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[一言]
身も蓋もない言い方をすれば恋愛は衝動。結婚は周囲からの同調圧力です。そして恋愛ものは衝動的に心中し不倫したりする作品が古典的名作に多いのですね。

リアルでも恋愛結婚したカップルほど離婚し易いというデータが出ているようです。

生物的に遺伝子を補完しあうという本能は相変わらず先天的な遺伝障害の保有者が減少しないことを考えるとあまり機能はしていないようです。小説の世界でもの黒人と白人の恋愛に反対する台詞に「生まれて来る子供のことを考えろ。お前たちは良くても、お前たち子供は将来、白人と黒人の両方から差別されれ、居場所は何処にも無いんだぞ。」と云うものが出てくる作品はないようです。

人類史上最大のべストセラー聖書も恋愛に関してはかなり解釈は怪しいですね。姦淫をやたら否定する癖に人工受精、体外分娩に否定的ですから。姦淫しなかったら人工受精に頼るしかないでしょうに。世界的宗教の教典なのですからしっかりとしたプロットと構想で再編集して旧約、新約、に並ぶ未来志向の第三の聖書を編纂してもらいたいものです。

話は逸れましたが恋愛とは何でしょうね。最近に至っては24時間一緒にいるだけで醒めてしまう程、千年の恋は儚い事が判明しましたし。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

恋愛は本当によくわからないんですよね。
よく「恋愛は理屈じゃない」と言いますが、理屈がないと私には理解できないんですよね。
私としては「単に相手を独占したいから」に行き着きました。そして一度独占したら「手放したくない損なわれたくない」が出てくる。これが「恋愛」のひとつの形かなと思って本編を書きました。

聖書はたしか「世界で最も読まれた書籍」でギネス世界記録を獲っていたと記憶しています。
「汝姦淫するなかれ」で子どもはどう作ればよいのか。おっしゃるとおり矛盾ですよね。
そのひとつの答えが「聖母マリアの処女受胎」なのでしょうけど。
でも理屈で考えれば、受精卵もなしに妊娠はできません。そして受精するには当時は姦淫するしかない。
キリスト教は人類を根絶したいのでしょうかね?
それで信徒が増えたら、間違いなく人類は減っていきます。
キリスト教の元はギリシャ神話で、こちらは逆に手当たり放題なんですよね。主神ゼウスがそもそも浮気性で、正妻のヘラが後始末に追われるほど。
人類の繁栄という点だけでいえば、ギリシャ神話のほうが適しているのかもしれませんけどね。
だからキリスト教では主神ゼウスのような奔放さを排除したいのかもしれませんが。
[一言]
神や悪魔、巨人、強大な宇宙からの侵略者。何れも地上での決戦とかは避けるべきですね。でないと世界が滅びます。太古の人々は流石に良く理解されているようで北欧神話を筆頭に神々の全面戦争が発生すれば世界を滅ぼしています。

リアルでも亜光速まで加速させた有質量の物体は衝突させれば惑星を砕くほどのエネルギーを保有してますから。世界を創造ような連中が発生させるエネルギーなんて簡単に地表を焼き払うでしょう。
昔、一兆度の火の玉を吐く、怪獣が登場する子供向けのテレビ番組がありましたが、子供の時は感動しましたが、大人になるとそんなもん吐いたら熱伝導率なんか無関係に一瞬で地表の温度が3桁、4桁は軽く突破してトンでもないことになるぞとツッコミが入ります。

読み書きを始めた子供ではなく最低限の知性が要求される小説の読者を相手にはあまりいい加減な企画では登場させられませんね。

最近は王女も王子も勇者もロクデナシかウザイ優等生にする傾向が強いです。

でもよく考えると古典も騎士と王女という組み合わせは不倫しかしていないように感じますね。アーサー王は世界最古の寝取られ主人公ですし。童話に登場する王子はロリコンは序の口の特殊性癖の持ち主ばっかりのような気がしますし。王女もヘラクレスの嫁みたいにロクな事をしてないような気がします。

不思議なものですね。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

超越者同士のバトルは、ぜひ地球外でお願いしたいところですね。なにが起こって巻き込まれるかわかりません。マンガの鳥山明氏『ドラゴンボール』だって、地上で戦うから山は砕くわ海は割るわで天変地異も甚だしい。

小説投稿サイトの「異世界ファンタジー」だと、たいていろくでもない王子や王女、勇者が出てきますよね。彼らに裏切られた人物が主人公でざまぁするなんてすでに古典の域です。優等生なキャラならまだ理性的なだけマシなのですが。

古典の王子や王女は「一癖も二癖もある」タイプが多いですよね。そのほうが物語が作りやすいというのもあるのでしょうけど。
ギリシャ神話だって神を人間に置き換えてみても、ろくな人がいません。ゼウスは女好き、ヘラは嫉妬心が強すぎ、ハーデスは冥界から地上を虎視眈々と狙っている。ヘラクレス自身もとんでもない性格だし、賢者とされるケンタウロスだって無類の酒好き女好きです。
人物の多彩さを考えると、まともな人間だけだと面白くならないのでしょうね。民間伝承が口伝てで語られたとしても、面白くなければ次世代へは受け継がれませんし。
だから伝播するたびにどんどん癖の強い人物に仕立て上げられるのかも。
[一言]
数学的には3は最もバランスの取りやすい数ですね。3人寄れば文殊の知恵とも云います。但し、心理学的には1人と2人に分裂し易く個々人が均等に距離感を保たないと1人だけ疎外される関係になり易いといわれます。女性の場合は3人集まれば1人をイジメのターゲットにしてしまう関係になりやすいそうです。4人の場合は距離の近い2人が一緒になって分裂しグループを保つ事が難しいそうです。5人の場合は2組の2人組のグループの仲介役として1人が特化しバランスを取る事によって集団を維持しやすくなるそうです。イスラム教の妻4人の根拠は夫がバランサーとなるが前提の5人グループです。7人の場合はバランサーとなる個人の負担が大き過ぎる為、集団を維持しにくいそうですね。1人の人間が管理できる人の数は5人ぐらいまでが無難と云う統計がありますからこの様な結果になるのですね。一見例外に見えるAKBに代表されるようなアイドルグループは5人ぐらいの集団を集め下のリーダーを上のリーダーが纏めるという軍隊組織構造なのでしょう。だから集団を維持できているのでしょう。そういえばチンギス・ハンの後宮もその様な組織体制でしたので彼は後宮での人間関係に足を引っ張られ事とは無縁だったようです。

神や悪魔の扱い難しいですね。登場させたのは良いけれども、話し方がフレンドリー過ぎて雰囲気をぶち壊しているケースが多いですね。「お前は本当に神か?」というツッコミを入れさせることを目的としている場合は良いのですが。

神や悪魔を出すのであれば、その存在の意思表示や感情表現を台詞なしで情景描写や主人公自身の目を通して行うといった隠喩法を駆使した高等テクニックが必要な気がします。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。
お返事が後れて申し訳ございません。

例示するときも「三例法」があるくらいなので、「三」は特別な数なんでしょうね。
「五」も「五体満足」や「指が五本ある」と人間に馴染みが深いので管理しやすいのかもしれません。
バランスをとりやすい反面、これで失敗すると「根本がなっていない」とみなされるので、手抜きができないんですよね。

神や悪魔を主人公にするのは本当に難しい。
超越者である以上、他の登場人物を意識する必要がないのですから。
本来なら人命はなにものにも代えがたい貴重なものとして扱われますが、神や悪魔から見ればただの虫けら同然。そういう小説が正当に評価されるのはかなりの筆力を要するでしょう。
おっしゃるとおり、物語に神や悪魔を登場させるだけでもひと苦労します。へたにフランクに書くと威厳がなくなってしまうし、威厳を求めると浮いた存在になりやすい。
まぁ読み手が神や悪魔になにを求めているのか、が書き分ける際の基準になると思います。
フレンドリーな神がいてもよいと思う読み手が多いなら、それも「あり」かもしれません。
まぁキリスト教やイスラム教でフレンドリーな神様なんてことにしたら一大事になりそうですが。
[一言]
前回を読んでから続きを執筆する。それを忠実に実行しても書き漏れは防げないでしょう。企画書~プロットを省略する人間は基本的に気分が高揚している勢いで執筆します。その高揚感を持続した状態で前回を読んでも書いてない事柄が書いているように見えてしまうのです。丁度、幻覚を見ているような状態ですね。記憶力が良い人は特に気をつけなければなりません。修正を繰り返すと簡単に簡単に記憶の交錯が起きてしまい書いた事が書いてない、書いてない事を書いたと云う記憶の取り違えから来る幻覚を見ます。その事は疲労を回復してから冷静になって読み返して初めて気づきます。何で前回、チェックした時、気付かなかったのだろうと。恐ろしいことに記憶もそうなっています。思い込みは簡単に自分の記憶を書き換えるという体験は設計書を見ながらプログラムを組む作業をしていると本当によくあります。プログラムの場合は最悪、テストしてれば気付きますけど。小説の場合はテストはありませんからこの手の問題は気付けないでしょう。プロの作家には必ず編集さんが付くのはその様な問題を解決する事も含んでいるのでしょう。
個人で出来ることは書くべき複線をリスト化して書いた書いていないをチェックする事ぐらいでしょうか。
受賞目的の小説は最後まで書き上げてから一度時間をおいてから冷静に読者視点で読んでみるぐらいで丁度良いかもしれません。

確かにご近所さんぐらいは挨拶した方が良いですね。集合住宅の形態によっては自治会もなくご近所付き合いを重視していない所も多く、私自身も経験しましたが隣人の顔を一度も見たことがないなんて事もよくありますし。それでもご近所さんなら一度でも顔を会わせるれば挨拶しますし。会社なら自分の周囲の席の人間には挨拶が帰ってこなくても挨拶はしておきます。それが社会性、身を守る手段ですから。
SNSなんて究極的には無視しても問題ないものです。需要な要件なら直接、言ってくるか郵送するものですからね。
しかし中にはSNSが原因で自殺する人がいます。私はその事が不思議でなりません。まるでナニカに憑かれているように感じます。否定する訳ではありませんがどうしても好きになれないですね。
くろの介様、コメントありがとうございます。

なまじ記憶力がよいと、かえって書いた、書いていないの取り違えは発生するんですよね。
おっしゃるとおりチェックシートを書くのがいちばんですが、やはり「企画書」「あらすじ」「箱書き」「プロット」を経て欲しいところです。これでどこになにを書くのかは明確になりますので、うっかりをかなり防げます。

SNSが原因で自殺する方がいらっしゅいますよね。
そして多くの方はSNSを見なければよいという。ですが自分に自信がない、誰かとつながっていたいと思う心がSNS利用を後押しするのですから、どだい無理な話です。
誰かとつながっていたいのに、話を聞いてくれるはずの方々から罵詈雑言が飛んでくる。心が弱いですから打たれ弱いんですよね。SNSのメリットとデメリットが如実に現れた例かもしれませんね。
[一言]
小説で詰まる原因は確かに知識不足もあるでしょう。しかし現在はインターネットが発達したお陰で簡単に解説付きの知識が手に入ります。図書館に行って百科事典や参考文献らしきものを読み漁って探す必要もありません。もし本当に知識不足が原因ならその作家さんはプロを目指すには横着が過ぎるでしょう。

「技能実習制度」については私は不備の多い法律という解釈します。日本では「雇用者が労働者に意に添わぬ労働を労働基準法から外れた条件で適正な報酬なしで強要」した事が発覚すれば確実に雇用者は処罰されます。そのため「技能実習制度」の問題はそれを利用する側の問題であり、それ以上に奴隷のような扱いでもマシと思え応募する人間がいるる国が存在する事の方がより問題なのです。生まれ故郷で望むような条件の仕事が得られるのであれば拉致された訳でもないのに誰が異国へ出稼ぎに行くでしょう。海外の出稼ぎのプロスポーツ選手なんかは命が保証されているだけの古代ローマの剣闘士にしか見えません。

基本的に人類社会は偉人の成果に凡人が寄生するという構造で構築されています。奴隷制度はその最たるものです。人間は自分の能力で日々の糧を得ると事の出来る者と出来ない者に分けられます。自然界では生存規定に満たない個体は速やかに生を終え自然界へリサイクルされることが要求されます。そして困ったことに優秀過ぎる個体は独りで何人分もの糧を獲得し、その個体が存在しなければ十分に日々の糧を得られる個体すら得られなくしてしまいます。奴隷制度は生存規定の条件を満たさない個体に対して労働を配分し獲得した日々の糧を再分配する事で自然界にリサイクルされる個体を救済する事が目的で作られた制度と解釈されます。考案者は現代であればノーベル平和賞獲得間違いなしの偉業です。放置すればよい存在を手間暇掛けて救済しているのですから当然ですね。少なくとも獲得する確率はノーベル症作家村上春樹氏よりも高いと思われます。

そんな奴隷制度を適用するには人間には根本的な問題があります。それは倫理観が発達した社会でしっかりと教育を受けて成長していない人間は野生の動物も同じ、寧ろ知能が高い分、遥かに凶悪ですから暴力と餌付けと云った「飴と鞭」で従えるしかないという問題、「自分自身を特別扱いしたがる」と云う生存本能に根差した問題です。その結果自分よりも立場が低いと見なされる個体に対する差別意識です。それは過度な施しを行うことで差別意識を満足させる者、そもそも奴隷制度が悪とされる原因ともなる鎖に繋ぎ過剰な暴力を振るう事で満足させる者を発生させる結果となりました。


それ以上の問題は自分よりも優秀な個体を奴隷にしてしまう事です。そんな事をすれば当然反発します。その結果、様々な問題が生じ最悪、国が崩壊してしまいました。その問題を解消するために次の偉人は一神教を誕生させました。そんな事言うと信者から怒られそうですが一神教の神髄は神という目に見えない存在を奴隷主にする事で人類を全て奴隷化することで差別をなくし日々の糧を平等に分配することです。教典の中に神を羊飼いと称し、人間を仔羊とわざわざ置き換えていることから元ネタが慈悲深い奴隷主が所有する奴隷を統制するために作った規則だということがわかります。それでも目的は十分に果たせず、今度は神からの距離で序列を付けるという手段に出ました。一神教から神すらも廃し全ての人間を主人なしの奴隷にしようとしたのが共産主義です。

何れもただの思想に止まる限り実害はありませんが政治と結びついた事から様々な弊害を起こしました。政治の政治の目的は日々の糧の再分配です。それは優先して生かすべき人間を選別する事でもあります。政治と結び付いた思想は容易に生かすべき人間を決定するためのチェックリストに使用されます。そして優秀な人間が優先順位の低い側に回され逆に無能な人間が優先順位高になった場合、当然反発しその結果その国家は崩壊します。ソビエト連邦が崩壊した理由は色々言われていますが究極的には歴代の指導層が特別扱いされるほど優秀でなかったことが原因です。

現在、地球は人類は環境、戦争、貧困、人権といった大きな問題を抱えています。それらの問題は、人類の生存環境のりソースが人類の数に比べて小さいというただ一つの要因を元に発生しています。コンピューターシステムに例えるなら地球というマシンに人類社会というプラットフォーム上で人類というアプリをアーキテクチャを70億ものタスクとして同時起動している状態です。システム屋の視点であれば障害を起こすのも無理はないどころか寧ろいつダウンしてもおかしくない。よく動いているな。という感想を漏らすはずです。

そして解決する手段は3つしかありません。1つ目はリソースを増やす。2つ目はタスクを減らす。3つ目はプラットフォームのアーキテクチャーをより効率のよいものに換装した上でそれに併せてアルゴリズムの見直しをかけて改修しロードモジュールを再構築する。
というものです。しかしそれらを問題にする集団は決して根本原因に触れずただ文句を言うだけです私は彼らのことを恫喝屋のたかり業者と見なす所以でもあります。それどころか最近、一部の団体は正気を失いつつあるのか起動中のロードモジュールやプラットフォームに対してバイナリーエディタで直接、問題ロジックを通過しないという改修を入れろと騒いでいる始末です。それも検証も何もせずにです。彼らの言う通りにすれば人類は早晩に詰むでしょう。それぐらいなら国連機関の全職員を日本人にしろとでも提案する方がましです。少なくとも世界は現状よりかは良くなりますから。

現代、発生している問題は太古の偉人が日々の食い扶持を自力で稼げない人々の救済を考えなければ発生しなかった問題でもあります。

単純に奴隷制度を悪とする事は簡単です。そうなると自動的に自分で日々の糧を得ることのできない人間を見捨てる行為は正義となります。逆に正義とすると環境の悪化や戦争や差別は正義となります。

ネットに投稿される多くの作家さんは上辺だけで善悪を判断することが多いです。高い評価を得て業界に長年君臨するようなプロの作家さんは善悪は相対的に判断しますし一度、悪と断じてしまえば決して作中でブレることはありません。

最後に作家という職業は作業時間と原稿料だけで見るなら第三者視点では出版社の奴隷と判断されておかしくありません。
更に過去の偉人が構築した出版業というビジネスモデルに寄生しています。もしそれを否定するなら自分の書いた小説を売るためだけに出版業を立ち上げる必要があります。そんな事は村上春樹氏にもできません。そしてやろうとも考えないでしょう。しかしそれでも作家を奴隷と呼ぶ人はいません。

おそらく現役を続けている作家さんは自分の職業にナニかしらの価値を見いだしている為だと私は考えています。

結局奴隷か否かを決める基準は自分の境遇にナニかしらの価値を見いだせるかどうかなのかもしれません。

くろの介様、ご感想ありがとうございます。
このたびはたいへん多くの指摘がされたと思っております。

キリスト教やイスラム教に代表される一神教は、順列社会、階層社会を生み出したのは事実ですね。
そしてマルクス・レーニン主義とも呼ばれる共産主義も、神を省いていわゆる「神の子」である「独裁者」を生み出し、歪んだ社会構造を生み出しました。
形式上の社会共産主義は現在、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、イラン、キューバくらいでしょうか。
開明政策からキューバはいくらか脱しつつありますが、ロシアとシリアが独裁者に絡め取られようとしています。
 独裁者を中心とした社会共産主義というと、現在の日本も入るんですよね。8年にもわたる安倍晋三内閣総理大臣の政権で「アベノミクス相場」が形成され、なんの根拠もないのに日経平均株価が上がり続けるという不平等が生み出されました。これも奴隷と言えなくもないんですよね。

プロの書き手が出版社の奴隷、というのは印税の仕組みを見てもわかりますね。なぜ頭を悩ませた書き手の取り分が出版社よりも少ないのか。中間搾取が過ぎるのではないか。多作がきかないため、少なくとも一万部売れたら一年は暮らせないと成り立たない商売なのですが。

奴隷の線引きは、使われている人間側の判断はあるかもしれません。しかし日本人の最低賃金よりもはるかに安く働かされている外国人はどうなのでしょうか。彼ら彼女らは自国で働くよりはドル換算では高給取りであるのは事実ですが、その作業を日本人にやらせたときの工賃と比べたら。やはり安すぎると感じます。
「技能実習制度」は現状では「本人が受け入れている奴隷制度」という歪んだものかもしれません。本人が受け入れているのだから、奴隷働きはさせていない。そう抗弁できるんですよね。
いずれにせよ、人類が階層社会を生み出した頃から現在まで、奴隷がいなくなることはないのかと思うと、少し気が重くなります。
[一言]
マメな取材を通して新しい事を体験する事は商品を書く上で非常に大切な事だと思います。
それと同時に作家自身が過去に体験した事を思い返す事も大切だと思います。特に人間は全て例外なく子供時代を得て大人になります。自分は子供の時、何を思い、周囲の子供はどの様な言動をしていたでしょうか。

異世界転生モノの多くは何故か主人公が10才未満の頃のエピソードに拘り結構な文を費やします。そのこと自体は成人指定でない限り問題はないのです。しかし、前世の記憶を引き継いだ設定を持つ主人公は別にしてその設定のない周囲の普通の子供たちまで、主人公と同じ精神レベルで会話している作品を時折見かけます。確かに現実でも頭の良い子供は妙に大人びた会話をします。それでも感情の抑制は大人ほど強くはありませんから所々、年相応な仕草がでます。
10才未満と最初に年齢に対して断りを記述したのであれば特別な設定のない脇役の子供の言動は自身の体験を通して現実に則した形で書く必要があります。そうでないと読者自身も子供時代を当然経験していますから読者に違和感を生じさせてしまい評価が下がります。
子供時代が思い返せないのであればエピソードもそこそこにして上手くかける年齢まで進めてしまうべきなんですけどね。

小説を書くための取材も新しい体験もそのままでは小説にはならないと思います。

元々、小説は作家自身のミミズのような人生に尾鰭背鰭、胸鰭、尻鰭、ついでとばかりに羽根までつけて最後のトドメとばかりに火まで吹かしてミミズが気がついたらドラゴンに進化するまで盛ったものです。特に異世界ファンタジーは。

貴重な体験を小説として昇華させるには日頃から磨いている感性が重要なのでしょう。そもそもそのまま小説になるような体験ができる人は小説なんか書かずに自叙伝としてそのまま書けば良いのですから。

書き手の存在感を主張する。確かに小論文ならともかく小説には不要ですね。書き手の思想や主張は小説家なら登場人物の言動を通じて表現すべきだと思います。

作家さんには後書きや前書きで小説の解説をしたがる方が時折、居られます。作家なら言いたいことがあるのなら「格闘家なら拳で語る」と同様に「作家なら作品で語る」べきだでしょうか?

以前、「背中で語る」は古いとおしゃられて居ましたが私は作家に限らすクリエーターであるなら「作品で語る」ことが正しいように思えます。人の心を打つ作品というモノは例外なく作品にクリエーター自身の人生が詰まってモノですから
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

「異世界転生」ものは確かに十歳未満のエピソードが多く見られますね。
「やり直し願望」があるとすれば、その頃まで戻ってやり直したい、と思う書き手が多いのでしょうか。

ミミズがドラゴンになるたとえは、さすがくろの介様と関心致しました。
確かに異世界ファンタジーは、書き手の人生にあれこれ脚色しまくって作られますよね。
伝記をあまり読まない方は、自分ひとりの人生しか知りません。だからさまざまな人生があるとはわからず、自らの人生を脚色して「あのときこうしていればこうなったかもしれない」キャラばかりになるのでしょうね。
エジソンでもニュートンでもアインシュタインでもよいので、伝記をたくさん読むのもひとつの文章修行になるように思えます。
他人には自分にない生き方があるんだ、と知るだけでもその後の創作に大きな影響を与えそうです。

おっしゃるとおり、書き手の方が語りたいことは、作品の中で語るべきです。
「背中で語る」は古いのは私の感性が含まれていますね。
創作物で表現しなければ、そもそも創作者を名乗れないようにも思えます。
やはり創作者は生み出した創作物だけで判断されるものですから。
村上春樹氏のように、書き手の存在感だけで作品を売ってしまうようなやり方は拙いはずです。
[一言]
「大きな謎」の解明、「基本となる対立軸」の決着。何れも読み手が最後まで読もうとする動機ですね。コラムにもあるように名作と呼ばれる作品は読む毎に新しい発見があるという特徴もありますね。

ただ、最近はやたら長い、主語、述語、目的語所か修飾語まで連ねたタイトルを付けたがる作家さんがおられます。

其れだけでなく以前のコラムでも紹介された書かなくて良い結末までタイトルに含める愉快な作家さんもおられます。

そしてタイトルを回収すれば素直に完結させれば良いのにそこままタイトルも変えずにズルズル連載を続ける方が結構おられます。読者に作家さんの小説を構成するセンスに疑問を持たれるからやめた方が良いのですけどね。

やたら長いタイトルをつける利点は単に他の作品より目立つ為でしかなく皆が付け始めるとその利点が全く無くなるどころかほかの作品とタイトルだけで識別しにくくなったと云う弊害の方が大きくなるということが理解できない時点でお察しという事なのでしょう。

あと私は「金田一少年の事件簿」が「名探偵コナン」よりも早く連載が終わった理由は「大きな謎」の有無ではなく作品の執筆時にかかる精神的負荷の重さによるものだと思っています。

というのも金田一少年の方は「金田一耕助」シリーズの続編という設定。しかも作風は過去からの複雑に絡み合った因縁に端を発した怨念が現代に蘇り、犯人はまるでそれ憑かれたかのように殺人を繰り返すというオカルト的なものですから、結構、精神的にキツかったのではないかと考えています。実際、不定期でネタが出来れば連載してるみたいですし。週刊誌連載分だけで20冊越えてますから十分でしょう。それに比べて「名探偵コナン」に搭乗する殺人犯は全体的に動機は現代的で衝動的で刹那的、そして子供っぽいモノばかりの軽いものが多いですから筆者の精神にかかる負荷は比較的に小さいと考えられます。尤も私は「名探偵コナン」で一番、評価出来る点を挙げるとすればトリックや推理ではなく大人子供の主人公が本来であれば自分よりも年下の子供の中に無理なくとけ込ませている点です。周囲の子供がいつの間にか主人公と同じ精神年齢になり現時点の年齢設定がおかしくなる、或いは逆に当人が子供になり過ぎ当初設定されている年齢寄りも精神の年齢が低く感じるような矛盾が生じていない点ですね。主人公の仲間の子供たちの中に一人だけ主人公と同じ境遇の人物を入れるというキャスティングが非常に絶妙です。

最後に「金田一少年の事件簿」も「名探偵コナン」もここまでヒットしたのはおそらく連載が週刊誌だったからだと考えます。もし月刊誌で連載されたのであれば多分、アニメ化まではされなかったような気がします。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

おっしゃるように『金田一少年の事件簿』は横溝正史氏「金田一耕助シリーズ」からインスパイアされていますよね。だから連続殺人事件が多いのかもしれません。でも死人が出るほど犯人が絞り込まれてしまうので、ある程度話が進むと犯人がバレやすい構造なのも難しかったところかもしれません。
『名探偵コナン』はサー・アーサー・コナン・ドイル氏『シャーロック・ホームズの冒険』からインスパイアされていますが、「少年探偵団」という江戸川乱歩氏の要素も巧みに取り入れて、卑近な作品に仕上げた点も読みやすさにつながっているように思います。

結末をタイトルに含める作品は、その内容が完結した時点で連載を終えないと、しらけるだけなんですけどね。
そのあたりを軽く考えている書き手が多いから、いつまでも連載してしまうのでしょうか。
あと、長いタイトルはランキング上位になるほど目立つので、かえって憶えにくくなるような気がしています。
本コラムも「小説の書き方」コラム、とだけ憶えておけばよいのに、わざわざ長くしてしまいましたから他人のことは言えないんですけどね(苦笑)。
[一言]
スマートフォンのゲームアプリは小説家を目指す方に限らず何かを目指してる方は手を出さない方が良いでしょうね。コラムで言及されている通りお金も時間も無意味に浪費する上、恐ろしいことに何も手元に残りません。それは既存の第三次産業と大きく異なる点でしょうか?スマートフォンのゲームアプリのガチャを見る度に私は阿片を想起します。

歴史の教科書に記載されたアヘン戦争当時の阿片窟を描いた絵、日々の苦痛を忘れるために阿片を喫煙する労働者の姿がどうしてもスマートフォンのゲームアプリに嵌まる人たちの姿と重なって見えます。

原理はパチンコ依存症に近いのでしょうが勝てば手元に幾ばくかの現金が戻るだけパチンコの方がましなような気がします。

将来的にガチャがどうなるかわかりませんが政治家にしっかり献金した上で税金もガッポリ納めなければ阿片と同じ扱いになるような気がします。

尤も、真剣に何かを目指している人は指摘されるまでもなくスマートフォンのゲームアプリになんか手を出さないでしょうけど。

もしヤルのであれば一つに絞るだけでなく絶対に課金はしないという縛りも設けるべきでしょう。人間は一度でも課金すれば、あまりの確率の低さに二度と課金するかと思う人間と意地になる人間の二種類に分かれます。それゆえに結局、どちらのタイプでもあまり幸せになることはありません。銀行に迂闊に引き出して市場で使えないような巨額の預金を保有する大富豪でもない限り課金はすべきではないでしょう。そういう人こそどんどん課金すべきと思いますがこんな無意味なモノには絶対にお金は使わないでしょう。

いずれにせよスマートフォンのゲームアプリの殆どが数年もすればサービス停止します。最終的には課金したお金は確実に無駄になります。だから、やらない事が一番でその次が課金しない、最後が一つに絞って絶対に意地にならないでしょうか。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

「ガチャ」システムを導入したゲームアプリは害悪ですよね。
本来ならモノやサービスとの対価であるお金を、システム上の0を1にするためだけに費やされるのですから。
ご指摘のとおり、たいていのゲームアプリは数年でサービスが終了します。
いくら「ガチャ」に手を染めても、味わうのは諸行無常だけかもしれません。
始まり自体はカードゲームの《マジック・ザ・ギャザリング》でしょう。ですがそれより悪質なのは、たいていのカードが交換できない点ですよね。『マジック・ザ・ギャザリング』なら要らないカードを欲しいカードと交換して好みのデッキを構築できます。だから「トレーディングカードゲーム」と呼ばれています。しかし多くのゲームアプリでは自力で欲しいカードが出るまで「ガチャ」を回し続けなければなりません。どんなにレアなカードを引いても、自分の欲しくないカードなら交換もできないのですから、まさに宝の持ち腐れです。
本当にいつから「ガチャ」なんてシステムがまかり通るようになったのやらです。

「小説を書く」人なら、そもそもゲームアプリはやらないですよね。やっていたら小説を書く時間がなくなるのですから。
私のように体験したものしか書けない「不器用な書き手」でもなければ、体験する必要もありません。
パチンコは景品が残りますが、「ガチャ」はなにも残りませんからね。せいぜい「自己満足」が残るくらいでしょうか。収集癖がある方は「ガチャ」に手を出さないだけでなく、ゲームアプリ自体にも手を出さないほうがよいですね。収集癖のせいで延々と「ガチャ」を回し続ける方もいらっしゃいますから。
政府も携帯サービスにお金が流れすぎている点を「悪」と認定して、端末代金の値引き制度や解約金引き下げなどを施策しましたが、通信に問題があるというより射幸心を煽る「ガチャ」が最も悪いと思うのですが。なぜか規制されないんですよね。せいぜい「確率の明示」が義務付けられたくらいです。
新しい総理大臣が誕生して、新しい内閣が「ガチャ」規制をするまでは、諸悪の根源を断ち切れないのかもしれませんね。
[一言]
デジタルカメラはメモ代わりに使うことは良いですね。私は小さ過ぎる文字を読むため一々、画像を拡大させる事が面倒なのであまり好みませんが。

学校でノートを取るという行為、おそらく本来の目的は早記術の鍛錬です。それがいつの間にかノートを取りながら教師の話を聞ける人間、ハイスペックな人間だけしか授業に付いていけないという現象を引き起こしました。それが原因で一部の記憶力に自信のない方々が親の敵のように憎まれている暗記主体のカリキュラムに発展したのでしょう。

最近の学校の授業は進んでいる所は板書せずにプロジェクターでパソコンのデータを写した上、電子データを直接か印刷して生徒たちに配布するそうです。そして重要な箇所は歯抜けにして学生自身に記述させる事で授業に集中させる工夫もしているそうです。それだけノートをとる行為は能力が必要な行為だという事を学校側も理解しているということです。まぁその方が教師側の負担も軽減されるのですけどね。

スマートフォンどころかパソコンのない時代に生まれた人間からすれば何とも便利な時代になったと思いますが不思議と羨ましいとは思いません。それは多分、其処までやって貰いながらできない子供とその親にとっては色々、苦しい事になることが解ってしまうからでしょうか。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

ノートをとらせて憶えさせたいのか、話を聞かせて憶えさせたいのか。
教師の側も明確にしておいてほしいところですね。
板書しながら、教科書の隅っこの話を口にして「ここ重要だからね」と言い添える。
黒板が重要なのか話が重要なのか。
おっしゃるとおりハイスペックでなければついていけない状況が生まれていましたよね。

今は情報処理の授業ができたり、小学生からプログラミングの授業をしたりして、子どもにコンピュータをつかいこなせるよう教え始めました。
しかしこちらから押しつけるのではなく、子どもが「これが知りたい」と思わせて自発的に取り組ませるのが最もたいせつだと思います。

スマートフォン時代の現在、まだ黒板に書いていくスタイルが続くのかは疑問に残ります。
教師は内容を憶えさせたいのか、ノートの書き方を身につけさせたいのかがわかりません。
ノートの書き方なんて、人生で学生生徒時代以外のいつに役立つのでしょうかね。
[一言]
電子データの原稿でバックアップ取らない作家が存在するとは驚きです。リスク管理として当然だと思っていたので新鮮です。今は安定してますが一昔前はワープロソフトなんかは負荷が掛かるとすぐにハングアップしました。パソコン自体も何かあるとすぐにブルーバック、強制終了。そして、再起動。それまでの成果が一発で吹き飛ぶという、この世の終わりのような気分を味あうことを経験する事でバックアップの重要性を学習するのですが。
最近は安定しているため、そんな経験しないのでしょうか?
時代も変わったものです。
くろの介様、ご感想ありがとうございます。

今はクラウドがあるので、バックアップという概念すら存在しない方がいるんですよね。
私もHLTされたりブルーバックされたり無反応になったり強制終了されたりと、さまざまな苦難を味わってきました。
最近はクラウド側がバックアップをとることで信頼性を担保していますが、書き手側としてもバックアップはとっておくべきだと思います。
小説の推敲でここの表現が気に入らない、というときがあります。
そういうときにバックアップをとってあれば、一度直した表現を元に戻せるので便利なんですよね。
クラウドにバックアップされるだけでは、昔の表現なんて憶えてくれませんからね。
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