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[一言]
 主人公最強。
 真の主人公最強と言うのは、癖のある各方面の最強PTメンツをまとめ上げるマネージャーのような、最強のカリスマを持つ人かもしれないですね。
 個人の能力には限りが有りますので。

 くろねこ様、ご感想ありがとうございます。

 やはり「一人で最強」は面白くないですよね。
 統率力のあるカリスマ性が高くないと難しい。
 各方面で最強のメンバーは、クセが強そうですしね。
 くろねこ様、ご感想ありがとうございます。

 おっしゃるとおり、真の主人公最強は「最強のカリスマ」かもしれませんね。
 各方面で最強の人物はたいてい癖が強く、彼らがまとまるのはなかなか難しい。
「勇者」として腕っぷしが強いだけでなく、最強の人材を統率するカリスマは不可欠だと思います。
 となれば『THE IDOL M@STER』のプロデューサーさんは、実は「主人公最強」だったのか!? と思ってしまいました。あれだけ癖の強いメンバーからユニットを編成して売り出すなんて、よほどカリスマがないと無理ですよね。
[一言]
入れ替わりの物語は、何も魂まで入れ替わってしまうだけでなく、単純に立場の入れ替わりもありますよね? 
例えば、煌びやかな生活を送っているお姫様に憧れる平民の女の子と、自由気ままな生活を送っている平民を羨むお姫様。互いにちょっとした切っ掛けから知り合い、二人の顔立ちがそっくりなので入れ替わってみようとなります。
初めは互いに臨んだ生活を手に入れたと喜んでいますが、やがて絢爛豪華な生活の裏には厳しい躾けが、自由に見えた生活の裏には粗野で貧困が、と互いが本来の苦労を知る、というものです。
入れ替わりで重要なのは、お互いに知らなかった裏の事情が見えるようになるところでしょうか? そこからどう展開させるのかが作者の腕の見せどころなのかもしれませんね。
  • 投稿者: Last
  • 2020年 09月26日 21時16分
 Last様、ご感想ありがとうございます。

 おっしゃるとおり「入れ替わり」の物語は立場を対象とするものもありますね。
 アニメだとサンライズ『∀ガンダム』で、月の女王ディアナ・ソレルと地球の貴族の娘キエル・ハイムが入れ替わっていましたね。
 今回の「入れ替わり」もそうなのですが、物語篇は代表的な物語を挙げていくことで、それとはちょっと異なる物語を発想していただくために書いています。
 ですので「入れ替わり」で『君の名は。』のような魂の「入れ替わり」だけではなく、立場の「入れ替わり」に気づけたという点で、Last様の中の「物語の引き出しがひとつ開かれた」と解釈いただければと存じます。
「入れ替わり」は普段なら気づけなかったものを再発見するのが目的なので、『君の名は。』のように男女が入れ替わったり、貴族と農民が入れ替わったりと、立場の違いから解き放たれる面と縛られる面を双方味わうのがポイントであり、書き手の腕の見せどころですね。
[一言]
死亡と蘇生。

古来より人は生き返ることが好きなようです。

古代エジプトのファラオを代表として、古代日本の大王、中国の皇帝、世界中で死後、生き返ることを夢見ていましたね。

その為に古代エジプトではピラミッドという装置やミイラという無駄に高度な技術を開発しました。中国では今は失われたようですが清末まで高度な死体保存技術を継承していたようです。なんでも西太后の陵墓に盗みに入った墓泥棒は死後、十年以上経過しているにも関わらず彼女の遺体は生きているかのように瑞々しかったと目撃談を証言しているそうです。

現代でも共産主義者は指導者の遺体を冷凍保存するのがお好きなようです。レーニンもスターリン、毛沢東といった錚々たるメンバーが冷凍保存されています。ベトナムのホー・チミンは嫌がったそうですが故人の意思を無視して冷凍保存されています。

オカルト雑誌によるとクローン技術によってジーザスの如く、復活したいのではないかと推測されています。

正直、個人的には年齢を重ねて色々、ガタの来た体で復活して何が嬉しいのかと思いますが。

それでも流石に中国人は賢く指摘されるまでもなく、中国の唐代までの皇帝はコラムでも述べられているように死なない為に、不老不死を本気で求めていたようです。


死ぬか生き延びるか。

ハムレットの名言の一つ、「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」を彷彿させる問いかけです。

尤もハムレットの問いかけには「死んで復讐を諦め楽になるか、生きて復讐の道を突き進んで苦しむか。」という意味が込められているのですが。

ガンダムの宣伝キャッチコピーは「君は生き延びることができるか?」でしたね。
よく考えると子供向けのテレビ番組には相応しくなさそうです。


子供向けのテレビ番組は基本が「命を2つ持ってきた」ですからね。


バトル・ロイヤルは根本的に「何故、最後に生き残るのは一人でなくてはならないのか?」という問いに対して明確な答えが用意されていなければ題材にすべきではありませんね。でなければ最終的に「皆で協力して生き残る話」になって腰砕けになりますから。


バトル・ロイヤルは中国の秦を始めとした天下統一過程の史実を参考にすべきかもしれません。
他所の国なら降伏させて臣従させればそれで良しとするところを攻め滅ぼしてますからね。戦わずに降伏さえすれば血筋は残して貰えるようですが封土は奪います。そして昨日の友は今日の敵を最後まで地で逝ってますからね。大義名分がなければ「国境が隣接してるのが悪い」といったり「親子が別々に暮らすのは良くない」とか主張して攻めますからね。

流石は胸に七つの星の形にドラゴンボールを埋め込んでるのではないかという疑惑のある王大人の出身国です。「問答無用」という意味でも表現がワンパターンにならないように一工夫が見られます。

「魁 男塾」は色々凄い作品でした。一瞬信じそうになる民明書房の含蓄も凄かったですが一番すごかったのは続編で人間は極限まで鍛え上げれば宇宙服なし生身で真空で有害な放射線の飛び交う宇宙空間でさえ生存可能。そして気合で褌一丁で大気圏突入すらやってのけた所でしょうか。

 くろの介様、ご感想ありがとうございます。
 お返事が後れまして申し訳ございません。コラムでうんうんと頭を悩ませております。

 金日成氏や金正日氏ね冷凍保存されているとも言われていますよね。
 共産国は「復活」させたいのか権威づけをしたいのか。まぁ後者でしょうけど。

 バトル・ロイヤルは「最後の勝者はひとり」という前提がそもそもおかしいですよね。誰がこのルールを矯正しているのか。
 たとえば拉致されて闘技場に連れてこられて戦わされる。理不尽ですが「最後のひとり」になれば生還できる。でもそれだけの腕前が在るのなら、闘士全員が団結して反逆すればよい話でもありますからね。それをさせないために闘士はバラバラに隔離されているのでしょうけど。

『魁!!男塾』って意外とライトノベルのお手本になるのではないかと思っています。
 いかにもありえそうな設定(民明書房)で読み手を誘導して、いかにもありえそうにない展開(バトル)で戦い、負けたらうさんくさい人が「死亡確認」する。そして次の話では理由もないのに復活している。
 このくらいの荒唐無稽さがライトノベルには必要なのかもしれません。
 ノリだけで読ませるライトノベルって『魁!!男塾』を読んでいるようなものかもしれません。
[一言]
勇者設定。

それ自体が敗勢の決まって追い詰められている勢力による起死回生の秘策です。
そもそも勝っている側は勇者なんか必要としません。周囲からすれば、手柄を横取りする嫌な奴でしかなく不和の原因となり寧ろ邪魔です。

勇者は元々、劣勢側で、しかも発想はテロリズムで優勢な敵の大将首を獲る事で敗勢を挽回するという考え方です。


それ故に勇者チームの編成は必要最小限、斥候と補佐と支援のRPG編成に必然的に決まります。

前提が優勢な敵の勢力圏に浸透突破し、大将首の元に辿り着くことを目的としています。生還することを顧みない、本当の意味での片道切符の特攻隊ですから、大所帯で遠征なんかできません。

そして、リアルでもイスラム原理主義者を筆頭とするテロ組織ではテロの実行犯は勇者として崇め栄誉を与えます。そうしなければ誰もやりませんから当然ですね。

但し、優勢な敵の大将首を獲る事で戦局を挽回する手法は戦略的には状況によって評価が分かれる手法です。

歴史的な成功例は色々、推測されてはいますが表立って史実には登場しないようです。
実行した側も実行された側も世間の影響に配慮して公表は避けるようです。

失敗例としては秦始皇帝を狙った、荊軻という人物が挙げられます。普段、素性も定かではない人間と対面することのない始皇帝を裏切り者の将軍の首を手土産にすることで、ソーシャルディスタンスの距離にまで近付く事に成功して命を狙います。

その計画は失敗しましたが成功していれば秦は瓦解した可能性もありますね。但し、暗殺の実行者は勇者・英雄として廟が建てられた可能性もありますが多分、味方に謀殺されたでしょう。

暗殺には成功しても最終的には失敗した例としてはマケドニアのフィリッポス2世の暗殺が挙げられます。娘の結婚式の宴席で暗殺されましたがおそらく暗殺犯の背後には当時の社会情勢からペルシアの影があったのでしょう。フィリッポス2世はペルシア遠視を計画する、おそらくペルシアからはは危険人物の筆頭とした評価されていたでしょうから。しかしそのペルシアは彼の後継者としてとして登極した息子のアレクサンダー大王に滅ぼされてしまいます。

フィリッポス2世のままであればおそらくペルシアは滅ぼされなかったでしょう。ペルシア全土の領有化は当時のマケドニアの国力を大きく上回り、滅亡の原因にもなりかねません。現実主義者の彼は絶対に手をださないでしょう。

勇者とは少し異なりますがジャンヌ・ダルクも史実では有名ですね。
おそらく史実では最も勇者らしい勇者ではないでしょうか。
最後は助けた祖国フランスに裏切られイングランドに売り渡されそこで処刑されます。

彼女の例を見ると勇者とは戦後、粛清対象にすることが前提とした存在と考えた方が良さそうです。となるため寧ろ少数のほうが都合が良いのかもしれません。大勢だと粛清も手間ですし最悪、国が分裂しますから。
 くろの介様、ご感想ありがとうございます。

 確かに「勇者」は魔王軍に飲み込まれそうな王国が、一縷の望みを託す存在ではよね。
 それなら、徹底的に交戦を避けて敵本陣の大将までたどり着かなければなりません。
 経験値稼ぎしていれば、名前が知れ渡ってしまうような気がします。

 荊軻は燕の太子に命じられていましたね。うまく術中に陥れたのですが、最後の最後でバレてしまった。暗殺者として「歴史に名高い」のはよいことなのか悪いことなのか。

「勇者」を現実で考えると、自国以外はすべて敵ですから、「勇者」は人知れず動くしかない。
 しかし「剣と魔法のファンタジー」に限れば、世界中を支配しようとする魔王を倒すために組織されていますから、人間の国々ではその存在が知れ渡っており、魔王を倒す手伝いを買って出る国もあるでしょう。
 となればどこまで現実に寄せるか、「異世界ファンタジー」に寄せるか。
「異世界ファンタジー」の勇者は、現実ではありえない存在ですよね。
 唯一似ていると思うのが「十字軍」かな。キリスト教の聖地奪還を掲げて中東へ侵攻していく十字軍は、キリスト教国にとっては「勇者」ですし、対するイスラム教国の目の敵です。
 古式ゆかしい「勇者」はキリスト教信徒にとっての「十字軍」のような存在なのかもしれません。
[一言]
入れ替わりの物語。
「君の名は。」のような爽やかなモノより「遊星からの物体X」のような中身が別の存在に食い尽くされるかどうかは別として乗っ取られる系の物語の印象が強いです。感覚としてはおぞましいですかね。エピソードのネタとして「ダイの大冒険」に登場するミストバーンは乗っ取り、「ドラゴンボール」ではギニュー特戦隊のギニュー隊長が純粋な入れ替わりの技を使いましたね。
「デビルマン」は原作では乗っ取りに来たデーモンを逆に乗っ取るというパターンでした。

「インスマスの影」は自分を保ったまま何か別の存在に変化していくパターンでした。

日本人のクリエーターはあまり「おぞましい」という印象を与えるような作品は創作しませんが、欧米人は「おぞましさ」を前面に押し出すことが好きなようです。
民族性が助実に現れる分野なのかもしれませんね。
欧米人は臭いのが好きなのか何かと死体を動かすのも好きですしね。
逆に日本人は臭くない方、生き返らせる方が好きですし。
 くろの介様、ご感想ありがとうございます。

「入れ替わり」の物語はおっしゃるように、さまざまなパターンがありますよね。
 それこそ書き手の発想次第で、死者に乗り移って操ったり、生者に取り憑いて悪さをしたり。
 これらもじゅうぶん「入れ替わり」の物語に含まれるでしょう。

 日本では「死者への冒涜」という倫理観から、あまり「死者に乗り移る」作品は見かけませんね。
 一度死んでも蘇生できるような「蘇り」の物語が多いような気がします。
 ここまで書いて「蘇り」物語も多いなぁと気づいたので、コラムで一本書きたいと思います。

「入れ替わり」の物語は、他者への気遣いへ読み手の意識を誘導できるので、道徳としても有用なコンテンツだと思います。
 だから「君の名は。」は大ヒットしたのかもしれませんね。
[一言]
教師と生徒、師匠と弟子。
本来は一緒のモノだったのでしょう。

教育制度が充実すると教師にとって生徒とは一部を除いて1年毎に入れ替わる一過性の存在でしかありません。師匠と弟子の関係はどちらかが鬼籍にはいるか縁を切るまで一生涯に渡って続く親子兄弟の次に重たい関係というイメージが強いですね。

中国の文化はどうも師匠よりも優れた弟子は認めない。優れた弟子は長生きしたければある程度の所で師匠と縁切りする必要がある文化のようです。でないと外交の場どちらが上かを表現するのに父の国、兄の国等という意味不明の言葉は使いませんから。清の乾隆帝は祖父の康煕帝の在位を超える事を是とせず途中で退位しています。

一神教は基本的に神の権威を罪を犯した人間に対してザマァする事で高めていくという構成ですから戒め的なストーリーが多くなるのですね。

それ以上の問題は女性にたいする認識です。創造する時点で男性の従属物として作られています。そして失楽園の件なんかは目を離すと何を仕出かすかわからない存在として印象づけています。極めつけは黙示録の大淫婦の件ですね。女性は自由気ままにさせると世界を破滅させるそうです。そして男性がしっかり管理すれば此ほど愛らしい生き物は存在しないというような趣旨の事柄も書かれています。

尤もなぜそのような認識を持つようになったかはおそらく、古代の母系を主体とする種族と父系を主体とする部族との対立が起因していると考えます。「女性は三か月以上放置すると外に必ず男を作る。」と母校の法学の教授が言ってました。其れは数々の裁判の記録からそのように判断されたのか実体験から判断したのかわかりません。もし此れが一面の事実なら母系の部族は父系の部族には勝てないでしょう。最前線で戦うのはどちらも男の仕事ですから母系の部族の男は自分の妻が他所の男との浮気が気になって戦いに集中できないでしょうから。これも過去の出来事の戒めなのでしょう。

女性に限らず世界中で問題となっている差別の原点は大体一神教ですから人権団体はもし本気で差別をなくしたいのであれば聖書の再編をバチカンに求めるべきです。
そんな話は聞いたこともありませんから人権団体はナニかしらのビジネス集団なのでしょう。

何れにせよ宗教では教祖を超える偉人は誕生してはならないシステムです。教祖を神とイコールとする考え方は師を超えた場合は人が神を超えるということで神を絶対とする宗教の前提条件が根底から崩れるからです。もし誕生した場合、現在の指導層が偽物と断罪され既得権益を失うことに繋がりかねませんし。

アレイスタ・クロウリーという100年ほど前のカルト宗教のカリスマ、かなりの中二病患者ですけど、バチカンが一番嫌う事、それは自分達よりも影響力の強い新興宗教が誕生する事だと断じ実践しようとしてました。最終的には犯罪者扱いされ実現は無理だったようですが。
 くろの介様、ご感想ありがとうございます。

 王朝が代わって父系君主が母系君主になった例があるんですよね。
 古代中国・殷は父形君主で、名前に「子」が付いています。
 その殷を倒した周は母系君主で、名前に「姫」つまり「女」が付いているのです。
 名前を見ると、周の太公望・呂尚も本名は「姜子牙」と「女」が付いています。

 そう考えると、弟子に「子」の付いた名前を付けていた孔丘は意外と歴史に詳しくないのかもしれませんね。
 孔丘が目指す政治家とは、周の功臣・周公旦であり、彼は諱で「姫旦」と「女」が付きますからね。
「子」が着くのは殷の側で、最後の紂王は「子辛」が本名だそうです。国王としての名前は「帝辛」ですが。

 クロウリーはカリスマカルト教団を興すという、確かに中二病じみた方ですよね。
 バチカンは独立国家となっていますが、それまではどこかの国に守られている存在だったんですよね。自分たちでは(教義上)武装できないから他国を頼った。なんか日本という国によく似ていますね。日本は憲法上武装できないから米軍を頼らざるをえない。
 もしアメリカが日本に価値を見出だせなかったら、軍事同盟を結ぶ意義はないのです。
 フジヤマ・サムライ・スシ・ニンジャとアメリカ人にも日本文化が好まれているので、かろうじて守ってもらえるんですよね。
 これがもし香港だったら。好まれる文化はイギリスが遺したものだけで、中国の影響が及ぶものには興味がないのでしょう。中国文化は全否定できるのがアメリカ人の精神なのでしょうか。
 その割に台湾は守られていますから、アメリカは中国文化自体はよしとしても「中国共産党」を是としないのでしょぅか。最近のトランプ大統領やその側近は、「中国が悪い」から「中国共産党が悪い」に発言が代わっていますからね。
[一言]
貴族の没落。

没落した貴族は実際の所、「なろう」でザマァされるような嫌な人物ではなく万人に好かれるような良い人の方が没落するのですけどね。

戦後、多くの良いところのボンボンが銀行に騙されて没落したそうです。だから銀行はバブルが弾ける前、トンでもない一等地に土地を所有する事ができました。

領地持ちの貴族というものはある一定地域限定の独占市場が補償された異業種複合企業しかも軍事行政まで行っているという。経済規模も職種も限られた中世までならともかく爆発的に拡大する近世以降では負担、特に銃の普及により軍事面での負担が大きくなり過ぎたのですね。貴族は基本的に上品なヤクザですから権力の源である精強な軍隊が維持できない時点で没落は約束されてしまいます。独占的な市場を維持し続ければそうでない地域との格差は広がります。キリスト教圏は何故か金儲けは害悪と考えてユダヤ人に丸投げしていましたから、ユダヤ人はさぞかし貴族を没落させることに大活躍したのでしょうね。
ラノベでは戦後日本を舞台にしているにも関わらず旧貴族階級である財閥を登場させたがります。一応、戦後日本は占領軍によって財閥は解体されましたから、残っていること自体が完全にアングラでそれなりの設定が必要であることをあまり理解されている作家さんが少ないのは気になります。
 くろの介様、ご感想ありがとうございます。。

 実際、私たち日本人は「貴族」を見ていないんですよね。
 皇室は貴族か。宮家は貴族化。なんかちょっと違うような。
 宮家のひとつ「有栖川宮」を名乗って詐欺を働いた人がいた記憶がありますね。
 三井、三菱、安田などの五財閥くらいなんですよね、今まで残っているのは。
 あとは新興貴族とも呼べる「成金」がいるくらいでしょうか。だいたい嫌味なやつというキャラ設定で小説に登場しますよね。気のいい「成金」だっているでしょうに。
 じゃあソフトバンクグループの孫正義社長はどうなんだって話なんですけどね。
 新興貴族「成金」は金に汚い印象しかないですね。カルロス・ゴーン被告のように。
[一言]
「誇りと逆鱗」。

私が思い出すのは故星野仙一氏です。彼は北京のオリンピックで金メダルが期待されながらモノの見事に敗退しました。此れだけなら「運がなかった。仕方ないね。」で済みました。しかし、運の悪いことに女子のソフトボールが金メダルを取りました。しかも一人のエースの神懸った伝説的な連投と快投によって。当然、周囲から比較されます。私の頭では「北京の負け監督」と云う侮辱的な二つ名が付いてしまいました。幸いその二つ名は彼が楽天を此れもまた一人のエースの神懸ったシーズン中、26回の登板で一度も負けることがなく20勝オーバーという快投により初めて日本一を達成するという偉業で払拭されました。

しかし孫氏の世界では「誇り」も「逆鱗」もおそらく邪道です。

孫氏の前提は「負けたら命の保証がない」世界です。スポーツは負けても負けても命の心配のない世界とは根本的に前提が異なります。

孫氏では明確な記述はされていませんが絶対に敵わない強敵とは関わり合いにならない事を最善と考えている節があります。次善が友好を結ぶ、友達になるです。最悪、敵対することになった場合は、考え得る全ての手段を使って相手を弱体化させ、最終的には2度と対立できないように本当の意味での不安要素を排除することです。

追加するなら敵には汚名返上、栄誉挽回のチャンスすら与えるなという思想も含まれています。

しかしラノベやスポーツの世界にはこの理論は通用しません。

スポーツ、特に興行スポーツでは勝ち負けよりも如何に観客を一人でも多く集めるかが重要です。その為にはどのように人々の心を掴み人気が出るのかを考える必要があります

その一環として強敵に何度も挑戦するというものがあります。

10回試合して一度も勝てなくても今度こそはと観客に常に思わせ続けることに成功すれば応援する人間は増え続けます。そしてまぐれでも勝つことに成功すれば人気は鰻上りになります。


孫氏の兵法に則れば、相手選手に試合中に直接負傷させるのは下策、中心選手を巧妙に出場できなくした上で、クラブチームの経営を何かしらの要因で悪化させるか不和の種を蒔くことを正道とし試合そのものまともに機能しない状態にする事を最上とするでしょう。

これらの策は興行スポーツでは最悪です。なぜなら、そんな事をすれば観客の動員が減り、周囲から勘繰られれば人気にも影響が及ぶからです。

監督の資質も勝利至上主義ではなく如何に観客を喜ばせる能力に長けているかが重要になります。

そのため、中日を日本一にした落合監督よりも日本一にできなかった星野監督の方が評価が高くなるという奇妙な事が発生します。

但し、アマチュア・スポーツと国際大会は例外です。アマチュア・スポーツは興行収入を考える必要がありません。そのため、数年前に発生した日大アメフトの危険タックルのような事件が発生します。幸いアマチュアは純粋に選手同士と関係者間のスポーツマンシップと善意の同調圧力で行われているために深刻な事態には陥らないようです。

国際大会に関しては完全にグレーです。全世界からバッシングを受け対戦相手が居なくならないギリギリの見極めでアンフェアな行動をとるのが普通です。サッカーなんかは負ければ最悪、戦犯と目された選手は祖国で殺されてしまいますから必死です。少しでも気を抜けば危険タックルを受け選手生命が絶たれることは常識です。予選でも直接、毒を盛ることはしなくても生水に触れる状況を作ることにより対戦相手を感染症にして本来の能力を発揮できないようにすることは常識です。近年では水食糧、調理師は自前で当然のごとく用意します。

ドーピング問題も一部の強豪国をハブるための口実です。ドーピング薬物を一番生産している国は実はアメリカです。如何にもやっていそうな国だけがターゲットになっているのは実はかなりおかしいのです。本当の意味で厳密に検査した場合、オリンピックのメダル獲得数の上位に来る国の多くが出場停止になると思われますから。

何れにせよトップの選手の意識はあまり変わらないでしょう。「ウサイン・ボルト」クラスの選手なら、対戦相手の事はは余り気にしないでしょう。優勝することだけを考えているでしょう。言葉を変えれば優勝することでしか意味を見いだせないとも云えます。対戦相手は例え優勝できなくても「ウサイン・ボルト」よりも先着すればその事実だけを「誇り」に残りの人生は生きていけそうなぐらい凄い選手と云う事でもありますが。

スポーツの世界では「技量」も「体格」も同じなのに何故か勝てないと云う事がよくあります。競走馬の世界ではトップ・スピードを並んだ瞬間に競っている馬よりもコンマ一秒でも長く維持できるかが鍵となります。それは並んで競っている馬の「勝ちたい」という気持ちが「早く楽になりたい」という気持ちに負けてしまうために起こる現象でもあります。おそらく人も同じでしょう。
実際、マラソンなんかでは区間タイムを分析すれば区間ごとに早かったり遅かったりといった激しいバラつきがみられます。此れは徹底的にペースを攪乱して心理的に競争相手の心理を攻撃し弱気にすることで脱落者を増やす駆け引きが行われている証拠です。

これは、誰か一人「鋼の平常心」で女子なら10キロ当たり30分、男子なら27分程度
のペースを維持して走ることができれば世界記録のオマケつきで金メダルは取れると云う事でもあります。

他の競技でも相手を疲労させることで心理的に追い込みミスを多発させる手段はよく使われます。団体球技なんかは特にそうですね。

体操や個人種目は泰然自若振りを見せつけることで相手が勝手に自滅させる事を天然で出来なければならないようです。

後は、欧州人が大好きな究極奥義とも云える必殺技、伝家の宝刀、「ルール変更」との戦いですね。特に体操は毎回ルール変更してますし近年、柔道も大きなルール変更を行っています。なんか日本人が勝つと直ぐに変更しますから伝家の宝刀の権威も形無しです。

しかもルールを忠実に守る気のない中国人にはあまり効果がないという(笑)。特に卓球は私が学生時代だった平成初期とは全く別の競技と思えるぐらい変化してますし。バレーボールも正直、別の競技ですね。

柔道も道着の色をはじめ、合わせ技が1本になったり技ありになったり迷走振りが笑えます。昔、柔道部の人間から聞いたのですが、なんでも、道着を洗わないのは作戦で、道着に染み付いたカグワシイ香りで相手の集中力を奪う事を目的としているそうです。
確か、柔道のルールには道着の匂いについての規定はなっかったような気がしますが設けなくて良いのですかね。匂いはともかく外国人選手の道着の乱れは見苦しいので共助良俗に対する冒涜として是非反則にしてもらいたいものです。

 くろの介様、ご感想ありがとうございます。

 確かに孫武からすれば「誇り」も「逆鱗」も邪道でしょうね。「逆鱗」は兵家の流れをくむ法家の韓非の思想ですし。
『孫子』の思想は「数を揃えろ」「誰よりも早く動き出せ」「危ないと思ったら戦うな」が信条ですからね。

 スポーツでいえば、ナイキチャレンジだったかで男子マラソンの世界記録保持者をラピッドがアシストしながら2時間を切らせるだけのレースをしたことがありましたね。しかも実際に2時間を切ってみせました。
 ルール変更で大きいのはスキージャンプとノルディック複合が挙げられますね。スキー板の長さ制限や飛型点の低価値化、飛距離はフィールド走でのタイム換算率の変更などを行なっています。
 体操は基本的に十点満点が最高だった頃と比べればそれほどひどくはないですね。ただ、毎年のように技の評価点が下がっていくので、新技開発競争と化しているように見受けられます。まぁ体操の魅力は皆があっと驚くような技を観客に見せることだからそれでもいいのかと思います。
 ルールを守る気がない中国というのはよくわかります。彼らは漢方薬と称して違反ギリギリのドーピングはやり続けていますからね。天然素材ならバレないと思っているようです。陸上の馬軍団は結局バレましたけどね。
 柔道着の乱れについては私も「変だな」と思いました。日本の試合では頻繁に道着を直させているのに、国際大会では裾が帯から外れているのに直させない。それがフェアな戦い方ですか、と問いたいですね。まぁ小柄で投げ技が得意な日本人対策なのでしょうけどね。

 最後に、落合監督も好きなんですけどね。やはり何度も挑戦しながら日本一になれなかった星野さんが、最後の最後に楽天で日本一を獲れた。それだけで嬉しかった思い出があります。田中将大投手の神がかった投球は、野村克也監督からデータ重視を教え込まれて一定水準には達していたけど、闘争心が足りなかった。そこをうまく星野監督が引き出して不動明王にしてしまいましたからね。あれと戦って勝てというのがどだい無理な話です。なにより田中将大投手の勝利数以外、他の投手は五割の勝ち星なんですよね。ほぼ田中将大投手のプラスだけで優勝できました。ひとりの大投手がいればペナントレースでも優勝できるひとつの見本ですね。
[一言]
貧乏と成り上がり。
中国の歴史では貧乏人の成り上がりほど成り上がった後の粛正が凄まじいという統計データがあるようです。漢の高祖、劉邦は我が子を逃げる馬車から捨てその都度、忠臣に回収されるという逸話を残すほどの人でなし、皇后の讒言があったとはいえ彼の存在なしでは天下統一はできなかったという功臣を粛正した人物でもあります。実際、彼以上に粛正に熱狂した人物は明の太宗、洪武帝,朱元璋が登極するまで存在しませんでした。彼は劉邦が比較的富農であったのに対してどちらかというと水飲み百姓、農奴以下の階層の出身です。幼少時は今で云うストリートチルドレン、チーマーのリーダーからヤクザの頭目を殺害することから始まり下克上を重ねることで成り上がった世界史上でも希有な人物です。当然、知識階層に対するコンプレックスは凄まじく建国の功臣は悉く粛正します。学者は彼が晩年行った粛正劇に対してそのように評価します。当然心理学的には彼以上の暴君は登場しないと歴史学者は予測したところ、毛沢東というと彼を超える粛正者を登極させます。彼の生い立ちは朱元璋ほど酷いものではありませんが共産主義という傾倒すればするほど粛正への道に進むしかない思想と認識する大地は全て自分たちで管理しなければならないという中華思想と謎の融合を果たした事が原因でしょう。

貧乏人を成り上がらせる場合はどうしてもコンプレックスという怪物と向き合わなけらばならない事からかなり筆者の技量と人生観が問われそうですね。
 くろの介様、ご感想ありがとうございます。

 ご指摘のように、貧乏から成り上がった偉人は、たいていその後に好き嫌いだけの理由で粛清に走るんですよね。それまで権力を握ってこなかったから、権力の正しい使い方がわからないのでしょうか。
 ある程度豊かな生まれだと、いわゆる「帝王学」のような、他人を支配する術を学びます。だから極端に粛清しないんですよね。
 春秋時代に斉の桓公の宰相を務めた管仲も、学があって王子たちの世話役を引き受けて、のちの桓公の敵となっていましたが、桓公の世話役だった旧友の鮑叔が取り持つ形で宰相に抜擢され、以後桓公が「覇者」と呼ばれるほどの地位にまでお仕上げています。貧乏ではないからできたのでしょう。
 書き及んでおります毛沢東氏は、かなり地位の低いところから、内ゲバを征して共産党のトップとなり、国民党を台湾へ追いやって共産党政権を作りました。しかし統治の術「帝王学」を知らなかったため、共産主義に取り憑かれて文化大革命をしでかしました。やはり「帝王学」を身につけないと暗君になりやすいのでしょう。

 貧乏人が成り上がるときは、「身分が低かった」ことと向き合う必要がありますね。
 コラムで述べた劉備なんて「中山靖王劉勝の末裔」と名乗ることでコンプレックスを払拭しようとした節がありますしね。
[一言]
「笑い」は確かに才能ですね。才能のある人が演じれば文字だけで見れば何処にお笑いの要素があるのかわからないネタでも笑いがとれますから。雰囲気と間の取り方が絶妙であれば、故坂本九氏のように日本語の駄洒落で英語しか理解できないアメリカ人からも笑いがとれますから。

確かにフリートークの上手な小説家はあまりいませんね。田中芳樹氏なんかは最悪です。余計な事を書いて読者の神経を逆撫でしますで。嘗て天下無敵の遅筆作家で放置プレーヤーは執筆が遅れたことについて冗談めかした言い訳をよくしていました。現在であればこれはクレーマー気質の読者の神経を逆撫でしてネット上で間違いなく炎上する危険な行為です。
逆に新井素子女氏や故栗本薫女氏は小説よりも後書きの方が面白いと評価されるような随筆家よりの作家もいます。

孫武も孔丘も笑いのセンスはなかったようですね。孫武の逸話には軍事教練の厳しさを王に示す為に王の2人の寵姫を軍規違反で処刑するモノがあります。彼はさっさと逃げて事なきを得たようですが噂が巡り巡って彼の仕官の妨げになったみたいですね。人の和を重んじる割に自分自身は和を乱す行動を取る所は笑えますがそう思うのは一部だけでしょう。
孔丘は干した人の肉を塩と酒と麹でつけたものが好物だったようですがある日、旨いと喜んで食べたモノは実は処刑された自分の弟子の肉だった事を知って二度と食さなくなったという逸話がありますがそのような嫌がらせを受けるところを見ると地味に嫌な嫌われ方をしていたようです。

ネット小説で後書きに評価ポイントを要求する作家さんはよくいます。何でも書いていると場合と書いていない場合とでは評価ポイントの入り方が違うそうです。確かに入れない人間は書こうが書くまいが関係なく入れません。しかしどうでも良いと思っている人の少なくない数は要求すれば入れてくれるのも事実なので有効である事は間違いありません。但しその事で一部の人は間違いなくクレームを入れます。余計な言い訳を書くと更にエスカレートします。後書きを書く場合は結構覚悟が必要なようです。

作家にとって面白くもないフリートークは災いの元ですから作品に集中すべきと思うのですけどね。
 くろの介様、ご感想ありがとうございます。

「笑い」はやはり雰囲気と間ですよね。それがよければ世界中でコメディアンとして有名になれます。
 バスター・キートン氏やチャールズ・チャップリン氏のように無声映画ですら爆笑を誘える稀有な才能が現に存在しましたから。今のお笑い芸人は逆立ちしても喜劇王には勝てないでしょう。日本語でただ喋って勢いだけのツッコミを入れるのでは、とても世界では通用しません。小説も無声映画に近いですから、かなり書き手の才能を要求されますね

 孫武の記述は司馬遷氏『史記』に載っていますね。彼ほどの人物なら、どの国に仕官しても取り立てられたとは思いますが、軍師を任されるかというとやはり評判が悪いですよね。軍律のためならなんでもする人ですから。
 孔丘の記述は、戦国時代の秦王政を見つけ出した呂不韋氏が編纂した『呂氏春秋』か、性悪説の祖・荀況氏『荀子』、韓非氏『韓非子』あたりに載っていそうですが、詳しい記憶がなくて済みません。この話自体は読んだ記憶はあるのですが、元出がどれだったか正確には覚えておりません。

 ネット小説で「評価ポイントを要求する書き手」は、通販サイトで「高評価してくれたら20%ポイント還元しますと言っている業者」と着わらないですよね。
 ただ、ネット小説は読むのに時間がかかるので、読み終わってから不評を書こうとする気にもならないんですよね。読むれば「ここがよかったです」と書けますが、面白くなかったらその理由を探さなければならないからです。だから読み手もつい感情的になって炎上してしまうのでしょう。
 ポイントが欲しいのなら実力で掴み取らなければなりませんね。

 フリートークがうまくて小説も面白い書き手って「プロ」でも見た記憶がないんですよね。バラエティ番組によく「プロ」の書き手が出てきて笑かしていきますが、そんな人の作品はたいてい面白くない。
 誰かいないかなぁ、と思って考えたところ「三谷幸喜氏」くらいだろうと思います。もう少し含めれば「宮藤官九郎氏」ですかね。
 とくに三谷幸喜氏は傑出していて、ドラマの脚本を書かせても面白い作品に仕上がるし、フリートークさせると必ず脱線させて笑いを取りに行くスタイル。フジテレビの深夜枠が好調だった頃は、まさに三谷幸喜氏の独壇場でした。
 今は宮藤官九郎氏がバラエティ番組やトーク番組に出て笑いもとれるし、書いた脚本も面白くて高視聴率をマークするところまでは着ています。まだ三谷幸喜氏の域までは達していませんが。
「小説家」に限ると本当に両立できないんだなぁと思います。ベストセラー作家はたいてい真面目一辺倒というか「書くことしか才能がない」ような方ばかりです。バラエティ番組でよく見る面々はフリートークはうまくても小説がそれほど面白くない。文字で笑わす能力と、口で笑わす能力はまったくの別ものです。
 それこそ小説は無声映画に近いように思います。ただ動きが書いてあって、それを観た人読んだ人が笑えるかどうかだけで、声や音で笑いを取ろうとしない。
 やはり笑いにはそれぞれ得意分野があるようですね。
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