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[一言]
人間に限らずある程度の知能を有した生き物は費やした労力に見合うだけの成果を上げることが出来れば何度も同じ事を繰り返す習性があります。同じ勉強時間で成果が実感出来た方が得意な教科、出なかった方が不得意な教科という認識になるでしょう。教科のカリキュラムは基本、その教科が出来る人が考えたものですから脳の仕様がカリキュラムで前提している仕様と合致していなければ成果は出ません。英語なんてものは縦書き文章を前提としているワープロみたいな脳でアウトプットしろと言われても効率が悪くて仕方ありません。
おっしゃる通りそんなものに時間を費やすぐらいなら得意なモノに労力を費やす方が効率が良いでしょう。
注意しなければいけないことは学校での得意、不得意は教育機関が準備した予め解答の用意された問題を参考資料なしに制限時間内に解いた結果の良し悪しで自分自身がそう思い込んでいるに過ぎないという事です。
社会では手に入る資料を全て参考にして複数存在する正解の中から現在置かれている状況で最適と思われる解答を選ぶ事が要求されます。其処には誰も得手不得手なんて気にしてくれませんし気にしても仕方ありません。
得意と思っていることでも上には上がいて助けて貰う事がありますし、不得手と思っていても下には下が居て助けなければならない時もあります。
不思議なもので学生時代、英語が得意と言っていた人間でネイティブ並みに使いこなせている人はあまりいませんし。
最近の外人は日本人にスマートフォンを使って日本語です話しかけてきますから。学生時代の苦労は最早、笑い話にしかなりません。
それ故に文科省は権威回復の一環としてセンター試験の改革をしているのでしょう。
小説家に限らず学校で身に付ける一番、重要なことは何か問題に直面した時に自分の力で調べる能力と調べた結果を理解するだけの学力を身に付ける事でしょうか?
尤も私が学校で学んだ一番、大きなモノは教師も所詮は同じ人間と云う事でしょう。
先生達のの子供が好きと云う言葉は自分にとって都合の良い子供が好きという意味ですし。
時折、自身の教科以外では正しい情報の中に誤った考え方も混ぜてきますから何事も鵜呑みせずに裏取りする癖も身に付ける必要がありますし。
我が子でもない他人の子供に親身になって接することはある意味、異常なことなので当然と云えば当然ではありますが。
人間に限らずある程度の知能を有した生き物は費やした労力に見合うだけの成果を上げることが出来れば何度も同じ事を繰り返す習性があります。同じ勉強時間で成果が実感出来た方が得意な教科、出なかった方が不得意な教科という認識になるでしょう。教科のカリキュラムは基本、その教科が出来る人が考えたものですから脳の仕様がカリキュラムで前提している仕様と合致していなければ成果は出ません。英語なんてものは縦書き文章を前提としているワープロみたいな脳でアウトプットしろと言われても効率が悪くて仕方ありません。
おっしゃる通りそんなものに時間を費やすぐらいなら得意なモノに労力を費やす方が効率が良いでしょう。
注意しなければいけないことは学校での得意、不得意は教育機関が準備した予め解答の用意された問題を参考資料なしに制限時間内に解いた結果の良し悪しで自分自身がそう思い込んでいるに過ぎないという事です。
社会では手に入る資料を全て参考にして複数存在する正解の中から現在置かれている状況で最適と思われる解答を選ぶ事が要求されます。其処には誰も得手不得手なんて気にしてくれませんし気にしても仕方ありません。
得意と思っていることでも上には上がいて助けて貰う事がありますし、不得手と思っていても下には下が居て助けなければならない時もあります。
不思議なもので学生時代、英語が得意と言っていた人間でネイティブ並みに使いこなせている人はあまりいませんし。
最近の外人は日本人にスマートフォンを使って日本語です話しかけてきますから。学生時代の苦労は最早、笑い話にしかなりません。
それ故に文科省は権威回復の一環としてセンター試験の改革をしているのでしょう。
小説家に限らず学校で身に付ける一番、重要なことは何か問題に直面した時に自分の力で調べる能力と調べた結果を理解するだけの学力を身に付ける事でしょうか?
尤も私が学校で学んだ一番、大きなモノは教師も所詮は同じ人間と云う事でしょう。
先生達のの子供が好きと云う言葉は自分にとって都合の良い子供が好きという意味ですし。
時折、自身の教科以外では正しい情報の中に誤った考え方も混ぜてきますから何事も鵜呑みせずに裏取りする癖も身に付ける必要がありますし。
我が子でもない他人の子供に親身になって接することはある意味、異常なことなので当然と云えば当然ではありますが。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
これまでの学校教育の英語では、ネイティブにすは通用しないんですよね。
いまだに「I have a pen.」からスタートしているようなカリキュラムでしょうしね。
そこを変えるためにネイティブスピーカーを配置したり、カリキュラムに「読む・書く」だけでなく「聞く・話す」を加えたりと工夫はしているようではあります。
「教師は聞き分けのよい子が好き」は経験ありますね。
いじめられっ子だったとき、殴り返したら私だけが怒られた、なんて日常茶飯事でしたから。
真に教育者といえるのは、一周回って「自分の指導に従順な生徒を育てる人」なのかもしれませんね。
そういう意味では政治家なんて、選挙のときだけ都合よく愛嬌を振りまき、当選すると地元なんて知らん顔ですからね。
これまでの学校教育の英語では、ネイティブにすは通用しないんですよね。
いまだに「I have a pen.」からスタートしているようなカリキュラムでしょうしね。
そこを変えるためにネイティブスピーカーを配置したり、カリキュラムに「読む・書く」だけでなく「聞く・話す」を加えたりと工夫はしているようではあります。
「教師は聞き分けのよい子が好き」は経験ありますね。
いじめられっ子だったとき、殴り返したら私だけが怒られた、なんて日常茶飯事でしたから。
真に教育者といえるのは、一周回って「自分の指導に従順な生徒を育てる人」なのかもしれませんね。
そういう意味では政治家なんて、選挙のときだけ都合よく愛嬌を振りまき、当選すると地元なんて知らん顔ですからね。
- カイ.智水
- 2020年 06月25日 19時39分
[一言]
学習とは知識を蓄えることではありません。蓄えた知識を密接に結びつけて何故そうなるのかを考える力を鍛える事を云うのです。例として挙げられた林檎の生産量が日本一。その情報だけでその地域の気候が寒冷であること、そして林檎は寒冷地での生育に適した果物であると云うことが解ります。
一昔前、アメリカから林檎が大量輸入されたにも関わらず全く売れず店頭に山積みのまま捨て値で売られていた事があります。売れ残る理由は簡単で味以前に見た目が悪過ぎました。血のような暗い赤色をした林檎、それは日本人の目には美味しそうには見えません。赤い私はその林檎のことを「白雪姫の毒リンゴ」と呼んでましたが。でもこの事から「アメリカ人」にとってはこれが普通の林檎で日本は無理やり買わされたのだろうなと云う2つの事が解ります。
今の教育は結局は答えだけを教え、そのプロセスを軽視する傾向にあります。時間が限られているため仕方ない側面もありますから親がそれを補う必要があるのですが。実際は親もその傾向が強いのですね。それは職場で解らない事があれば直ぐに聞けと言われているため子供にもその影響がでるのでしょう。
学習とは知識を蓄えることではありません。蓄えた知識を密接に結びつけて何故そうなるのかを考える力を鍛える事を云うのです。例として挙げられた林檎の生産量が日本一。その情報だけでその地域の気候が寒冷であること、そして林檎は寒冷地での生育に適した果物であると云うことが解ります。
一昔前、アメリカから林檎が大量輸入されたにも関わらず全く売れず店頭に山積みのまま捨て値で売られていた事があります。売れ残る理由は簡単で味以前に見た目が悪過ぎました。血のような暗い赤色をした林檎、それは日本人の目には美味しそうには見えません。赤い私はその林檎のことを「白雪姫の毒リンゴ」と呼んでましたが。でもこの事から「アメリカ人」にとってはこれが普通の林檎で日本は無理やり買わされたのだろうなと云う2つの事が解ります。
今の教育は結局は答えだけを教え、そのプロセスを軽視する傾向にあります。時間が限られているため仕方ない側面もありますから親がそれを補う必要があるのですが。実際は親もその傾向が強いのですね。それは職場で解らない事があれば直ぐに聞けと言われているため子供にもその影響がでるのでしょう。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
「わからないことがあったらすぐに聞け」はいちばん悪い教育法ですね。
本当にわからない人は「わからないことがなにかがわからない」。
学習が「詰め込み教育」である日本では、周辺情報の枝葉を切り落として、幹だけを教えています。それでは真に「学習」とは呼べないでしょう。
「りんごの生産量」から「じゃあみかんの生産量日本一は?」とか「りんごの消費量日本一は?」といった疑問が湧いてくるかどうか。疑問から答えを探してこられるかどうか。これが学習に求められているのだと思います。
日本の詰め込み教育では幹しか教えない。しかも桜の木のように考えなしに切ると木が弱る脆弱な幹の木しか教えていません。
しかし現在学生生徒のスマートフォン所有率は七割程度とされ、わからないことがあったらスマートフォンで検索すれば手に入る時代です。
となれば、学生生徒がいかに「じゃあこれってなんだろう?」に気づけるかどうか。
それを教えるのが「真の教育」かもしれませんね。
「わからないことがあったらすぐに聞け」はいちばん悪い教育法ですね。
本当にわからない人は「わからないことがなにかがわからない」。
学習が「詰め込み教育」である日本では、周辺情報の枝葉を切り落として、幹だけを教えています。それでは真に「学習」とは呼べないでしょう。
「りんごの生産量」から「じゃあみかんの生産量日本一は?」とか「りんごの消費量日本一は?」といった疑問が湧いてくるかどうか。疑問から答えを探してこられるかどうか。これが学習に求められているのだと思います。
日本の詰め込み教育では幹しか教えない。しかも桜の木のように考えなしに切ると木が弱る脆弱な幹の木しか教えていません。
しかし現在学生生徒のスマートフォン所有率は七割程度とされ、わからないことがあったらスマートフォンで検索すれば手に入る時代です。
となれば、学生生徒がいかに「じゃあこれってなんだろう?」に気づけるかどうか。
それを教えるのが「真の教育」かもしれませんね。
- カイ.智水
- 2020年 06月20日 17時58分
[一言]
現在、子供を学習塾に行く目的は単に受験のためです。昔は学力の足らない子供に少しでもマシにしてもらう事を期待して塾に通わせていました。
いつの間にか目的が変わってるわけです。
学校勉強だけではそれなりに偏差値の必要なマトモな大学には合格しないという事を意味します。
それは行き過ぎた平等意識が生み出した弊害です。
出来る子供と出来ない子供を混在させた教育環境は必然的に出来ない子供に併せて教育されます。その結果、普通の子供が努力する事を覚えなくなりダメになり、普通の出来る子供はより高いレベルでの学習機会を奪われ伸びなくなります。
その様な現象をどうにかしたいのであれば「ダイヤの原石はダイヤでしか磨けない。」という事実を認識する必要があります。
日本のサッカー選手が国内では無双しながら海外では駄目だという現象がよくあります。解説者はいつも「海外のフィジカルに対応できていない。」と言います。でも解説者はその選手たちは国内ではトップレベルのフィジカルをしているということを見事に忘れています。国内では生まれてから弱いフィジカルの選手とばかりやっていたため自分より体格の良い強いフィジカルの選手に対してどう対応すべきなのか解らなくなるのですね。そのため海外では技術的には問題ないにも関わらず通用しないという現象が発生します。
それも見る度に才能を見いだした時点でトップチームに合流させて揉んでおけば人生無駄にせずに済んだのにと思います。
天才は天才同士で競わないと才能は磨かれません。何も考えずに才能の劣った者と競わせた場合、才能の劣った者は自信を喪失し、優れたものは意識が鈍りそして才能も鈍っていきます。
結局はどちらにとっても損にしかならないのです。
為政者にとっては国民の教育など害悪でしかありません。賢い人間が反乱を起こすことほど恐ろしいものはありませんからね。歴史上、国が滅亡する原因の殆どが賢い連中の造反ですから。
しかし現在は教育しなければ経済を維持することが困難となりました。そのため多くの国は嫌々教育してます。そして為政者に矛先が向かないように自分達の境遇の責任を何処に押しつけるかが主流なのです。
そう云う意味では日本は恵まれています。真っ当な家庭であれば誰でも高等教育を受けられますしその内容もニュートラルで思想的に偏ってませんから。
日本人を駄目にしているのは教育でも政治家でもなく行き過ぎた現実を省みない理想主義、特に無自覚に同調圧力を強要するマスコミですけどね。
現在、子供を学習塾に行く目的は単に受験のためです。昔は学力の足らない子供に少しでもマシにしてもらう事を期待して塾に通わせていました。
いつの間にか目的が変わってるわけです。
学校勉強だけではそれなりに偏差値の必要なマトモな大学には合格しないという事を意味します。
それは行き過ぎた平等意識が生み出した弊害です。
出来る子供と出来ない子供を混在させた教育環境は必然的に出来ない子供に併せて教育されます。その結果、普通の子供が努力する事を覚えなくなりダメになり、普通の出来る子供はより高いレベルでの学習機会を奪われ伸びなくなります。
その様な現象をどうにかしたいのであれば「ダイヤの原石はダイヤでしか磨けない。」という事実を認識する必要があります。
日本のサッカー選手が国内では無双しながら海外では駄目だという現象がよくあります。解説者はいつも「海外のフィジカルに対応できていない。」と言います。でも解説者はその選手たちは国内ではトップレベルのフィジカルをしているということを見事に忘れています。国内では生まれてから弱いフィジカルの選手とばかりやっていたため自分より体格の良い強いフィジカルの選手に対してどう対応すべきなのか解らなくなるのですね。そのため海外では技術的には問題ないにも関わらず通用しないという現象が発生します。
それも見る度に才能を見いだした時点でトップチームに合流させて揉んでおけば人生無駄にせずに済んだのにと思います。
天才は天才同士で競わないと才能は磨かれません。何も考えずに才能の劣った者と競わせた場合、才能の劣った者は自信を喪失し、優れたものは意識が鈍りそして才能も鈍っていきます。
結局はどちらにとっても損にしかならないのです。
為政者にとっては国民の教育など害悪でしかありません。賢い人間が反乱を起こすことほど恐ろしいものはありませんからね。歴史上、国が滅亡する原因の殆どが賢い連中の造反ですから。
しかし現在は教育しなければ経済を維持することが困難となりました。そのため多くの国は嫌々教育してます。そして為政者に矛先が向かないように自分達の境遇の責任を何処に押しつけるかが主流なのです。
そう云う意味では日本は恵まれています。真っ当な家庭であれば誰でも高等教育を受けられますしその内容もニュートラルで思想的に偏ってませんから。
日本人を駄目にしているのは教育でも政治家でもなく行き過ぎた現実を省みない理想主義、特に無自覚に同調圧力を強要するマスコミですけどね。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
体調不良のため、ご感想に気づくまでお時間をかけましたことたいへん申し訳ございません。
サッカーのたとえですが、同じことがバレーボールでもあるんですよね。バレーボールの場合は「春高バレー」に問題があります。
高校生のうちに全国大会へ出場して目立てば日本代表入り。しかもたいていの代表候補は日本人の中では背の高いほうに分類されます。つまり自分より背の高いブロッカーと対戦した経験がほとんどないため、日本代表戦となると、海外のブロッカー格好の餌食となります。
ムダにジャニーズ事務所タレントを起用して注目を高めたため、「春高バレー」の価値が高まってしまいました。これが負の連鎖を生んでいます。日本代表が世界に通用しなくなったのです。
そこで現在の男子バレーの中垣内祐一監督は、最初から二メートル近くの選手を鍛えて一流にする道を選んでいます。高校時代の実力ではなく、背の高い選手の持つポテンシャルに賭けたわけですね。
バレーボールでもマスコミがムダに国民を煽って選手を潰しているんですよね。
勝たせたいのかプレッシャーをかけたいのかわからなくなるときがあります。
体調不良のため、ご感想に気づくまでお時間をかけましたことたいへん申し訳ございません。
サッカーのたとえですが、同じことがバレーボールでもあるんですよね。バレーボールの場合は「春高バレー」に問題があります。
高校生のうちに全国大会へ出場して目立てば日本代表入り。しかもたいていの代表候補は日本人の中では背の高いほうに分類されます。つまり自分より背の高いブロッカーと対戦した経験がほとんどないため、日本代表戦となると、海外のブロッカー格好の餌食となります。
ムダにジャニーズ事務所タレントを起用して注目を高めたため、「春高バレー」の価値が高まってしまいました。これが負の連鎖を生んでいます。日本代表が世界に通用しなくなったのです。
そこで現在の男子バレーの中垣内祐一監督は、最初から二メートル近くの選手を鍛えて一流にする道を選んでいます。高校時代の実力ではなく、背の高い選手の持つポテンシャルに賭けたわけですね。
バレーボールでもマスコミがムダに国民を煽って選手を潰しているんですよね。
勝たせたいのかプレッシャーをかけたいのかわからなくなるときがあります。
- カイ.智水
- 2020年 06月20日 18時14分
[一言]
同調圧力。
コロナ如きでガタガタ言うなと云うレベルですね。
日本は75年以上昔に多くの若者をその同調圧力で特攻に行かせて死なせました。
彼らと違って、従えば確実に死ぬというわけではありません。
特攻で死んだ兵隊さんからすると、さぞかし無様で滑稽に見えるでしょう。憤りすら感じるでしょう。
自粛が嫌ならコロナで死ぬことを神の福音か何かのように泰然自若と受け入れ恐れなければ良かったのです。
生存水準に達していないものが全て死ねば自体はナニもせずとも収束するのですから。
世界の混乱はお年を召した偉い人がコロナで死ぬことを恐れた結果ですから、まぁ仕方ないと諦めるべきでしょうか。
人間誰しも自分自身や親が幾ら高齢者といえども死ぬのは嫌ですから、仕方ありません。
人間は怠け者である事は否定できませんね。でなければ文明は発展しませんから。
一部の出来る人が無数の出来ない人を養うために生産効率を上げた結果、発展したのが文明の正体ですから。
だから、温室効果ガスの排出やら地球を滅亡させかねない様々な問題を抱えているのですね。
人間と云うモノはどんな環境でもやる人はやるし、やらない人はやりません。
少しでも行動に反映させたければお金を出させる事が多分、一番確実でしょう。やらない人はお金を出す時点で諦めますからね。
唯、今回のコロナ騒ぎで解ることがあります。外出自粛要請でテレワークでの為、職場と家庭の区切りがなくなった人が大勢います。其処でストレスを溜め、執筆に何かしらの影響を受けたと嘆く方は人はおそらくプロの作家は目指さない方が幸せでしょう。何故なら作家こそ職場と家庭の区切りをつける事が困難な職業の最たるモノの一つですから。
同調圧力。
コロナ如きでガタガタ言うなと云うレベルですね。
日本は75年以上昔に多くの若者をその同調圧力で特攻に行かせて死なせました。
彼らと違って、従えば確実に死ぬというわけではありません。
特攻で死んだ兵隊さんからすると、さぞかし無様で滑稽に見えるでしょう。憤りすら感じるでしょう。
自粛が嫌ならコロナで死ぬことを神の福音か何かのように泰然自若と受け入れ恐れなければ良かったのです。
生存水準に達していないものが全て死ねば自体はナニもせずとも収束するのですから。
世界の混乱はお年を召した偉い人がコロナで死ぬことを恐れた結果ですから、まぁ仕方ないと諦めるべきでしょうか。
人間誰しも自分自身や親が幾ら高齢者といえども死ぬのは嫌ですから、仕方ありません。
人間は怠け者である事は否定できませんね。でなければ文明は発展しませんから。
一部の出来る人が無数の出来ない人を養うために生産効率を上げた結果、発展したのが文明の正体ですから。
だから、温室効果ガスの排出やら地球を滅亡させかねない様々な問題を抱えているのですね。
人間と云うモノはどんな環境でもやる人はやるし、やらない人はやりません。
少しでも行動に反映させたければお金を出させる事が多分、一番確実でしょう。やらない人はお金を出す時点で諦めますからね。
唯、今回のコロナ騒ぎで解ることがあります。外出自粛要請でテレワークでの為、職場と家庭の区切りがなくなった人が大勢います。其処でストレスを溜め、執筆に何かしらの影響を受けたと嘆く方は人はおそらくプロの作家は目指さない方が幸せでしょう。何故なら作家こそ職場と家庭の区切りをつける事が困難な職業の最たるモノの一つですから。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
おっしゃるとおり、人間はどんな環境でもやる人はやる。やらない人はやらない。
古代中国春秋時代・斉の宰相管仲は、「この仕事をやるなら前金で払ってやる」と言って人々を動かしたとされています。やる人には奨励金、やらない人には罰金。これが資本主義ではいちばん効果があるようです。
テレワークと執筆の分離ができないと、仕事と家庭の分離も難しいですよね。
家庭を誰かがやってくれるようになるまで、つまり結婚するまではプロの小説家にはなれないということですからね。
これも「卵が先か、鶏が先か」論争ですよね。
結婚するのが先か、小説で成功するのが先か。
少なくとも成功するまでは両立できる人だけがプロになれるのではないかと思います。
おっしゃるとおり、人間はどんな環境でもやる人はやる。やらない人はやらない。
古代中国春秋時代・斉の宰相管仲は、「この仕事をやるなら前金で払ってやる」と言って人々を動かしたとされています。やる人には奨励金、やらない人には罰金。これが資本主義ではいちばん効果があるようです。
テレワークと執筆の分離ができないと、仕事と家庭の分離も難しいですよね。
家庭を誰かがやってくれるようになるまで、つまり結婚するまではプロの小説家にはなれないということですからね。
これも「卵が先か、鶏が先か」論争ですよね。
結婚するのが先か、小説で成功するのが先か。
少なくとも成功するまでは両立できる人だけがプロになれるのではないかと思います。
- カイ.智水
- 2020年 06月18日 19時36分
[一言]
教師とは基本的に勉強のできる人がなる職業です。
その高学歴志向を越える職業はキャリア官僚、ヤクザの幹部、外資系の投資信託銀行ぐらいでしょうか?
「出来る人」は「出来ない人」の事は理解できません。「出来る人」は、まず何故、出来るのかを考えないです。自然と出来るようになるからです。そして努力して出来るようになった人は「出来ない」人を努力が足りないと断定します。
出来る人はその事をテーマに研究する科学者でもない限り「出来ない」という現象のメカニズムを意識しないでしょう。
「一流になりたければ、一流のモノを食べ、一流の物を見聞し、そして一流の人々と交流しなさい。」という言葉があります。常にレベルの高いものと接するように意識しなければ自身の意識が低くなる。そして自身も一流にならなければレベルの高い人には相手にしてもらえないという言葉です。日本の総理大臣夫妻はその意識が欠けるために国会で吊し上げられ、売れっ子の芸能人は後ろに手が回る人が絶えないわけですけど。
高学歴の人は基本的に意識も高いですから「出来ない人」を相手にしないという事はある意味正しいのです。
それ故に「出来る人」を先生にする今の制度は誤りであります。しかし「出来ない人」に先生をさせるのは事実上不可能です。将来的に人間ではなくAIが先生をする時代が来るでしょう。何故ならどれ程、上手い先生でも「出来ない」生徒は出てきます。その生徒を出来るようにするにはその生徒が出来ないメカニズムを解析した上でカリキュラムを特化させる必要があります。人間の先生には其処まで要求する時間も余裕もなく第一、負荷が大きすぎます。故にAI技術が発達すれば自然とその職業は人の手から離れていきます。それは先生に限らず不祥事の多い職業、負荷の高い職業や定型業務といった瞬時の即応性が要求されない職業全般に云えることでもありますが。
因みにAIはその性質上、常時、ビッグデータのアクセスと其処から最適解の検索および算出が要求されるため、どうしても瞬時の即応性に欠けますから直接の戦闘行為と云った即応性の要求される作業は人間に劣ります。
但し、文章を書く事を教えていないのは日本に限った事ではないでしょう。識字率からから考えておそらく余所の国も似たようなものかもっと酷いかですね。一部の国はエリートのみが超高度な教育を受けていそうですがね。当然、それは莫大な金が掛かり庶民に手の届くものではなく、日本では現存しているのかどうか怪しい本物の特権階級のものでしょうけれども。
私は個人的に先生が文章の書き方を教えられないのは日本の国語学者が悪いと思っています。日本語は唯でさえ学者の手によって文法が論理的に整備されていない言語です。人に自分の意志の効果的な伝え方ぐらい先生が子供に教えられるレベルでシステマティックに整備しておくべきだと考えますから。
教師とは基本的に勉強のできる人がなる職業です。
その高学歴志向を越える職業はキャリア官僚、ヤクザの幹部、外資系の投資信託銀行ぐらいでしょうか?
「出来る人」は「出来ない人」の事は理解できません。「出来る人」は、まず何故、出来るのかを考えないです。自然と出来るようになるからです。そして努力して出来るようになった人は「出来ない」人を努力が足りないと断定します。
出来る人はその事をテーマに研究する科学者でもない限り「出来ない」という現象のメカニズムを意識しないでしょう。
「一流になりたければ、一流のモノを食べ、一流の物を見聞し、そして一流の人々と交流しなさい。」という言葉があります。常にレベルの高いものと接するように意識しなければ自身の意識が低くなる。そして自身も一流にならなければレベルの高い人には相手にしてもらえないという言葉です。日本の総理大臣夫妻はその意識が欠けるために国会で吊し上げられ、売れっ子の芸能人は後ろに手が回る人が絶えないわけですけど。
高学歴の人は基本的に意識も高いですから「出来ない人」を相手にしないという事はある意味正しいのです。
それ故に「出来る人」を先生にする今の制度は誤りであります。しかし「出来ない人」に先生をさせるのは事実上不可能です。将来的に人間ではなくAIが先生をする時代が来るでしょう。何故ならどれ程、上手い先生でも「出来ない」生徒は出てきます。その生徒を出来るようにするにはその生徒が出来ないメカニズムを解析した上でカリキュラムを特化させる必要があります。人間の先生には其処まで要求する時間も余裕もなく第一、負荷が大きすぎます。故にAI技術が発達すれば自然とその職業は人の手から離れていきます。それは先生に限らず不祥事の多い職業、負荷の高い職業や定型業務といった瞬時の即応性が要求されない職業全般に云えることでもありますが。
因みにAIはその性質上、常時、ビッグデータのアクセスと其処から最適解の検索および算出が要求されるため、どうしても瞬時の即応性に欠けますから直接の戦闘行為と云った即応性の要求される作業は人間に劣ります。
但し、文章を書く事を教えていないのは日本に限った事ではないでしょう。識字率からから考えておそらく余所の国も似たようなものかもっと酷いかですね。一部の国はエリートのみが超高度な教育を受けていそうですがね。当然、それは莫大な金が掛かり庶民に手の届くものではなく、日本では現存しているのかどうか怪しい本物の特権階級のものでしょうけれども。
私は個人的に先生が文章の書き方を教えられないのは日本の国語学者が悪いと思っています。日本語は唯でさえ学者の手によって文法が論理的に整備されていない言語です。人に自分の意志の効果的な伝え方ぐらい先生が子供に教えられるレベルでシステマティックに整備しておくべきだと考えますから。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
気遣いができない人は、「できない人」を理解できませんね。相手に寄り添う姿勢がないと、自分の感覚を押しつけてしまいがちですから。
「できる人」でも相手に寄り添う姿勢があれば、親身になって教えますね。野球だと元巨人でメジャー選手だった桑田真澄氏とか、現日本ハムの栗山英樹監督とか。
「一流になるには、いつも一流に接しろ」はよく言われますよね。二流以下に接すると感性が鈍る。一流がなぜ一流なのかは、実際に味わわなければ理解できない。絵の得意な子どもの作品を百枚見ても、絵はうまくな
らない。それより天才画家の作品一枚から数多く学べます。そこに「なぜなのか」の問いがあるかぎり。
今の日本の先生は就業過多なんですよね。先生の働いている時間が先進国の中でダントツです。しかし授業に充てる時間は下位集団となります。
では日本の先生はなにに時間を使っているのか。部活動なんですよね。
日本の先生は部活の顧問を兼任していて、その時間ぶん余計に働いています。
先進国で先生が顧問を務めているのは日本だけです。他の国では、民間から人材を連れてきます。
だから日本も部活の顧問から先生を開放したほうがよいでしょう。そうすればもっと生徒と向き合えますから。
とはいえ、日本はひとりの先生が抱えている生徒数も世界一なんですよね。他の国でひとクラス二十人程度です。日本は三十人から五十人ほどの人数を抱えていますから、余計に負担がかかっています。
日本ももっとクラスを分けて、ひとりの先生が抱える生徒数を減らすべきでしょう。
「日本の国語学者が悪い」は正論だと思います。「国語に関する世論調査」を見ても、「統一された見解が存在しない」のは明らかです。もし「統一された見解」があれば「国語に関する世論調査」の成績はもっとよいはずですからね。
日本語はまだ体系化されていません。たとえば主語に「が」「は」のどちらを使うべきかについての明確なルールが存在しません。私は「が」を「の」にするべきところもあると添削で書いています。そのくらい基本的なことでさえ統一されていないのです。統一されているのは「同じ助詞を重複しない」くらいでしょうか。しかも助詞をどの順番で書かなければならないという法則もないのです。英語では単語の順番は明確に定まっています。それは体系化された文型が存在するからでしょう。だから英語では話すように書けば、そのまま文章として通用するのではないでしょうか。
日本語をそこまで体系化できるかどうかは、正直判断できません。語順が自由なところに利点もあるからです。重要なものから順に書く。逆に重要なものを後に書く。書き手の作為が表れるので、語順にも一定のルールが存在するのかもしれませんが、それを知っているのはすでに「文章を書き慣れている」人だと思います。
気遣いができない人は、「できない人」を理解できませんね。相手に寄り添う姿勢がないと、自分の感覚を押しつけてしまいがちですから。
「できる人」でも相手に寄り添う姿勢があれば、親身になって教えますね。野球だと元巨人でメジャー選手だった桑田真澄氏とか、現日本ハムの栗山英樹監督とか。
「一流になるには、いつも一流に接しろ」はよく言われますよね。二流以下に接すると感性が鈍る。一流がなぜ一流なのかは、実際に味わわなければ理解できない。絵の得意な子どもの作品を百枚見ても、絵はうまくな
らない。それより天才画家の作品一枚から数多く学べます。そこに「なぜなのか」の問いがあるかぎり。
今の日本の先生は就業過多なんですよね。先生の働いている時間が先進国の中でダントツです。しかし授業に充てる時間は下位集団となります。
では日本の先生はなにに時間を使っているのか。部活動なんですよね。
日本の先生は部活の顧問を兼任していて、その時間ぶん余計に働いています。
先進国で先生が顧問を務めているのは日本だけです。他の国では、民間から人材を連れてきます。
だから日本も部活の顧問から先生を開放したほうがよいでしょう。そうすればもっと生徒と向き合えますから。
とはいえ、日本はひとりの先生が抱えている生徒数も世界一なんですよね。他の国でひとクラス二十人程度です。日本は三十人から五十人ほどの人数を抱えていますから、余計に負担がかかっています。
日本ももっとクラスを分けて、ひとりの先生が抱える生徒数を減らすべきでしょう。
「日本の国語学者が悪い」は正論だと思います。「国語に関する世論調査」を見ても、「統一された見解が存在しない」のは明らかです。もし「統一された見解」があれば「国語に関する世論調査」の成績はもっとよいはずですからね。
日本語はまだ体系化されていません。たとえば主語に「が」「は」のどちらを使うべきかについての明確なルールが存在しません。私は「が」を「の」にするべきところもあると添削で書いています。そのくらい基本的なことでさえ統一されていないのです。統一されているのは「同じ助詞を重複しない」くらいでしょうか。しかも助詞をどの順番で書かなければならないという法則もないのです。英語では単語の順番は明確に定まっています。それは体系化された文型が存在するからでしょう。だから英語では話すように書けば、そのまま文章として通用するのではないでしょうか。
日本語をそこまで体系化できるかどうかは、正直判断できません。語順が自由なところに利点もあるからです。重要なものから順に書く。逆に重要なものを後に書く。書き手の作為が表れるので、語順にも一定のルールが存在するのかもしれませんが、それを知っているのはすでに「文章を書き慣れている」人だと思います。
- カイ.智水
- 2020年 06月15日 17時52分
[一言]
型破りについて、私は王貞治もイチローもあまり型破りという印象はないです。彼らの打撃フォームは自身の体重移動がもたらす運動エネルギーを如何に効率良くボールに伝えるかというコンセプトが見ただけで伝わります。王貞治の体重は現役時代確か選手名鑑の数字だと80kg半ばだったと記憶しております。その彼が秒速1メートルの速度で動けばそれだけで真空中であると云う条件が付きますが1kgの物体が凡そ水平方向に80メートル動くだけのエネルギーが発生します。硬式野球のボール程度の重量の物体なら600メートル程動かせます。単純に筋肉だけで其れだけのエネルギーを生み出す事は薬物にでも頼らないと不可能だと米国では結論付けているようです。其れでもホームランを800本以上量産した選手は居ませんし、すると思われた選手は薬物違反で追放されました。実際、王貞治は同じ時代の外人選手よりも非力だったそうです。
イチローの場合は王貞治はフルスイングで限界以上のインパクトを出すことに拘ったのに対し、イチローは最小のスイングでフルスイング並みのインパクトを出すことに拘っています。
逸れを実現させる為机上の空論からに試行錯誤の末、完成させたのが一本足打法であり振り子打法です。
彼等のことは往年の名選手たちは批判したようです。ただ、彼らの言葉を分析すると自分が真似できない理由を並べているだけですから批判としては意味をなしていません。
イチローや王貞治が非凡なところは足を上げると云う動作は本来、投手の投球フォームに合わせてタイミングを取るための動作であること忘れていない点です。それはメジャーに行った後のイチローがメジャーの投手に合わせて振り子の幅を小さくした事からも伺いしれます。足を上げてのタイミングの取り方は投手が上げた足を地面についた瞬間にバットを引きボールをリリースする瞬間に自身の足を踏み込んで見極めるというのが基本的な工程です。メジャーの投手は上半身が強い為、日本の投手のように大きくゆったりとしたスタンスで投げませんから振り子の幅が大きいと対応できないんですね。
そしてわたしが一番イチローが優れている点だと思うのはバットを振ることで打撃が完結するのではなくバットを振ってボールを捉えた後、一塁ベースを駆け抜けてはじめて打撃が完結する点です。それは打って走るという基本的な野球の動作は決して独立して存在するのではなく密接に繋がっているという事を高度に理解できている事を証明するものだからです。
おそらく武道、武術で云う残心を意識的か無意識かわかりませんがかなり大事にする人物なのでしょう。
だから、イチローは内野安打の驚異的で変態的な数字を弾き出し無数の危険球に晒されても大きな怪我を一つもする事がなかったのでしょう。
結局、型破りは基本を極めた者が更なる高見を目指す為のものと結論付けるしかなさそうです。
絵画に至っては物欲に駆られたコレクターがオークションで何処まで金額を出すかによって決まりますから型破りもナニもありません。第一、評価されるの余程、運が良くない限り大体、晩年。最悪、死後です。大抵もう新しい作品が描かれる事がない希少価値が高まってから評価されるそんな感じです。
それは巨匠であれば幼少時の落書きにすら高値がつく事から証明されています。
ピカソの絵は確かに迫力はありますが正直、個人で所有している人の気が知れません。絵に込められている念は余り良い性質のものだとは感じませんから個人所有向きではなく公共の施設で所有すべきものかもしれませんね。
未来予測を過去から学ぶのは基本ですね。但し、その現象が発生した要素を十分理解でききていなければ過去からの未来予測は必ず外れます。それは経済学者が過去に似たような現象があったから今回も似たようなケースになるだろうと考えても大体外れて言い訳している事からもわかります。
今の時流なら京アニの放火魔を主人公に新聞社の本社ビルを放火する話がウケるかもしれません。
丁度、「Bonnie and Clyde」風の作品に仕上げれば丁度良いかと。確かあれはノンフィクション。アメリカ人がある意味理想とする生き方。アメリカが何故、銃社会なのかを説明している作品。書き方によったら名作になるかも?
しかし感想文の書き方は本当に不明でしたね。親は本の後書きをサンプルにして書けとよく言われましたけど。それでもかなり困りましたけど。最後の方はつまらない理由を延々と書き連ねて先生から怒りのコメントをもらった記憶がありますね。
型破りについて、私は王貞治もイチローもあまり型破りという印象はないです。彼らの打撃フォームは自身の体重移動がもたらす運動エネルギーを如何に効率良くボールに伝えるかというコンセプトが見ただけで伝わります。王貞治の体重は現役時代確か選手名鑑の数字だと80kg半ばだったと記憶しております。その彼が秒速1メートルの速度で動けばそれだけで真空中であると云う条件が付きますが1kgの物体が凡そ水平方向に80メートル動くだけのエネルギーが発生します。硬式野球のボール程度の重量の物体なら600メートル程動かせます。単純に筋肉だけで其れだけのエネルギーを生み出す事は薬物にでも頼らないと不可能だと米国では結論付けているようです。其れでもホームランを800本以上量産した選手は居ませんし、すると思われた選手は薬物違反で追放されました。実際、王貞治は同じ時代の外人選手よりも非力だったそうです。
イチローの場合は王貞治はフルスイングで限界以上のインパクトを出すことに拘ったのに対し、イチローは最小のスイングでフルスイング並みのインパクトを出すことに拘っています。
逸れを実現させる為机上の空論からに試行錯誤の末、完成させたのが一本足打法であり振り子打法です。
彼等のことは往年の名選手たちは批判したようです。ただ、彼らの言葉を分析すると自分が真似できない理由を並べているだけですから批判としては意味をなしていません。
イチローや王貞治が非凡なところは足を上げると云う動作は本来、投手の投球フォームに合わせてタイミングを取るための動作であること忘れていない点です。それはメジャーに行った後のイチローがメジャーの投手に合わせて振り子の幅を小さくした事からも伺いしれます。足を上げてのタイミングの取り方は投手が上げた足を地面についた瞬間にバットを引きボールをリリースする瞬間に自身の足を踏み込んで見極めるというのが基本的な工程です。メジャーの投手は上半身が強い為、日本の投手のように大きくゆったりとしたスタンスで投げませんから振り子の幅が大きいと対応できないんですね。
そしてわたしが一番イチローが優れている点だと思うのはバットを振ることで打撃が完結するのではなくバットを振ってボールを捉えた後、一塁ベースを駆け抜けてはじめて打撃が完結する点です。それは打って走るという基本的な野球の動作は決して独立して存在するのではなく密接に繋がっているという事を高度に理解できている事を証明するものだからです。
おそらく武道、武術で云う残心を意識的か無意識かわかりませんがかなり大事にする人物なのでしょう。
だから、イチローは内野安打の驚異的で変態的な数字を弾き出し無数の危険球に晒されても大きな怪我を一つもする事がなかったのでしょう。
結局、型破りは基本を極めた者が更なる高見を目指す為のものと結論付けるしかなさそうです。
絵画に至っては物欲に駆られたコレクターがオークションで何処まで金額を出すかによって決まりますから型破りもナニもありません。第一、評価されるの余程、運が良くない限り大体、晩年。最悪、死後です。大抵もう新しい作品が描かれる事がない希少価値が高まってから評価されるそんな感じです。
それは巨匠であれば幼少時の落書きにすら高値がつく事から証明されています。
ピカソの絵は確かに迫力はありますが正直、個人で所有している人の気が知れません。絵に込められている念は余り良い性質のものだとは感じませんから個人所有向きではなく公共の施設で所有すべきものかもしれませんね。
未来予測を過去から学ぶのは基本ですね。但し、その現象が発生した要素を十分理解でききていなければ過去からの未来予測は必ず外れます。それは経済学者が過去に似たような現象があったから今回も似たようなケースになるだろうと考えても大体外れて言い訳している事からもわかります。
今の時流なら京アニの放火魔を主人公に新聞社の本社ビルを放火する話がウケるかもしれません。
丁度、「Bonnie and Clyde」風の作品に仕上げれば丁度良いかと。確かあれはノンフィクション。アメリカ人がある意味理想とする生き方。アメリカが何故、銃社会なのかを説明している作品。書き方によったら名作になるかも?
しかし感想文の書き方は本当に不明でしたね。親は本の後書きをサンプルにして書けとよく言われましたけど。それでもかなり困りましたけど。最後の方はつまらない理由を延々と書き連ねて先生から怒りのコメントをもらった記憶がありますね。
くろの介様、深いご推察ありがとうございます。
王貞治氏は荒川博氏から一本足打法を指導されているんですよね。それまで投手として低迷していた選手に日本刀を持たせて半紙を切る動作を実際にやらせて、畳が擦り切れるまで続けさせることもしていました。
野球の指導でよく「切るように振れ」と言いますが、本当に切らせた荒川氏と、その切った感覚で一本足打法を完成させた王氏は異彩を放っていますね。
イチロー氏は野球の基礎レベルがものすごく高い人で、走攻守だけでなく元々投手でしたので投げられる。振り子打法のタイミングのとり方はメジャーの速い球に対処しづらいためステップの幅を狭めたり、右足を付けたままスイングしたりといろいろ研究して実践していましたね。
そう考えると大谷翔平選手も含めて、高校野球で投手と打者のふたつで結果を出していた「四番ピッチャー」選手は、世界に通用する人材なのかもしれません。松井秀喜氏は打者だけでしたが。個人的には少年野球時に投手だった清原和博氏に注目していましたが、後年薬物使用では期待を裏切られてしまいました。
読書感想文は本当に必要だったのか疑問が残ります。
言語習得には読む、聞く、話す、書くがたいせつで、国語教育では「書く」は「文字を書く」だけで「文章を書く」は教えてくれません。読書感想文はその「文章を書く」能力を見られるテストなのだと思います。ですが事前に書き方を教えられていませんから、書こうとしても書けるとはかぎらない。というよりまず書けません。ほとんど関係ない文章を連ねて文字数を埋めることしかできない子どもが多かった。
あとがきを参考に、はある意味至言かもしれませんね。
王貞治氏は荒川博氏から一本足打法を指導されているんですよね。それまで投手として低迷していた選手に日本刀を持たせて半紙を切る動作を実際にやらせて、畳が擦り切れるまで続けさせることもしていました。
野球の指導でよく「切るように振れ」と言いますが、本当に切らせた荒川氏と、その切った感覚で一本足打法を完成させた王氏は異彩を放っていますね。
イチロー氏は野球の基礎レベルがものすごく高い人で、走攻守だけでなく元々投手でしたので投げられる。振り子打法のタイミングのとり方はメジャーの速い球に対処しづらいためステップの幅を狭めたり、右足を付けたままスイングしたりといろいろ研究して実践していましたね。
そう考えると大谷翔平選手も含めて、高校野球で投手と打者のふたつで結果を出していた「四番ピッチャー」選手は、世界に通用する人材なのかもしれません。松井秀喜氏は打者だけでしたが。個人的には少年野球時に投手だった清原和博氏に注目していましたが、後年薬物使用では期待を裏切られてしまいました。
読書感想文は本当に必要だったのか疑問が残ります。
言語習得には読む、聞く、話す、書くがたいせつで、国語教育では「書く」は「文字を書く」だけで「文章を書く」は教えてくれません。読書感想文はその「文章を書く」能力を見られるテストなのだと思います。ですが事前に書き方を教えられていませんから、書こうとしても書けるとはかぎらない。というよりまず書けません。ほとんど関係ない文章を連ねて文字数を埋めることしかできない子どもが多かった。
あとがきを参考に、はある意味至言かもしれませんね。
- カイ.智水
- 2020年 06月13日 08時23分
[一言]
こちらこそ、毎回ご丁寧な返信ありがとうございます。
私も本コラムで気付かされることが多く、つい戯れ言のような事を書いてしまいます。
人格者・・・。
定義として、心が常に穏やかで忍耐強く出来ない約束はせず、やると決めた事は最後まで成し遂げる。
そう考えた場合、小説家は確かに人格者であるべきですね。
作品を途中で放り投げず定期的に最後まで書き続けるには忍耐強くなければなりません。書き上げたものを推敲するには感情的にならずに常に冷静でなければなりません。作品を完結させるには物事を最後までやり遂げる強い意志が必要ですから。
歴史的な作家さんの中には表面的には破天荒な人もいるようですが内面は人格者だったのでしょう。
その事は作家に限らず医者や教師にも云えますね。
気分次第で途中で仕事を投げ出されたら患者さんや生徒は困りますから。
尤も先生に関しては旧制の師範学校出の先生と大学の教育学部の先生は意識が根本的に異なようです。最近では小学校の男性教諭はロリコンという目で同僚の女性教師からは見られているそうですし。
しかし上辺だけを人格者を装う事は実は簡単です。人当たりよく接する事を心掛け、慈善活動を熱心に行う事で世間から人格者の評価は得られます。その方法で猟奇犯罪者は犠牲者を増やすことに成功していますからその効果は確かです。
お金がある場合はもっと簡単で慈善事業に出資するだけで済みます。そして出資額に比例して評価も高まるようですね。
現在、市場の独占や追加課税やらで問題になってるアップル、フェイス・ブックといった企業は拠出したお金が少ないと評価されてしまったようです。
同じ事は日本企業がアメリカで現在進行型でやられてますけどね。
但し、お金や上辺だけを取り繕って人格者をいくら装ったとしても過去の悪行が大きすぎれば胡散臭がられるだけのようです。
ビル・ゲイツ氏は自身の財団を通じてWHOやアメリカ政府を始めとした慈善団体に巨額の出資を行っています。
にも関わらず今回のコロナ騒動で感染拡大防ぐという名目でスマートフォンを通じて人間一人一人の動向を観測する仕組みを構築という話が出た事によってコロナ騒動の黒幕の一人という噂がネット上で囁かれるようになりました。
それは彼が過去に起こした不義理、当時日の沈まぬ帝国扱いされていたIBMを凋落させる切欠となった裏切り行為から端を発した悪評が原因でしょうか。
何れにせよ作家さんは上辺ではなく内面、少なくとも自分の作品に向き合う時は人格者である必要はありそうです。
こちらこそ、毎回ご丁寧な返信ありがとうございます。
私も本コラムで気付かされることが多く、つい戯れ言のような事を書いてしまいます。
人格者・・・。
定義として、心が常に穏やかで忍耐強く出来ない約束はせず、やると決めた事は最後まで成し遂げる。
そう考えた場合、小説家は確かに人格者であるべきですね。
作品を途中で放り投げず定期的に最後まで書き続けるには忍耐強くなければなりません。書き上げたものを推敲するには感情的にならずに常に冷静でなければなりません。作品を完結させるには物事を最後までやり遂げる強い意志が必要ですから。
歴史的な作家さんの中には表面的には破天荒な人もいるようですが内面は人格者だったのでしょう。
その事は作家に限らず医者や教師にも云えますね。
気分次第で途中で仕事を投げ出されたら患者さんや生徒は困りますから。
尤も先生に関しては旧制の師範学校出の先生と大学の教育学部の先生は意識が根本的に異なようです。最近では小学校の男性教諭はロリコンという目で同僚の女性教師からは見られているそうですし。
しかし上辺だけを人格者を装う事は実は簡単です。人当たりよく接する事を心掛け、慈善活動を熱心に行う事で世間から人格者の評価は得られます。その方法で猟奇犯罪者は犠牲者を増やすことに成功していますからその効果は確かです。
お金がある場合はもっと簡単で慈善事業に出資するだけで済みます。そして出資額に比例して評価も高まるようですね。
現在、市場の独占や追加課税やらで問題になってるアップル、フェイス・ブックといった企業は拠出したお金が少ないと評価されてしまったようです。
同じ事は日本企業がアメリカで現在進行型でやられてますけどね。
但し、お金や上辺だけを取り繕って人格者をいくら装ったとしても過去の悪行が大きすぎれば胡散臭がられるだけのようです。
ビル・ゲイツ氏は自身の財団を通じてWHOやアメリカ政府を始めとした慈善団体に巨額の出資を行っています。
にも関わらず今回のコロナ騒動で感染拡大防ぐという名目でスマートフォンを通じて人間一人一人の動向を観測する仕組みを構築という話が出た事によってコロナ騒動の黒幕の一人という噂がネット上で囁かれるようになりました。
それは彼が過去に起こした不義理、当時日の沈まぬ帝国扱いされていたIBMを凋落させる切欠となった裏切り行為から端を発した悪評が原因でしょうか。
何れにせよ作家さんは上辺ではなく内面、少なくとも自分の作品に向き合う時は人格者である必要はありそうです。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
ビル・ゲイツ氏は「マイクロソフトBASIC」で世界にマイコンを普及させたのは事実。なのですが、あまりにも多くの会社と手を組みすぎて、今なら独占禁止法に抵触するレベルですね。
その後DOS/Vという共通規格を制定して「MS-DOS」を一挙に普及させ、Apple「Apple II」の牙城を崩そうとします。
Appleが「Macintosh」を発表すると、外見のよく似た「Windows」を作って「MS-DOS」が走るマシンにそれを採用していった。
このあたりの商才は見事ですが、その結果共通規格の元となったIBM-PCを駆逐して、安価な中国互換機が市場を席巻することになったのは皮肉ですね。
ビル・ゲイツ氏とすれば自分たちの儲けが増えればパートナーは誰だってよいわけですから。
手を組んだIBMがいちばんバカを見ました。
ビル・ゲイツ氏は人格者というより商才に長けていただけで、無節操だった。
だから高額納税者番付で首位を快走していたときにさんざん批判されて、税金対策で慈善事業に寄付していると言われたくらいです。少なくとも自分を高く売れなかったのでしょう。
小説を書くなら、ビル・ゲイツ氏のような商才で成り上がる方も中にはいます。しかしたいていは長い下積みを経験していますから角のとれた方が多いのでしょうね。また自分の作品の出来に自信が持てないぶん、作品と向かい合うときは神経質なくらい気を遣っているように感じられます。
最近では又吉直樹氏の創作過程を追うドキュメンタリーを観ましたが、やはり自作には自信を持てなかったように映りましたね。
ビル・ゲイツ氏は「マイクロソフトBASIC」で世界にマイコンを普及させたのは事実。なのですが、あまりにも多くの会社と手を組みすぎて、今なら独占禁止法に抵触するレベルですね。
その後DOS/Vという共通規格を制定して「MS-DOS」を一挙に普及させ、Apple「Apple II」の牙城を崩そうとします。
Appleが「Macintosh」を発表すると、外見のよく似た「Windows」を作って「MS-DOS」が走るマシンにそれを採用していった。
このあたりの商才は見事ですが、その結果共通規格の元となったIBM-PCを駆逐して、安価な中国互換機が市場を席巻することになったのは皮肉ですね。
ビル・ゲイツ氏とすれば自分たちの儲けが増えればパートナーは誰だってよいわけですから。
手を組んだIBMがいちばんバカを見ました。
ビル・ゲイツ氏は人格者というより商才に長けていただけで、無節操だった。
だから高額納税者番付で首位を快走していたときにさんざん批判されて、税金対策で慈善事業に寄付していると言われたくらいです。少なくとも自分を高く売れなかったのでしょう。
小説を書くなら、ビル・ゲイツ氏のような商才で成り上がる方も中にはいます。しかしたいていは長い下積みを経験していますから角のとれた方が多いのでしょうね。また自分の作品の出来に自信が持てないぶん、作品と向かい合うときは神経質なくらい気を遣っているように感じられます。
最近では又吉直樹氏の創作過程を追うドキュメンタリーを観ましたが、やはり自作には自信を持てなかったように映りましたね。
- カイ.智水
- 2020年 06月07日 17時41分
[一言]
読んでわからないのは書き手がドヘタ・・・。
確かにそうなんでしょうが、上手下手以前に其処に伝えたい何かが込められているのか?と云う問題があるように思います。
実際、文学史で名作とされている作品は例外なくナニかしらの世界観、人生観が込められています。
そして、読み手と云う生き物は文字を読むのではなく書き手のが文章に込めた意志を読むのです。それ故に巧みな比喩や伏線に感銘を受け読んでいる作品を面白いと思うのです。
「宇宙戦艦ヤマト」のバックボーンは完全に先の大戦です。
戦場で命を散らした若者達に向けた「お前たちの死は決して無駄ではない」という一種の鎮魂作品です。だから高度経済成長期の末期に多くの人々が感銘を受けたのです。ガンダムは「先の大戦のことはいい加減にして未来を見据えよう」です。だから本放送が終了して数年後に再評価されました。
「銀河英雄伝説」は先の大戦を完全に忘れ「歴史の一部」とした上で日本人のバックボーン、諸行無常の人生観が巧みに挿入されることでウケたのでしょう。あくまでも生にしがみつく大陸的人生観が根底に流れた作品であれば多分、世には出なかった可能性すらあります。田中芳樹氏の作品はこれ以降全て諸行無常の人生観が込められるようなります。
孫子は小説というより実用書ですね。原文にビジネス上の事例を解説として記述するだけで結構なビジネス書が完成します。人間とは?という哲学はありますが其処に人生観はありません。諸氏百家というものは概ね古代の実用書として書かれているものですからですから仕方ありませんけど。
キャラ小説の一種の弊害なのでしょう。上辺のキャラの挙動の面白さに囚われ、作品の世界は文章で表現されていない所にも広がっている事を忘れている作家さんが多いようです。それ故に、世界観がない。人生観を感じない。そして作者の意志が感じられない。故にナニを伝えたいのかわからない作品が完成するのだと思います。
実際、小説サイトに小説を投稿する人はそれなりに己の技量に自信が有るから投稿するのでしょう。本当に伝えたい事が意識し存在しているのであればナニかが伝わる作品が書けると思うのです。
読んでわからないのは書き手がドヘタ・・・。
確かにそうなんでしょうが、上手下手以前に其処に伝えたい何かが込められているのか?と云う問題があるように思います。
実際、文学史で名作とされている作品は例外なくナニかしらの世界観、人生観が込められています。
そして、読み手と云う生き物は文字を読むのではなく書き手のが文章に込めた意志を読むのです。それ故に巧みな比喩や伏線に感銘を受け読んでいる作品を面白いと思うのです。
「宇宙戦艦ヤマト」のバックボーンは完全に先の大戦です。
戦場で命を散らした若者達に向けた「お前たちの死は決して無駄ではない」という一種の鎮魂作品です。だから高度経済成長期の末期に多くの人々が感銘を受けたのです。ガンダムは「先の大戦のことはいい加減にして未来を見据えよう」です。だから本放送が終了して数年後に再評価されました。
「銀河英雄伝説」は先の大戦を完全に忘れ「歴史の一部」とした上で日本人のバックボーン、諸行無常の人生観が巧みに挿入されることでウケたのでしょう。あくまでも生にしがみつく大陸的人生観が根底に流れた作品であれば多分、世には出なかった可能性すらあります。田中芳樹氏の作品はこれ以降全て諸行無常の人生観が込められるようなります。
孫子は小説というより実用書ですね。原文にビジネス上の事例を解説として記述するだけで結構なビジネス書が完成します。人間とは?という哲学はありますが其処に人生観はありません。諸氏百家というものは概ね古代の実用書として書かれているものですからですから仕方ありませんけど。
キャラ小説の一種の弊害なのでしょう。上辺のキャラの挙動の面白さに囚われ、作品の世界は文章で表現されていない所にも広がっている事を忘れている作家さんが多いようです。それ故に、世界観がない。人生観を感じない。そして作者の意志が感じられない。故にナニを伝えたいのかわからない作品が完成するのだと思います。
実際、小説サイトに小説を投稿する人はそれなりに己の技量に自信が有るから投稿するのでしょう。本当に伝えたい事が意識し存在しているのであればナニかが伝わる作品が書けると思うのです。
くろの介様、いつもご感想を頂きましてありがとうございます。
おっしゃるとおりで、キャラクター小説としての一面が強すぎるライトノベルでは、主人公には見えていない世界を把握できません。これについては二回先で現在執筆中のコラムでも言及しています。
「テーマ」が込められた作品なら、どんな物語でも「テーマ」は伝えられるはずなんですよね。そこまで気がまわっていないか、最初から気づいておらずノリだけで書き始めたのかはわかりかねますが。おそらく後者だと思っていたほうが救いはありそうです。
小説投稿サイトに限らず、小説は読み手へ「テーマ」を投げかけて、考えさせるためにあると捉えています。つまり読み手が「テーマ」について考えられないなら凡作。「テーマ」をあれこれ考えだしたら「秀作」といった具合で。ここまで書いて、この「読み手へ「テーマ」を投げかけて考えさせる」がコラムのテーマにふさわしいような気がしてきました。これをネタにして一本書きたいと思います。
くろの介様とお話ししていると、いろいろな気づきが得られて楽しいですね。
またお時間がございましたら、ご感想でもメッセージでもかまいませんので、ご指摘いただければと存じます。
おっしゃるとおりで、キャラクター小説としての一面が強すぎるライトノベルでは、主人公には見えていない世界を把握できません。これについては二回先で現在執筆中のコラムでも言及しています。
「テーマ」が込められた作品なら、どんな物語でも「テーマ」は伝えられるはずなんですよね。そこまで気がまわっていないか、最初から気づいておらずノリだけで書き始めたのかはわかりかねますが。おそらく後者だと思っていたほうが救いはありそうです。
小説投稿サイトに限らず、小説は読み手へ「テーマ」を投げかけて、考えさせるためにあると捉えています。つまり読み手が「テーマ」について考えられないなら凡作。「テーマ」をあれこれ考えだしたら「秀作」といった具合で。ここまで書いて、この「読み手へ「テーマ」を投げかけて考えさせる」がコラムのテーマにふさわしいような気がしてきました。これをネタにして一本書きたいと思います。
くろの介様とお話ししていると、いろいろな気づきが得られて楽しいですね。
またお時間がございましたら、ご感想でもメッセージでもかまいませんので、ご指摘いただければと存じます。
- カイ.智水
- 2020年 06月05日 17時58分
[一言]
自分を除く1人の人のために書く・・・。
無自覚の同好の志は大事にするですかね。
SNSのコメント、「お悔やみ申し上げます」というようなYESしか付けようのないコメントに対してさえNOとする人が存在します。その数が大体、1000人に対して10人から20人程度、単純計算で1パーセントから2パーセントぐらいです。その事から物語が動き出すまで読んでくれる人が1000人居れば、かなり尖った偏屈で反社会的内容でも10人から20人程度の支持者は得られる計算になります。
でもその少数の人達は何故、大多数の人とは真逆の反応を示したのか理解できていないことが殆どです。
私が思うに一定の割合で他の個体とは真逆の行動を採るという種の保存の法則が影響していると考えていますが。
何れにせよ物語を最後まで読んで貰わなくても佳境部分までは辿り着いてもらうだけの技量は必要そうですね。
自分を除く1人の人のために書く・・・。
無自覚の同好の志は大事にするですかね。
SNSのコメント、「お悔やみ申し上げます」というようなYESしか付けようのないコメントに対してさえNOとする人が存在します。その数が大体、1000人に対して10人から20人程度、単純計算で1パーセントから2パーセントぐらいです。その事から物語が動き出すまで読んでくれる人が1000人居れば、かなり尖った偏屈で反社会的内容でも10人から20人程度の支持者は得られる計算になります。
でもその少数の人達は何故、大多数の人とは真逆の反応を示したのか理解できていないことが殆どです。
私が思うに一定の割合で他の個体とは真逆の行動を採るという種の保存の法則が影響していると考えていますが。
何れにせよ物語を最後まで読んで貰わなくても佳境部分までは辿り着いてもらうだけの技量は必要そうですね。
くろの介様、いつもご感想頂きまして誠にありがとうございます。
自分の「好き」を形にするのはたいせつですが、それを「自分」に向けては駄目なんですよね。他の誰かじゃないと「伝える」ように書けませんので。
SNSのコメントで荒れてしまうのは、ほとんどとばっちりでしかないですよね。送り手側が自分の気分で書き込めてしまうのがSNSという場所ですから。自分の言葉がインターネットを介して「世界中」に拡散してしまう。アメリカのドナルド・トランプ大統領は既存テレビ局をほとんど締め出し、FOXニュースとTwitterでのみ情報を発信しています。しかしそのTwitterが自らの発言に注意を付けたり削除したりしたとして、懲罰しようと動いていますけどね。これなどはマッチポンプなんじゃないかと思ってしまいます。
最後の「物語の佳境まで読んでもらう」のは確実に実施したいですね。
読み手は結末なんて本当はどうでもよいのです。
ただ「ワクワク・ハラハラ・ドキドキする佳境」が読みたいだけなのですから。
そこまで読み手を連れていくのが書き手の約目ですね。
自分の「好き」を形にするのはたいせつですが、それを「自分」に向けては駄目なんですよね。他の誰かじゃないと「伝える」ように書けませんので。
SNSのコメントで荒れてしまうのは、ほとんどとばっちりでしかないですよね。送り手側が自分の気分で書き込めてしまうのがSNSという場所ですから。自分の言葉がインターネットを介して「世界中」に拡散してしまう。アメリカのドナルド・トランプ大統領は既存テレビ局をほとんど締め出し、FOXニュースとTwitterでのみ情報を発信しています。しかしそのTwitterが自らの発言に注意を付けたり削除したりしたとして、懲罰しようと動いていますけどね。これなどはマッチポンプなんじゃないかと思ってしまいます。
最後の「物語の佳境まで読んでもらう」のは確実に実施したいですね。
読み手は結末なんて本当はどうでもよいのです。
ただ「ワクワク・ハラハラ・ドキドキする佳境」が読みたいだけなのですから。
そこまで読み手を連れていくのが書き手の約目ですね。
- カイ.智水
- 2020年 06月02日 19時24分
[一言]
ダークヒーローを小説で書くのは難しそうですね。例に挙げられている作品は漫画ないしはアニメといった映像で訴えかけるものばかりですし。ハンニバル・レクターは日本では小説というより映画化したことでヒットしたイメージが強いですし。
古典的にもルブランのアルセーヌ・ルパンぐらいでしょうか?
ダークヒーローモノは一昔前は必ず最後は自らの行動の報いを受けなければならないというような不文律のお約束があるため作家としては書き辛かったかもしれません。
アルセーヌ・ルパンは相思相愛になった女性は必ず不幸が訪れるという裏設定がありますし。
正直、私が最も最近、印象に残ったダークヒーローモノは「ガンダムW」と「コード・ギアス」というアニメですし。
どちらも絵柄に耽美趣味が入っているため上手に誤魔化していますが、主人公は肉体派、頭脳派の違いはあれど反社会的少年テロリストです。突きつけているテーマも印象的な台詞に巧妙に隠されていますが実際に言葉にすると一部の人間たちが発狂しそうな鮮烈なものです。「ガンダムW」が突き付けたテーマは「平和は大切」なんて温いものではなくなく「平和を得るためには必ず誰かが血を流しているという事の自覚があるのか?そして我々はそれを享受する資格はあるのか?」です。
「コード・ギアス」はコンセプトが「アーサー王物語」の善玉悪玉の逆転、モルドレッドを主人公、魔女モルガン・ルフェイをヒロインに据え、アーサー王自身を巨悪に設定するという逆転の発想の非常に理解し辛く模倣が困難な作品です。
こちらも印象的な台詞で誤魔化されますがテーマは「自由を放棄して秩序を求めるか?或いは自由を求めて、秩序を放棄して死ぬまで戦うか?」です。
そして双方共にスニーカーでノベライズされていますがアニメほど強い印象を与える作品ではありません。
ラノベではダークヒーローは偶に見かけることはありますが人気の出た作品というモノは聞いた事はありません。但し、対象年齢を上げてエロスと暴力描写を生々しく描いた作品群、最近逝去された勝目梓氏或いは菊池秀行氏、夢枕獏氏といった当初ラノベからスタートした作家さんは一部で根強い人気のあるダークヒーローモノの小説を書きます。
まぁダークヒーローモノが書きたければ「なろう」ではなくては「ノクターン」や「ミッドナイト」といった成人指定で書けという事でしょう。ダークヒーローこんていにあるのは主人公の格好良さの追求ですから。それは据え膳を食わないという選択肢はコンセプトから外れる事を意味しますので仕方ありませんね。
ダークヒーローを小説で書くのは難しそうですね。例に挙げられている作品は漫画ないしはアニメといった映像で訴えかけるものばかりですし。ハンニバル・レクターは日本では小説というより映画化したことでヒットしたイメージが強いですし。
古典的にもルブランのアルセーヌ・ルパンぐらいでしょうか?
ダークヒーローモノは一昔前は必ず最後は自らの行動の報いを受けなければならないというような不文律のお約束があるため作家としては書き辛かったかもしれません。
アルセーヌ・ルパンは相思相愛になった女性は必ず不幸が訪れるという裏設定がありますし。
正直、私が最も最近、印象に残ったダークヒーローモノは「ガンダムW」と「コード・ギアス」というアニメですし。
どちらも絵柄に耽美趣味が入っているため上手に誤魔化していますが、主人公は肉体派、頭脳派の違いはあれど反社会的少年テロリストです。突きつけているテーマも印象的な台詞に巧妙に隠されていますが実際に言葉にすると一部の人間たちが発狂しそうな鮮烈なものです。「ガンダムW」が突き付けたテーマは「平和は大切」なんて温いものではなくなく「平和を得るためには必ず誰かが血を流しているという事の自覚があるのか?そして我々はそれを享受する資格はあるのか?」です。
「コード・ギアス」はコンセプトが「アーサー王物語」の善玉悪玉の逆転、モルドレッドを主人公、魔女モルガン・ルフェイをヒロインに据え、アーサー王自身を巨悪に設定するという逆転の発想の非常に理解し辛く模倣が困難な作品です。
こちらも印象的な台詞で誤魔化されますがテーマは「自由を放棄して秩序を求めるか?或いは自由を求めて、秩序を放棄して死ぬまで戦うか?」です。
そして双方共にスニーカーでノベライズされていますがアニメほど強い印象を与える作品ではありません。
ラノベではダークヒーローは偶に見かけることはありますが人気の出た作品というモノは聞いた事はありません。但し、対象年齢を上げてエロスと暴力描写を生々しく描いた作品群、最近逝去された勝目梓氏或いは菊池秀行氏、夢枕獏氏といった当初ラノベからスタートした作家さんは一部で根強い人気のあるダークヒーローモノの小説を書きます。
まぁダークヒーローモノが書きたければ「なろう」ではなくては「ノクターン」や「ミッドナイト」といった成人指定で書けという事でしょう。ダークヒーローこんていにあるのは主人公の格好良さの追求ですから。それは据え膳を食わないという選択肢はコンセプトから外れる事を意味しますので仕方ありませんね。
くろの介様、いつもご感想ありがとうございます。
ダークヒーローものは小説では本当に難しいですね。
例に挙がった『新機動戦記ガンダムW』と『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、おっしゃるとおりともにノベライズされましたが、売上がよかったという反響は聞きません。マンガが売れたのは知っていますけど。
勝目梓氏は私の存じない方なので判断が難しいのですが、菊地秀行氏や夢枕獏氏は確かに「ダークヒーロー」の印象が強いですね。
ご提言どおりエロスを含んだバイオレンスの要素が強い作品が多いので、今のところ「ダークヒーロー」小説を書くなら成人指定の作品がベストかもしれません。
私が例に挙げた『DEATH NOTE』も小説が売れたという話は聞かないんですよね。このあたりも『週刊少年ジャンプ』の読み手と小説の読み手になかなか接点がない証左かもしれません。
ダークヒーローものは小説では本当に難しいですね。
例に挙がった『新機動戦記ガンダムW』と『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、おっしゃるとおりともにノベライズされましたが、売上がよかったという反響は聞きません。マンガが売れたのは知っていますけど。
勝目梓氏は私の存じない方なので判断が難しいのですが、菊地秀行氏や夢枕獏氏は確かに「ダークヒーロー」の印象が強いですね。
ご提言どおりエロスを含んだバイオレンスの要素が強い作品が多いので、今のところ「ダークヒーロー」小説を書くなら成人指定の作品がベストかもしれません。
私が例に挙げた『DEATH NOTE』も小説が売れたという話は聞かないんですよね。このあたりも『週刊少年ジャンプ』の読み手と小説の読み手になかなか接点がない証左かもしれません。
- カイ.智水
- 2020年 05月27日 17時19分
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