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[一言]
更新お疲れ様です。
夏侯玄は失うのが惜しいくらいの優秀な人材だった。
もし、夏侯覇が亡命を誘ったが、亡命しなかった。
魏への義があったからだろうけど、もし蜀へ亡命していたら、大変なことになっていた。
蜀の滅亡が少し先延ばしになっていたぐらいか。

諸葛亮、姜維がぼやく嘆きの声が聞こえてきそうなくらいの魏の人材の豊富さ。
ついに王経、鍾会の名が出てきた。
郭淮や徐質を失っても代わりになる将が出てくる。
一軍クラスで使える将が。




感想、ありがとうございます。

歴史のifを思い浮かべる時は、どうしても良くなった場合のみを想像して
しまいます。
もし夏侯玄が蜀に亡命していれば、確実に丞相クラスの能力です。
人望もありましたので、何色にも染まる劉禅に対する影響力も申し分無く、
立派な名君が出来上がっていた可能性は十分にありました。
そうならなかったけど。

魏の人材の豊かさは曹操時代に、
『とりあえず一芸でも秀でていたら採用』
と言う無茶な方針を司馬懿が受け継ぎ、浸透させた事が大きいでしょう。
もし王経が蜀の家臣であれば太守どころか復職も出来ていないでしょうし、
もし李厳が魏の家臣であれば復職どことか要職についていたはずです。

採用基準が厳しかった蜀ですが、もし孔明先生が魏延と楊儀を使いこなせていれば、もう少し採用基準が緩くなって人材不足も多少緩和されていたかもしれません。

より悪くなっていた可能性も否定出来ませんが。
[一言]
更新お疲れ様です。
連弩ですか。
諸葛亮が今際の際に姜維に託した遺品。
一度に十本の矢が飛来し、鏃には毒が塗ってある。
極めて危険な武器。
張郃は確か実験台にされて、あの世行きに

ついに費禕が退場。
陳豨が後釜に座るが、寄生虫がのさばり、評価が低い。
蜀は姜維の双肩にかかってくる。


感想、ありがとうございます。

連射出来て、貫通力があって、命中精度も高かったらしい連弩。
このインチキ性能は、日本の戦国時代でいえば火縄銃の中に
アサルトライフルを持ち込むくらいのトンデモ兵器だったはず。
何故か魏や呉が使った様な記述の無さから、おそらくは蜀の専売特許だった
と思われます。
さすがの名将も形無しだったでしょう。
張郃、可哀想。

費禕の件はもう少し詳しくやりたかったのですが、その事よりその後の方が
大事ですのでサラッと流しました。
軍事においては天才である姜維がいたからともかく、
政治においてそのクラスの人が枯渇していた事が蜀にとって
詰み筋に乗ってしまったと言えます。

ここで分業が出来ていれば、蜀はまだ戦えたでしょう。
[一言]
更新お疲れ様です。
仕事が忙しいため、来れなかった。
陳泰、本当にあの両親からどうやって、類稀な武才を持って生まれたのかわからん。
劉備がきちんと陳羣を手離してなければ、こうはならなかった筈。

誰だったか、陳羣と陳泰父子がいれば国家は安泰だと言っていたな
仕事でお忙しい中、感想ありがとうございます。

THE・文官とも言うべき血筋でありながら破格の武才を持って生まれ、しかも人格者だった陳泰は、羊祜の前の完璧超人とも言えるでしょう。
本当にどんな隔世遺伝なのか謎です。

ただ、劉備が父親を抑えていた場合、母親が変わってくるのでこんな完璧超人になれたかは分かりませんが、蜀の面々を見る限りでは姜維クラスの武将になっていた可能性は否定出来ません。

ただ、蜀は二世が弱いイメージなので……。
[一言]
更新お疲れ様です。
張翼ですか、戦歴が凄まじく、老齢ながら蜀が滅びるまで生きた名将です。
蜀滅亡後の姜維と鍾会の反乱時に巻き込まれて亡くなった。
ただ本人は武官より文官になりたかったようです。
子孫が文官として晋に仕えたようで、張翼の夢を叶えた
両方の能力を兼ね備えてるのは間違いない。
魏で言えば、楽進や陳泰、呂虔のような感じでしょうか
感想、ありがとうございます。

色々と調べていると、羅貫中先生は自身が主人公と定めた
劉備とか孔明先生の死後、割と雑になってる気がします。
私が参考文献にしている李舜臣先生や横山光輝先生なんかは
ダイジェスト版なので、張翼の様なポジションの武将は可哀想です。
羅憲とか出てこないし。

私も張翼は楽進が近いと考えてます。あるいは李典かな?
けど、演義での扱いはこんな感じ。

良い武将なのに。
[一言]
更新お疲れ様です。
魏の人材の豊富さは曹操以来の伝統。
二世武将の司馬師、司馬昭をはじめ、陳騫、陳泰、鍾会に、無名だが、司馬懿に見出された鄧艾をはじめ王経、石包といった人材がいい具合に合わさっているため、なかなかの陣容。
世代交代まで上手くいっているため、司馬懿が亡くなっても、それなりの人材がいた。
蜀の場合は諸葛亮が亡くなり、蒋琬、董允、費禕、姜維が後を受けたが、蒋琬や董允が亡くなり、彼らに代わる人材が乏しく、内政、軍事共に慢性的な人材不足。
世代交代すらもままならない状態。
呉は人材はそれなりにいたが、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜、諸葛恪と軍事面の代表者の系譜が孫権の老醜により呂壱事件、二宮事件などで優秀な人材を減らした。
諸葛恪の暴走後失脚し、孫峻や孫綝といった外戚の専横後、改元魔の悪政。改元魔の暴走を抑えながら丁奉や陸抗が頑張っていたが亡くなった。
改元魔の本性を見極められなかった張布や万彧、濮陽興などそれなりの人材はいたのだが、改元魔の巧みな芝居に騙され、即位後始末されるなど人材不足に陥ってしまった






感想、ありがとうございます。

病的な人材マニアの曹操が新しい人材登用システムである『求賢令』を作り上げたので、魏には尋常じゃないくらいの人材が集まりました。
でも、蜀や呉は後漢の採用システムのまま。特に蜀は諸葛亮先生のおメガネにかなわないといけないので、非常に優秀な人物がごくわずかに採用されるにとどまって、結果として深刻な人材不足に。
叩き上げの魏延の末路が蜀の限界だったのかも。
今回大活躍だった徐質などは、蜀ではどれほど優秀であったとしても出世は見込めなかったでしょう。
また、石苞はともかく、鄧艾は蜀ではどれほど優秀であったとしても出世する事な無かったかもしれません。

そう考えると、司馬懿と言う異才はやはり諸葛亮に匹敵する人物だったと言う事がわかります。
もう出てきませんけど。
[一言]
更新お疲れ様です。
馬謖の評価、敵として戦った張郃はこけおどしという評価。
ただ、街亭の戦いは諸葛亮の人選ミス。
魏延か呉懿(壱)でよかった。
ただ魏延は子午谷から長安を襲う策を退けられた不満を持ちつつ、北伐に参加、最後は粛正された。
呉懿は地味で、与えられた命令を着実にこなす人物。
街亭を守りきる力はあったが、妹が劉備の妃になったことから外戚として辣腕を奮うのではという孔明の不安があったため、派遣できなかった。
呉懿にはそんな気は全くなかったと思う。
呉懿は孔明亡き後、漢中を守ったが、三年後に亡くなった。

司馬昭の性格をきちんと把握していれば、鄧艾は蜀を滅ぼしたら、在野に降るべきだった。
韓信や白起の末路を考えたらね。
范蠡の生き方をしていれば、さらに長生きできた
感想、ありがとうございます。

街亭に関しては諸葛亮の北伐でイケイケ状態なところだったので、
攻めのコマだった最適人事だったはずの魏延、趙雲が使えなかったのが痛かったのかも知れません。
また、正史にも演義にも書かれていませんが、新人後継者候補姜維のプレッシャーがキツかったのでは無かったのかと私は思っています。
また、諸葛亮も馬謖を後継者とみなしていたので泊をつけさせたかったと言う欲もあったのではないでしょうか。

それらが悪い方に噛み合ったところを司馬懿にしてやられたと思われます。
さすがに皇帝の外戚である呉懿を危険なところにやれなかったのもあるでしょう。

鄧艾は蜀を滅ぼした時に正史では七十を超えていたとありますので、在野に降れば天寿を全う出来たでしょう。
ただ、その場合は子孫達が晋で取り立てられる事も無かったかもしれません。
[一言]
更新お疲れ様です。
胡奮ですか。
当初は武勇に優れてましたが、晩年近くになると学問に傾注。
司馬氏を支えた。
娘が司馬炎の目にとまり、外戚になったが、外戚になることに不安を感じた晩年だった。

徐質ですか、姜維の北伐時には張嶷を討ち取る功績を立てたが、張嶷の部下の猛攻を受けて、戦死。

演義では姜維の計略にかかり、姜維の槍を乗馬に受け、落馬。
蜀の兵に滅多斬りにされて、あの世行き。
あのまま、野放しにしていたら、姜維も危険を感じたのだろう。
張郃や王双と同じ匂いを感じたのは確か。
しかし、姜維と夏侯覇が攻めてくるのはやはり、危険だわ。
雍州の地理をよく知る存在に諸葛亮の用兵学を受け継ぐ存在、生半可な武将では抑えられない。
諸葛亮よりも厄介かもしれない

感想、ありがとうございます。

権力至上主義の時代の中で、絶対の権力を持つ皇帝の外戚になった事を嘆くと言う、珍しいリアクションを見せた胡奮。
そのエピソードのインパクトで、太っちょになりました。

徐質はそこまで情報が無いのですが、私が参考文献とさせていただいている
「中国劇画三国志」を元に猛将として書いています。
実際にも相当な猛将だったと思われますが、何分情報が少なすぎて。

地元の情報を持ち、諸葛亮直伝の兵法と卓越した戦術眼を持つ姜維と、魏の情報をまるっと持っている夏侯覇は危険極まりない存在だったはず。
諸葛亮&魏延が先代、姜維&夏侯覇が二代目で、危険度はほぼ同等レベルだったのではないでしょうか。

ちなみに正史では二五四年の戦いなのですが、この物語の中では二五三年の出来事になってます。
なので、姜維はまだ大将軍ではありません。
[一言]
更新お疲れ様です。
諸葛恪があの戦いの敗退で謙虚になれば、長生きできた可能性はあった。
伯父と同じように自ら丞相職を辞して降格していればの話だが。

魏に関しては毌丘倹が今までの戦歴の中で最も苦しい戦いは経験したことはなかったとか。
疫病に戦闘に城壁がボロボロ。
負けてもおかしくなかった状況だった。
状況が状況だけに手段を選んでられなかったのは確かだった

感想、ありがとうございます。

あんまり語られる事もイジられる事もありませんが、
本来の能力であれば諸葛恪は陸抗にも何ら劣るところは無かったはずなのです。
なので、伯父を真似る事が出来ればこの後の呉は随分と変わったでしょう。
けど、そうじゃないのが諸葛恪クオリティーなわけで。

合肥新城くらい苦戦して守った戦と言うのは、確かに『魏』になってからは無かったのではないでしょうか。
諸葛亮との戦いの時には割と守れてなかったですから。
曹操時代には『魏』では無かったので。
ただ、この奇策を用いた張特は責任重大だったはずです。
よくやりきったものだと思います。
[一言]
更新お疲れ様です。
いよいよ張特の奇計が炸裂するか。
張遼が李典や楽進らと大暴れした合肥と張特が奇計を案じた合肥新城。
少し離れたところにあるらしく、新しく作られたため、城壁の改修が完了してなかったとか。
危ない橋だったことには変わりはなかった。


感想、ありがとうございます。

本編の第五次合肥合戦を書いていて思うのは、
この戦は呉軍が早く戦を終わらせたかったと言う印象が強いです。

想像以上の苦戦と疫病は呉軍を相当苦しめていたのでしょう。
そこへ来て朱異から暴言を浴びせられ、本来極めて優秀だったはずの諸葛恪の視野を極端に狭めたと思われます。

もっとも、小城を少数で守る魏軍の強さがそれを呼び込んだ訳で。
張特もこれ以上無いタイミングで上手い事やって、諸葛恪に追い打ちをかける形になったのでしょう。

この戦は魏の良いところと、呉の悪いところが集約した戦だったみたいです。
[一言]
「あれは蜀の大将軍蒋琬の病によるもので、それを食軍の落ち度とするのはあまりに酷なのでは?」

 蜀軍が食軍に為ってますよ?


報告、ありがとうございます。
直しました。

何だか保健所から怒られたみたいな誤字になってました。
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