、「山登りするな」という命令が有った前提で話を進めると凡そこういうことになりますね。
諸葛亮孔明は馬謖に対し魏軍が隴西方面に抜けるのを防ぐよう命じる際、次のように厳命した。「良いか。現地では絶対山に登るなよ。」と。すると馬謖は「畏れながら、『孫子』「地形篇」だと「險形者、我先居之、必居高陽以待敵」と、高所に拠る有利さを強調しています。高所の有利を捨てよとは如何なる故でございましょう。」と反問した。孔明は「あの界隈の山には水源がないからだ。人間は水が無ければ3日ともたず行動不能に陥る。魏軍が麓の水源を押さえにかかったら一巻の終わりだ。だから絶対に山上に陣を張るな。」と答えた。
かくして馬謖は軍を率いて街亭に至り、王平の進言も先刻の孔明の命令も無視して山上に陣を張り、結果水源を絶たれ惨敗した。
…
無茶苦茶ですね。
横山三国志に代表される「孔明が馬謖に登山禁止令を出した説」だと最早馬謖がわざと敗れたとしか思えないストーリーになってしまいます。まあ、王平の忠告聞かなかったという正史の記述もとどのつまり王平に「この山水出ませんよ。水源絶たれたら3日で将兵は戦闘不能になります。」と言われたのに馬謖がそれを無視して登山を強行したことになり(「謖、舍水上山、舉措煩擾。平、連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/43_kouri.html 三國志卷四十三/蜀書十三/黃李呂馬王張傳第十三)、馬謖が常識では測れない程の愚か者ということになってしまいますよね。
この辺の真相がどうも私には判然としないんですよね。
同じことは石亭での曹休にも言えますね。
常識的に考えれば賈逵に助けてもらったのだから「救援ご苦労」の一言を発するはずで、皇族で大司馬にもなって「全部賈逵が悪いんだ。」等と己を救援してくれた人間を讒謗すれば朝廷でどんな目で見られるかくらい想像できるのにそういう想像ができないという不可解なことをしていますね。
こういうのは心理学者の格好の研究材料になるんですかね。
馬謖と言い、曹休と言い、行動が不可解です。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 09月10日 15時00分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
人は理屈に当てはまらない行動をすることもあるということなのかもしれませんね。
今後もご感想お待ちしております。
人は理屈に当てはまらない行動をすることもあるということなのかもしれませんね。
今後もご感想お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 09月10日 23時43分
[一言]
曹叡が曹休を不問にしたのは不味かったですな。
戦敗の責任については「勝敗は兵家の常」で情報戦で相手が一枚上手だったということで無罪ですが、「賈逵と東與で合流して進撃せよ。」と勅命を受けたのに(原文「詔宣王駐軍、逵東與休合進。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/15_ryushiba.html 三國志卷十五/魏書十五/劉司馬梁張溫賈傳第十五)それを無視して単独で進撃したのは命令違反だし、その結果多くの将兵の命を失わせたのだからその罪はきちんと裁くべきです。また、救援にきた賈逵への讒謗ですが、一度目なら弾劾上奏する権利の行使ということで一応正当化できますが、これが何度もとなると、これは権利濫用であり、これもきちんと処断すべきでした。
賞罰を明確にすることは専制君主の重大な責務の一つですが、本件でそれを曹叡は怠っており、誉められたものではありません。
ところで、私が正史を読んだ限りでは賈逵が石亭の戦いでの曹休救援に関して魏から恩賞を受けたという記載を見つけられないのですが、これはどういうことでしょう。
皇族を救援したのだから賈逵には曹叡から感謝され爵位の昇級なり上級官職への任命なり特別賞与なり勲章の授与があってしかるべきだと思います。
曹叡が曹休を不問にしたのは不味かったですな。
戦敗の責任については「勝敗は兵家の常」で情報戦で相手が一枚上手だったということで無罪ですが、「賈逵と東與で合流して進撃せよ。」と勅命を受けたのに(原文「詔宣王駐軍、逵東與休合進。」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/15_ryushiba.html 三國志卷十五/魏書十五/劉司馬梁張溫賈傳第十五)それを無視して単独で進撃したのは命令違反だし、その結果多くの将兵の命を失わせたのだからその罪はきちんと裁くべきです。また、救援にきた賈逵への讒謗ですが、一度目なら弾劾上奏する権利の行使ということで一応正当化できますが、これが何度もとなると、これは権利濫用であり、これもきちんと処断すべきでした。
賞罰を明確にすることは専制君主の重大な責務の一つですが、本件でそれを曹叡は怠っており、誉められたものではありません。
ところで、私が正史を読んだ限りでは賈逵が石亭の戦いでの曹休救援に関して魏から恩賞を受けたという記載を見つけられないのですが、これはどういうことでしょう。
皇族を救援したのだから賈逵には曹叡から感謝され爵位の昇級なり上級官職への任命なり特別賞与なり勲章の授与があってしかるべきだと思います。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月29日 21時33分
エピソード240
ご感想ありがとうございます。
疑問点についてですが、曹休の顔を立てるためではないでしょうか。曹休があそこまで賈逵を批難している中、褒美を渡すというのは曹休の面目を潰しかねないので、褒美を出さなかったのではないでしょうか。曹休の批難を受けい入れないという形が褒美の代わりの認識もあったのかもしれません。まあ曹休の死後にできると思いますので、皇族優遇の部分は大きかったと思います。
今後もご感想お待ちしております。
疑問点についてですが、曹休の顔を立てるためではないでしょうか。曹休があそこまで賈逵を批難している中、褒美を渡すというのは曹休の面目を潰しかねないので、褒美を出さなかったのではないでしょうか。曹休の批難を受けい入れないという形が褒美の代わりの認識もあったのかもしれません。まあ曹休の死後にできると思いますので、皇族優遇の部分は大きかったと思います。
今後もご感想お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 08月29日 21時56分
[一言]
確かに馬謖が蜀を裏切ろうとしていたとしたら誰も庇い建てするはずないですよね。
ということは、馬謖配下の将校が調略を受けたというのが妥当なんですかね。
「馬謖閣下、この山の反対側斜面に、ちょっと掘れば出現する地下水脈があります。」と馬謖配下の将校が進言する。馬謖は「おう、そうか。確か貴官はこの界隈出身だったな。敵は恐らく山に陣を張った我らを見て水源を絶とうとするだろう。だが、奴らにこの隠れた水源は判るまい。王平は5000人の兵で街道遮断。残るは全員山の上へ。魏軍が水源絶つまでは山を下りて水汲みするんだぞ。そしたら奴ら、山に水源がないと思うだろう。そして、脱水が起こる4日目くらいに攻撃を仕掛けるだろう。もし山の上に攻撃を仕掛けてきたら上から矢玉で殲滅、もし王平に攻撃を仕掛けたら一気に山を下りて敵の背後を急襲する。」かくして、街亭近辺出身の将校(敵の調略済み)をすっかり信じた馬謖は兵士に食料、鶴嘴、スコップを持たせ、意気揚々と山登りを始めた。だが、水源等最初からないので、結果は見るも無残な敗戦だった。
これなら山登りの理由も説明できそうです。
確かに馬謖が蜀を裏切ろうとしていたとしたら誰も庇い建てするはずないですよね。
ということは、馬謖配下の将校が調略を受けたというのが妥当なんですかね。
「馬謖閣下、この山の反対側斜面に、ちょっと掘れば出現する地下水脈があります。」と馬謖配下の将校が進言する。馬謖は「おう、そうか。確か貴官はこの界隈出身だったな。敵は恐らく山に陣を張った我らを見て水源を絶とうとするだろう。だが、奴らにこの隠れた水源は判るまい。王平は5000人の兵で街道遮断。残るは全員山の上へ。魏軍が水源絶つまでは山を下りて水汲みするんだぞ。そしたら奴ら、山に水源がないと思うだろう。そして、脱水が起こる4日目くらいに攻撃を仕掛けるだろう。もし山の上に攻撃を仕掛けてきたら上から矢玉で殲滅、もし王平に攻撃を仕掛けたら一気に山を下りて敵の背後を急襲する。」かくして、街亭近辺出身の将校(敵の調略済み)をすっかり信じた馬謖は兵士に食料、鶴嘴、スコップを持たせ、意気揚々と山登りを始めた。だが、水源等最初からないので、結果は見るも無残な敗戦だった。
これなら山登りの理由も説明できそうです。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月17日 10時28分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
馬謖の配下が調略を受けていたと仮定すると次に問題になるのはどのタイミングで魏がその調略を行っていたのかという話になるのですが、正直、魏は蜀の侵攻にびっくりしている部分のが強く、どちらかと言えば後手側なんですよね。その魏軍が話して調略をすぐさま行えるのかということに疑問を覚えます。馬謖が街亭に派遣された段階では蜀側のが勢いがあるので、このタイミングで調略を仕掛けられてそれに乗るのかという疑問もあります。そうなるともっと前からという話になるのですが、それも首を傾げたくなるので、この配下が調略を受けていたというのは現実的ではあるものの、実際にそうだとは言えないんですよね。
個人的には街亭の戦いの重要性は馬謖の突っ込みどころの大きい判断によってもたらされた大きすぎる被害によってもたらされた歴史への影響力と馬謖に対して諸葛亮が下した処罰への当時の人々の考え、後世の者のそれに対しての批評が残っていることのが興味深いですね。
今後もご感想お待ちしております。
馬謖の配下が調略を受けていたと仮定すると次に問題になるのはどのタイミングで魏がその調略を行っていたのかという話になるのですが、正直、魏は蜀の侵攻にびっくりしている部分のが強く、どちらかと言えば後手側なんですよね。その魏軍が話して調略をすぐさま行えるのかということに疑問を覚えます。馬謖が街亭に派遣された段階では蜀側のが勢いがあるので、このタイミングで調略を仕掛けられてそれに乗るのかという疑問もあります。そうなるともっと前からという話になるのですが、それも首を傾げたくなるので、この配下が調略を受けていたというのは現実的ではあるものの、実際にそうだとは言えないんですよね。
個人的には街亭の戦いの重要性は馬謖の突っ込みどころの大きい判断によってもたらされた大きすぎる被害によってもたらされた歴史への影響力と馬謖に対して諸葛亮が下した処罰への当時の人々の考え、後世の者のそれに対しての批評が残っていることのが興味深いですね。
今後もご感想お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 08月17日 21時13分
[一言]
こういうのはどうですかね。馬謖は街亭付近に到着した魏軍の調略を受け、内通する気満々だった。だからわざと負けるように水源が無い山の上に陣を張った。そして、水不足に兵が苦しみだしたころ、魏軍へ投降したが、「お前は孔明に散々可愛がられていながら簡単に蜀を裏切ろうとしている。そのような人間を我々が信じると思うか。命が惜しくばとっとと失せろ。」と魏軍に言われ、すたこら逃走し、後に蜀に捕まって斬首された。
孔明が「泣いて馬謖を斬った」のは信頼していた馬謖が自分を裏切ろうとしていたことから己の眼力を恥じたからであり、また丞相を降任してほしいと願ったのも簡単に裏切るような人間を信用してしまったという丞相職に必要な人を見る目に欠けるところがあると思ったからである。
というのはどうでしょう。
そうでないと、わざわざ危険を冒して水源を放棄して山上に陣を張る軍事上の理由を見出せないように思えます。
こういうのはどうですかね。馬謖は街亭付近に到着した魏軍の調略を受け、内通する気満々だった。だからわざと負けるように水源が無い山の上に陣を張った。そして、水不足に兵が苦しみだしたころ、魏軍へ投降したが、「お前は孔明に散々可愛がられていながら簡単に蜀を裏切ろうとしている。そのような人間を我々が信じると思うか。命が惜しくばとっとと失せろ。」と魏軍に言われ、すたこら逃走し、後に蜀に捕まって斬首された。
孔明が「泣いて馬謖を斬った」のは信頼していた馬謖が自分を裏切ろうとしていたことから己の眼力を恥じたからであり、また丞相を降任してほしいと願ったのも簡単に裏切るような人間を信用してしまったという丞相職に必要な人を見る目に欠けるところがあると思ったからである。
というのはどうでしょう。
そうでないと、わざわざ危険を冒して水源を放棄して山上に陣を張る軍事上の理由を見出せないように思えます。
- 投稿者: 山城守
- 2021年 08月15日 17時41分
エピソード238
ご感想ありがとうございます。
それは流石に無いと思います。馬謖は街亭での敗戦の後、真っすぐ諸葛亮へ謝罪しに行かずに向朗のところに逃げ込むようなだらしないところのある人物ではありますが、魏軍の調略に乗るような人では無いと思います。もしそのような事実があるのであれば、諸葛亮は処罰するまでにあそこまで悩まなかったでしょうし、向朗が馬謖を見逃そうとしたり、蒋琬が処罰に待ったをかけたり、馬謖の寵愛を擁護されたり、彼への処罰を後世で批難されるようなことはなかったと思います。
もしそのような事実があるとすれば、馬謖ではなく、その配下が調略を受けており、山上で陣を張ることを提案し、させたというものはあるかもしれませんね。事実、馬謖の下にいた者たちは王平以外ほとんど処罰されてますからね。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
それは流石に無いと思います。馬謖は街亭での敗戦の後、真っすぐ諸葛亮へ謝罪しに行かずに向朗のところに逃げ込むようなだらしないところのある人物ではありますが、魏軍の調略に乗るような人では無いと思います。もしそのような事実があるのであれば、諸葛亮は処罰するまでにあそこまで悩まなかったでしょうし、向朗が馬謖を見逃そうとしたり、蒋琬が処罰に待ったをかけたり、馬謖の寵愛を擁護されたり、彼への処罰を後世で批難されるようなことはなかったと思います。
もしそのような事実があるとすれば、馬謖ではなく、その配下が調略を受けており、山上で陣を張ることを提案し、させたというものはあるかもしれませんね。事実、馬謖の下にいた者たちは王平以外ほとんど処罰されてますからね。
今後もご感想、ご指摘お待ちしております。
- 大田牛二
- 2021年 08月15日 20時04分
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